姉と弟
わたしは「リネット」の記憶にある弟を思い出し、やるせない気分になった。
記憶の中のリネットとイドリスは、お世辞にも仲のいい姉弟とは言えなかった。
無理もない。そもそも両親が不仲で、というよりもむしろ家族全員が他人同然で、城館のように広く煌びやかな屋敷の中は、いつも寒々とした空気が支配していた。
父親は、何人もの愛人を囲っていて、由緒あるメレディス家の家計が傾いていても構うことなく、財産を湯水のように女に溶かすような人間だった。もちろん、二人の子どもを顧みることなど、ほとんどなかった。
母親は、そんな夫に対抗するかのようにハンサムな若い愛人を作り、美しいドレスを着て高価な香水を振りかけ白粉を塗りたくっては、夜遊びに明け暮れた。子どもたちよりもずっと、社交と名声を大事にしていた。
だけど、だからこそ、リネットとイドリスは優秀な子どもだった。
勉強や技芸をがんばれば、少なくとも、名声を重視する母親には褒めてもらえたから。
それが一時的な愛情だったとしても、優しい言葉をかけてもらえた。
愛情に飢えた子どもにとっては、その一言が、砂漠でさまよう人間にとっての水一滴のように、大事だったんだ。
そして、だからこそ、元々成績優秀なリネットは、来るべき聖祭で大聖女の憑代となるべく、血の滲むような努力を重ねた。
神学と修練と祈りの日々は、ただひたすら、母親に褒めてもらいたい一心だった。
――その努力も、わたしがぶち壊した。
「ごめんね、イドリス。迷惑をかけて、本当にごめんなさい」
弟の目に宿る悲しみを見て、わたしは心から謝った。
イドリスだって、やりたくてこんなことをやっている訳じゃない。家の存続を考え抜いた末での、苦渋の決断だったんだろう。逆に言えば、わたしのやったことがそれだけ重大だったということだ。
弟は高慢だけど、優しいところもある子だ。
誕生日なのに母親に会えず、わたしが一人で泣いていたとき、この子はわたしの部屋の外に、庭で摘んできたイチゴを数粒そっと置いて、何も言わずに走っていった。そのイドリスの小さな後ろ姿は、「リネット」の記憶にはっきりと刻まれている。
だけど謝ったことで、イドリスは逆上した。
「……ふざけるなっ! 今さら謝ったって遅い!! 本当に申し訳ないと思うなら命で償え! 逃げ隠れせず、その首を陛下に差し出せっ!!」
「それは、できない」
「…………貴様、」
「イドリス、聞いて。わたしは聖祭で大聖女になった。そして大聖女になったわたしには、ああすることしかできなかった。あの場から逃げて、《金獅子》を助けることしか。他の選択はなかったし、それは今でも正しかったと思っている」
「何を馬鹿なっ……」
「今からわたしは、イニスの遺跡に行く。だって、おかしいでしょう? 愛と慈悲を説く大聖女が、どうして千年後に仲間の聖騎士を生贄にして殺せという内容の聖典を書いたの? それとも、大聖女はそんなことを書き残してなくて、後世に他の人間が書き足したものなの? ……本当は、聖祭なんて要らないのかもしれない。大聖女が晩年を過ごしたイニスの遺跡に行って《共振術》を使い、エルベレスの考えを理解することができれば、陛下も聖教会も聖祭を行うべきという考えを変えてくれるかもしれない」
「…………」
イドリスがわたしに向ける眼差しの険しさが、ほんのわずかに弱まる。
更に言葉を続けようとしたとき、
地面が大きく揺れた。
「うわああああああああっ!!?」
大地に揺さぶられ、たちまちイドリスの顔面が蒼白になる。
従僕たちの体もまるで踊るようにたたらを踏み、イドリスから離れる。
気がつくとわたしは、へたり込んだ弟を守るように、その頭上に覆い被さっていた。
何度か同じような揺れを繰り返して、数分後に、地震はようやくおさまった。
わたしは自分の腕の中にいる弟が、頭を抱えて小さくうずくまり「終わりだ、この世の終わりだ、地面が裂ける……」と呟いているのを見て、思わず笑ってしまった。
ローレンシアでは地震なんて滅多に起こらないけど、その分、起きたときには怖いものなのかもしれない。
「地震、怖かったね」
「こ、怖くなんかない! 驚いただけだ!!」
イドリスは裏返った声でそう叫び、我に返ってわたしを見た。
わたしはこの隙を逃さず、イドリスの肩を掴むと、まっすぐにその目を覗きこんだ。
「イドリス、わたしと一緒に来て。勝手なのはわかってるけど、大聖女が本当は何をしたかったのか、イドリスにも知ってほしい。それで、もし生贄の儀式なんて本当は必要なかったんだってわかったら、メレディス家のためにも、それをみんなに教えてほしい」
「…………勝手過ぎる!!」
「ごめん。でも……お願い」
イドリスは色素の薄い顔を真っ赤にして下を向き、黙りこんだ。銀の糸のような髪が顔にかかり、表情は見えない。
やがてイドリスはうつむいたまま小さく、勝手過ぎる、と繰り返した。
*****
「リネット!! どこにいたんだ!?」
イドリスと二人の従僕を連れて元の道に戻ると、遠くからルーが走ってきた。どうやら、かなり手前の方まで探しに行ってくれていたようだ。
額に汗を浮かべたルーは、いつもの泰然自若とした彼とは違いずいぶん余裕がなさそうだった。そんなときでも美しい、というか、頬が紅潮してますます艶然としているんだけれども、そんな風に鑑賞している場合じゃなかった。
「ルー、ごめん。ちょっと事情があって……」
襲撃された、とは言わずに濁したのに、ルーは自分を不倶戴天の敵のごとくにらみつけるイドリスの銀の髪と紫の瞳を見て、大体の事情を察したようだった。
「……リネットの弟か……?」
「貴様あぁっ!! リネットだと!? 聖騎士ごときが、こともあろうに五大公爵家の令嬢を、呼び捨てだとっ!!?」
「ま、まあまあ……」
「おっ、いたのか、リネット! きれいな蝶々を追っかけて迷子にでもなったのか?」
藪の中から現れ、はははははっ! と大声で笑うオーウェンに、イドリスの顔が更にどす黒く染まる。
否定できないところがつらい。
「貴様ら……! 公爵令嬢をそんな阿呆だと思っているのか……!!?」
「ま、まあまあ……イドリス、この人たちは聖騎士のルー゠ギャレス・クラドックと、オーウェン゠ロイド・ブレイニー。イニスの遺跡まで一緒に来てくれるの。ルー、オーウェン、この子はイドリス゠ウェイン・メレディス。わたしの弟で……この子も一緒に、遺跡まで連れて行っていいかな?」
「行くと言った覚えはない!!」
「なんだ、タマネギ頭。元気がいいな?」
オーウェンの言葉に、わたしは思わず吹き出してしまった。
イドリスの形のいい頭は、さらさらの銀髪が丸いフォルムにカットされていて、つむじのところの毛がょこんと上向きになっている。黙っていれば美少年なんだけど、そう言われればこの子の頭、タマネギにそっくりだ。
「誰がタマネギ頭だっっ!!!!」
イドリスがぶるぶると震えながら激怒する。
この調子じゃ、今日だけで頭の血管が数本切れているかもしれない。
イドリスの従僕二人はもうすっかり《傀儡術》が解けていたけれど、もともと無表情なのか、あまり変化がない。たいして興味もなさそうに、主人と大柄な聖騎士のやりとりを離れて見守っている。
ルーは子どもじみたやりとりには加わらず、思案顔をしていた。イドリスたちが追ってきたことで、他の追手も間もなくやって来るだろう、と思っているのかもしれない。
たとえば、聖教会から命じられた聖騎士とか。
ルーはまだイドリスをからかっているオーウェンに言った。
「オーウェン、案内の続きを頼む……少し、急いだほうがいいかもしれない」




