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聖典

《共振術》でわたしがエルベレスの過去を覗きはじめてから数日が経ち、彼女が聖典の第一章、ローレンシア民族の起源についての章を書き終えても、アーレンディルは会いに来なかった。


 第二章、侵略者についての章も、数週間したら書き終えた。

 第三章、聖戦の事細かな顛末についても、書き終えた。

 第四章、聖戦後の王制のはじまりと、愛と慈悲の教えについても。

 第五章、大聖女が使った六つの法術についても、すべて書き記してしまった。


 ここまでで、もう何十日書き続けているのかわからなくなってしまった。窓から光の射しこむ時間が少しずつ短くなっているような気もするけれど、正確な日にちはわからない。ただ、長い間エルベレスが恋人の訪問を待ち焦がれ、けれどアーレンディルは一度も会いに来ていないということだけはわかる。

 その間、エルベレスは一歩もこの神殿から出ず、出ようと試みることもせず、一日に二度、木の実と果物の質素な食事をして、あとの時間はずっと聖典に羽根ペンを走らせている。


 わたしは第五章を書き終えたエルベレスが、次は、最後の第六章、聖祭と生贄の儀式についてを書きはじめるのだと思っていた。

 大聖女が、千年後とはいえ、聖騎士を自分の生贄になど望むはずがないというわたしの考えは、《共振術》でエルベレスの行動を知るようになってからますます強くなっていた。

 ただ、聖祭についての記述自体はあるだろうと思っていたけど―――その予想は見事に裏切られた。


 大聖女は第五章を書き終えると羽根ペンを置き、机の抽斗から、今まで書いていた聖典とまったく同じ装丁の真新しい書物を取り出した。


 その新しい本の表紙を開く。

 中はまっさらな白紙だった。


 エルベレスは既に第五章まで書いた方の聖典の一ページ目を開き、同じ内容を、新しい方の聖典に書き写しはじめた。


 第一章、と記したエルベレスの特徴的な文字を見ながら、わたしは自分が興奮しているのを感じていた。

 一から写本をはじめた―――ということは、先に書いていた聖典は、()()()()()()()なんだ。


 もしかしたら、大聖女は生贄については書いていなかったんじゃないかと思っていたけど、まさか、第六章自体が書かれていなかったなんて!

 エルベレスが書いた聖典は、もともと第五章までしか存在しないものだったんだ。

 それを、後世の人が―――何のためかは知らないが―――聖祭と生贄についての第六章を書き加えた。


 わたしはエルベレスを抱きしめたい気分だった。

 そうだよね、大事な仲間の聖騎士を生贄になんて、あなたがするはずないよね!


 早く自分の体に戻って、このことをルーに伝えたくてたまらない。

 でも自分から《共振術》を使ったわけじゃないわたしは、どうやって千年後の自分の体に戻ればいいか、さっぱりわからなかった。相変わらず大聖女の理力はすさまじく強くて、ここから離れるすべが見つからない。


 そうこうしている内に更に数十日が経過して、大聖女は聖典の写本を終えてしまった。

 二冊の聖典を閉じ、小さく息を吐きだすと、一冊を持って立ち上がる。


 エルベレスが向かったのは、自分が寝起きしている、粗末な寝台だった。

 思い切りよくシーツを剥がし、石の寝台をむき出しにする。

 彼女が手を石に当てると、石はたちまちやわらかい粘土のようになった。

 それを両手で掬ってどけて、中にぽっかり空いた空間に、聖典を入れる。

 それからさっきどかした粘土のような石を、元に戻した。


 わたしは内心、はて? と首を傾げた。

 エルベレスは一体何をしているんだろう。

 まったく同じ二冊の聖典の内の一冊を、石の寝台に隠した?

 何のために?


 だけどエルベレスが答えてくれるわけもなく、彼女はもう一冊の聖典を手に持つと、すたすたと扉の方へ歩いて行った。

 ルーも言っていたように、この扉は、どうも中からは開けられないようになっているようだった。

 現に大聖女は、わたしが見た限りただの一度も、ここから外へ出たことはない。


 けれどもそんなことは気にも留めない様子で、エルベレスは扉へ向かって歩く。

 彼女が扉に触れると―――ずっしりと重いはずのそれは紙のように、音もなく簡単に外へ開いた。


 当然のような顔をしてそこを通り抜け、エルベレスは落ち着き払った足取りで神殿を出る。

 神殿が建っているのは、ほんの数十平方メートル程度の小島のようで、あたりは一面の泉に取り囲まれている。


 エルベレスは水面に近づき、鏡のように凪いでいるそれを覗きこんだ。


 瞬間、わたしの魂はぞくっと震え上がった。


 肩に流れ落ちる見事な薄紅色の髪。

 乳のように白くなめらかな肌。

 緑の炎に似た輝きを宿す、エメラルドの瞳。




 水面に映る大聖女の姿は、わたしの心を麻痺させ、破壊してしまいそうなほど―――あまりにも暴力的に、美しかった。




『……ひぃっ!!』


 押し殺したような悲鳴が聞こえた。

 見ると、たった今小舟から降りてきたらしい皺くちゃの小柄な老人が、大聖女の姿に驚き、青ざめた顔で尻もちをついていた。

 傍らには、あの食料を入れた籠がひっくり返っている。


『だ、だ……大聖女さま……い、一体どうして神殿からお出になったので……?』

『王との約束通り、聖典は書き終えた』


 エルベレスが感情のこもらない声で言い、聖典を無造作に老人に差し出した。老人はそれを、まるで毒蛇か何かのように、震える手でこわごわと受け取る。


『アーレンディルはどこ?』

『し……知りません……どこか、戦場に…………』

『いいわ。自分で探すから』


 そう言うとエルベレスは地面を蹴り、ふわりと宙に浮いて、ツバメのようにさざ波を立てながら、水面の上を()()()




 ―――これは一体なんだろう。わたしは何を見ているんだろう。

 ()()()

 そんなことはありえない。


 大聖女の法術は六つ。


 法術の一、《感応術》。

 法術の二、《共振術》。

 法術の三、《傀儡術》。

 法術の四、《転移術》。

 法術の五、《変異術》。

 法術の六、《治癒術》。

 

 何度数えても、ない。

 空を飛ぶなどという、そんな法術は、聖典の第五章のどこを読んだって書いていない!!


 だけどそれ以上何も考えることはできず、空中を飛翔していたわたしの視界は、ふっと消えた。

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