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大聖女エルベレス

 ぼんやりと焦点が定まってきて、木の机の上に広げられた分厚い書物と、そこに羽根ペンで文字を書きつける白く美しい手が見えた。

 だけど、視界は霧の中のように、ゆらゆらと霞んでいる。


 ああ、やっぱりこれは、千年前の大聖女エルベレスだ。

 わたしはこのイニス神殿に住んでいた頃のエルベレスの精神と共振して、彼女の感覚を共有している。その証拠に、彼女が今記しているのは聖典―――そもそものローレンシア民族のはじまりについて説明している第一章―――であり、ただ書き物をしているだけなのに、エルベレスの体からは、ほとばしるような理力を感じる。

 それはまるで抗えない引力のようで、わたしが意図せずに《共振術》を展開することになったのも、この場所にあったすさまじい理力の名残りに、わたしの中にあった大聖女の理力が勝手に共振をはじめてしまったからなのだと理解する。


 わたしは大聖女の目で周囲を見ているから、大聖女自身は見えない。まだ真新しいイニス神殿の内部と、いくつかの質素な調度品と、執筆途中の聖典が見えるだけだ。


 たぶん、ここには他に誰もいないのだろう。神殿の中はとても静かだ。

 大聖女は、さっきからずっと聖典の第一章を書き続けている。


 かなり聡明な人のようで、下書きもなしに、たまに少し考え込むだけで、すらすらと国の起源を書き記していく。

 字はきれいだけど、少し癖のある字だ。上下に長く、まがる部分は鋭く、はねる部分はシュッと勢いよくはねている。なんていうか……結構気の強そうな人だという気がする。もちろん騎士たちを率いて外敵を討伐した大聖女なのだから、強い人なのは間違いないだろう。


 第一章の二を書き終えたところで、大聖女は立ち上がり、厨房へ行って水差しの水を錫の杯に注いで飲んだ。

 水を飲み干して、杯を置く。

 ザザッ、とどこかから物音が聞こえ、エルベレスは瞬時にそちらを見た。

 頑丈な扉の向こうから―――何か大型の鳥が地面に降り立ち、また羽ばたいたような音が聞こえた。


 エルベレスは扉に近づき、しばらく佇んで耳を澄ませていた。

 それから、もう何も聞こえないとわかると、机に戻って聖典の執筆を続けた。




 次の日も、大聖女は聖典を記した。

 その次の日も聖典を記した。だけどこの日は、昼頃に小舟の音が近づいてきて、それが上陸した音がすると、エルベレスは礼拝堂の窓の下へ行った。

 足音がして、窓の向こうに誰かがやって来た。

 しわがれた老人の声。


『大聖女エルベレスさま、お食事を持って参りました』

『ここにいます』


 ……あ。

 この声。老人に答えた声は、わたしがさっき、イニス神殿で一人になったときに聞いたものと同じだ。不思議な声域の、静かに歌うような声。


 それからガタガタと窓の外で音がして、窓から、太い縄にくくりつけられた籠が、下ろされた。


 大聖女がそれを受け取る。中身は木の実に、果物に、水の入った革袋。


 それを見ていたわたしは、少なからずショックを受けた。

 手渡しさえしないのか、と。

 これでは―――これではまるで、本当に、監獄に閉じ込められているようだ。


 エルベレスは黙々と籠の中身を取り出し、空になった籠を、軽く引いた。

 それが合図なのだろう、縄が引かれ、籠がするすると上へ引き上げられる。

 エルベレスが尋ねた。


『アーレンディルは、どこにいるの?』


 一瞬、籠が止まり、老人が答える。


『内戦鎮圧のため出撃されており、どこにいらっしゃるかは存じません』

『そう』


 籠が窓の向こうへ消えると、エルベレスは机へ戻った。




 それから大聖女は、来る日も来る日も聖典を書き続けた。

 三日に一度はあのしわがれた声の老人がやって来て、顔を合わせることもなく食料と水を差し入れる。

 そして、エルベレスは必ず老人に尋ねた。


『アーレンディルはどこにいるの?』と。


 老人の答えは決まって、戦に出ているのでわからない、というものだった。




《赤毛のアーレンディル》は、大聖女の死後、弟子たちによって書かれた聖典外伝にその記録が残っている、筆頭聖騎士だ。

 人並外れて強く、美男子で、誠実で、人望もあったらしい。

 アーレンディルは大聖女エルベレスからの信頼が最も厚く、聖戦の間は常に、アーレンディルが身を挺してエルベレスを守っていた。

 そして外伝によると、エルベレスとアーレンディルは愛し合っていたという。


 聖典の《外伝》は、大聖女本人ではなくその弟子たちが後年したためた、いわば聖典のスピンオフ的な書物だ。

 聖戦の登場人物たちの人となりや物語、それから後日談のようなものが多く載っていて、読み物としても楽しいんだけど、その性格上、聖教会は公式には《聖典》として認めてはいない。

 だから、公然と二人の恋愛を否定する神学者だっているんだけど―――少なくともわたしが《共振術》でエルベレスの行動を見ている限り、彼女は本当にアーレンディルを恋い慕っているように感じられる。


 だけど―――それにしては、アーレンディルがちっとも彼女に会いに来ないのが気にかかった。


 恋人なら、エルベレスをこんな寂しいところに放っておいたりしないで、もっと頻繁に会いに来るよね? 

 それとも、この時代の恋愛はこういうストイックなものだったんだろうか。

 わたしだったら、好きな人には毎日だって会いたいと思う気がするけど……恋愛経験ゼロのわたしが、大聖女さまに言えるようなことじゃないけど……まあ、赤毛の聖騎士さんの方も、戦後処理とかで忙しいのかもしれないしね。千年前だから交通の便も悪いだろうし。

 恋人なら、きっとその内来てくれるだろうけど。




 だけど、それから何日経っても、アーレンディルは会いに来なかった。

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