聖騎士の掟
オーウェンが中に入ってから数分が経つのに、物音一つしない。
明らかにこれはおかしい。ティモさんたちがただ寝ているだけだったなら、すぐに賑やかな話し声や足音が聞こえてくるはずだ。
すべて締め切られた窓が、急に不吉なもののように見えてきた。
「……ルー、どうする? わたしたちも中に入った方が……」
「いや。君はイドリスを連れて、すぐに別の場所へ転移するんだ」
有無を言わさぬ調子でルーが言った。
「どうして!? わたしも行く」
「駄目だ。おそらく中には聖騎士がいて、族長一家を人質に取っている」
さらっと言われたけど―――それってかなり緊急事態だ。
「じゃ、じゃあ余計に行かないと……ヘイディたちを助けなきゃ……」
「私が行く。君が危険に飛びこむ必要はない」
「一人で逃げるわけにはいかないよ!」
「逃げてくれた方が助かるんだ」
「でも、」
ゴホン、と、わざとらしい咳払いが聞こえて、わたしとルーはそちらを見た。
二人の従僕を背後に、イドリスが偉そうにふんぞり返っている。
「貴様ら、ぼくが公爵家の者だということを忘れたわけじゃないだろうな? こうした不測の事態のために、ぼくは常に貴重な宝石類を身に着けている。たとえばこのサファイアの指輪は、金に換えれば王都に豪邸を建てられるほどの値打ちがあるものだ。これを材料に、中にいる賊とぼくが直々に交渉してやってもいい。本来なら獣人などどうでもいいのだが、貴族として、人質を取るなどという愚劣な輩は見逃せないからな」
「「………………」」
わたしとルーはイドリスの顔を穴のあくほど見つめた。
イドリスの頬がみるみる赤く染まる。
「な……なんだよ。何か文句があるのか!?」
まず、ルーがゆっくりとイドリスに近づき、とても優しい目をして、タマネギ頭をぽんぽんと撫でた。
イドリスがびくっと体を竦める。
「んなっ!!?」
「君はいい子だね、イドリス。ありがとう」
「はあああああっっ!!?? ふっ、ふざけるなっ!! 下賤な聖騎士ごときが、このぼくに、何がいい子だっ!!!!」
顔を真っ赤にして怒るイドリスは、なぜかちょっと、照れているようにも見えた。
従僕たちは我関せずといった顔で突っ立っている。
ルーは少しかがんで、自分の口に指を当て、イドリスに「しーっ」とした。
「静かに。君の申し出は大変ありがたいけど、相手が聖騎士なら金銭での取り引きは通用しない。聖騎士は聖教会に命を捧げているから、聖教会の命令に従うか、死か、どちらかしか無いんだ」
「…………」イドリスは、ぐっと言葉に詰まった。
「だから、君を勇気ある公爵令息と見込んで頼みがある。君の姉上を連れて、ここを離れ、安全な場所へ行ってくれないか」
「…………安全な場所、って……」
「待って。わたしは逃げないってば!」ルーにほだされそうな弟を見て、わたしは急いで割って入り、イドリスに笑いかける。「イドリス、ありがとう。嬉しかった」
心からの言葉だった。
前世でわたしはひとりっ子で、きょうだいはいなかった。とても欲しかったんだけど、わたしが生まれつき病弱で、入退院を繰り返していたから、両親には弟や妹をつくる余裕がなかったのかもしれない。
だからイドリスという弟がいる「リネット」がうらやましかったし、こうして自分よりも年下のイドリスを前にしていると、とてもかわいく思える。
「ぼっ、ぼくは貴様を喜ばせるために言ったわけじゃないからな!?」
「うん」
ふふっ。顔を真っ赤にして照れている。こういう意地っ張りなところもかわいいなあ!
だから余計に、これ以上危険な目に遭わせるわけにはいかない。
わたしは「リネット」の記憶の中と同じ、不器用だけど優しい弟へ、にっこりとほほえみかけた。
「またね、イドリス。今度はゆっくりお茶でもしよう?」
そう言いながら素早く宝剣を抜いたわたしは、イドリスと従僕たちを包むようにぐるりと切っ先を回し、オーロラの光を浴びせかけた。
「っ…………!! ……… ……」
ほのかな光がゆらめいて消えると同時に、イドリスと二人の従僕は、この場からいなくなっていた。
「……他人だけを転移させることもできるのか」
すごいな、という感嘆と、なぜ君は行かない、という非難の入り混じったようなルーの声音に、わたしは開き直って言った。
「この近くにあるメレディス家の別荘へ転移させたの。こんなこともできるんだから、一緒に行ってもいいよね? それにこっちには聖典の原書がある。聖教会に忠誠を誓った聖騎士なら、それを持っているわたしたちに、簡単に手出しはできないはず」
ルーは目を細めてじっとわたしを見つめた。
「…………絶対に、無茶はしないと約束してくれるか?」
「うん、約束する」
とてもいい返事をしたつもりだったのに、なぜかあまり信じていないような顔をされた。
ティモさんの家の木戸にはいくつか虫食いの穴が開いていて、わたしとルーは音をたてずに家に近づき、その穴から中の様子を覗いた。
広い食堂には明かりが灯っているけど、がらんとしていて、誰もいない。
木戸には鍵がかかっておらず、ルーがそっと戸を開けて先に中へ入り、わたしが入るのにも手を貸してくれた。
中は静かだった。
あまりにも静かだった。
オーウェンはどこにいるんだろう。
ルーが腰の長剣を抜き、先へ進む。
わたしも形だけ宝剣を構え、その後に続く。
食堂を出て、通路を歩き、厨房や他の部屋を見て回る。
一階に人の気配はない。
階段の前でルーが目配せしてきて、わたしはうなずいた。上だ。
息をひそめて階段を上る。
二階には四つの部屋があり、すべての部屋の扉が閉まっていた。
ルーがわたしを手ぶりで階段のところに留め、手近な部屋のドアノブを掴むと、一気に扉を開ける。
―――誰もいない。
他の二つの部屋も同じで、誰の姿もなかった。
こんなことはありえない。ヘッレさんはわたしがこの家を出るとき、夜はシチューにするから早めに帰っておいで、と言ってくれた。この時間に誰もいないなんて、そんなはずがないのだ。
ルーが最後の扉―――昨日、わたしたちが泊まった部屋―――のドアノブに手をかけて、開けた。
そこには、ティモさんたちがいた。
ティモさんは後ろ手に縛られ、床に座っていた。
ヘッレさんとヘイディも同じように縛られ、青ざめて互いの体にもたれている。
そして―――その三人のそばに、心配そうに膝をついたオーウェンがいた。
オーウェンが顔を上げる。
「ルー……こっちに来てくれ」
ルーは剣を下ろし、ゆっくりと彼に近づいた。
わたしには、それがスローモーションのように見えた。
バルコニーの扉の影から男たちが次々と飛び出して、ルーを取り囲み、殴って、蹴って、痛めつけた。
「ルー!!」
駆け寄ろうとしたわたしの腕を、誰かが掴んだ。
振り向くと、いつの間にか後ろに立っていた男―――聖騎士団の銀と青の鎧に黒のマントを着けた、長身痩躯の黒髪の男―――が、わたしを見もせずに言った。
「公爵令嬢リネット゠リーン・メレディス殿。恐れながら聖教会への反逆罪により、あなたへの逮捕命令が出ております。これよりわが聖騎士団が、あちらに転がっているもう一人の反逆者と共に、王都へ連行させていただく」
口調は丁寧だけど、慇懃無礼な男だ。
わたしは逃れようともがいたが、黒髪の男の力は強く、びくともしない。
「離して! オーウェン、ルーを助けて!!」
オーウェンが立ち上がると、その手に持っていた短剣が見えた。
ぞっとした。
彼は今までその短剣を、ヘイディに突きつけていたのだ。
だからルーは少しも抵抗しなかった。
オーウェンは、信じられないほど冷え冷えとした顔をして言った。
「……リネット、こんなことを言うのは気が引けるがな、《金獅子》だって助かろうだなんて思っちゃいないだろうよ。聖騎士の掟は単純だ。聖教会の命令に服従するか、死か。そいつは聖教会に背き、生贄の儀を逃れた。だが、遠からず死がやって来ることは、そいつが一番よく知っているはずだ」




