反復・ニヒリズム・横跳び
体育館を、規則正しい振動が小刻みに揺らしている。俺の身体にも振動が伝わる。その振動の発生源は、決して太平洋沖ではない。目の前で反復横跳びをしている十五人の生徒である。
規定の二十秒の計測が終わり、一組と二組が入れ替わる。二組の十五人が三本の白線の中央を跨ぐと、俺は彼らに向かって言う。「最後まで全力でやること。八点取れればいいとか思うなよ」自分のことを言われたのだと察した一組の数人は、気まずく笑う。
俺は左手にストップウォッチ、右手にホイッスルを構えているが、その最中も、ずっとあることを考えている。他ならぬ自分の“点数”のことである。
昨夜帰宅したとき、紙切れが一枚、食卓の上に乗っていた。
『出ていきます。美世の養育費は要りません』
俺はすぐに、それが我が結婚生活の答案用紙であることを悟った。
俺は思った。どうして?何が間違っていた?どうすれば正解だったのだ?
ラップの掛かった夕食の残りすら乗っていない、寂しいテーブルの上で、俺は頭を抱えた。文科省のホームページを見たって、基準も模範解答も載ってやしなかった。脳内をこだまするのはいやらしい自問だけだった。すなわち、俺の結婚生活は何点だったのだ?俺という男は何点なのだ?
俺はやや呆然といった様子で、ホイッスルを口にあてがう。
「用意。始め!」
高い笛の音が短く響き、二組の十五人が一斉にステップを踏み始める。彼らは左右の白線にギリギリつま先が付くようにして、可能な限り効率的にステップを継続しようとする。体育館の床と彼らの内履きが擦れる音は、キュッキュッとうるさい鳥の鳴き声のように響く。右、左、右、左。リズムは印象的に耳に残る。タン、タタン。タン、タタン。キュッ、キュキュ。キュッ、キュキュ。
俺は考える。どちらが悪かったのだ――?俺が悪かったのか?ああ、きっとそうなのだろう。そうでなければ、由紀は自分が悪いのに自分で出ていった馬鹿者ということになってしまうではないか。
いや、案外由紀は馬鹿者だったのか?ああ、そうかも知れない。仕事をしているとはいっても、彼女の仕事はパートのようなものなのだ。美世の将来の足しにするために、雀の涙ほどの金を貯金していたに過ぎないのだ。それを『養育費はいりません』だ?これが馬鹿者でなくてなんだというのだ。第一、美世はどうするというのだ。
一番先頭で反復横跳びをしている彼は、俺と一メートル程離れている。彼のリズミカルな呼吸が俺のところに届いてくる。彼は右線を踏むときは右のつま先を、左線を踏むときは左のつま先をキッと見つめ、ただその動作を反復するだけの機械になっている。汗をかいている様が、蒸気機関のように見える。十九世紀イギリスの、巨大な振り子のように見える。
俺は思った。なあ、蒸気機関の振り子さんよ。俺と由紀と、どっちが悪かったと思う?お前が最後に踏んだ線が右なら俺が、左なら由紀が悪かったってことにしようと思っている。だから頼む。左を踏んで終わってくれないか――。
深夜零時。布団。
彼は残酷にも右を踏んだので、俺は精神衛生のために思考方針を転換した。
俺は考えた。結局、どっちが悪くたっていいだろう。どのみちもう、アイツは戻ってこないんだから。それにしても、女ってのはどいつもこいつも勝手に過ぎる。男の側の都合なんてモンはこれっぽっちも考えやしねえ。感情第一。自分第一。さりげなく娘まで連れて行きやがって。一言の相談も無しに。……弁護士だ。そうだ、弁護士だよ。そりゃそうだ、夫の許可無しに離婚して娘まで連れていくなんて、そんなこと許される訳無え。
争い?そうだよ争いだよ。これはアイツと俺の私的紛争。弁護士交えりゃ法的紛争だ。ああイラつく。イラつくイラつくイラつく。クソッ!
クソッたれ!!絶対吠え面かかせてやる!!
――これが思考と呼べるかどうかは学会でも意見が分かれ、諸説ある。
深夜一時。布団。
俺は泣いていた。泣きながら、グダグダと続けた思考はもはや明後日の方向へと向かっていた。無意識にそうしていたのだが、そうする以外に、悲しみを紛らわす方法も思いつかなかったに違いなかった。俺は次のように考えた。
問い:
恒久的世界平和は実現するか?
答え:
まず人類が永遠に、未来永劫繁栄すると仮定した場合。この場合、恒久的世界平和は実現しない。何故なら、ある時点における世界平和が恒久的世界平和であると証明できる人間は皆無だからである。
他方、人類が将来何らかの原因で滅亡すると仮定した場合。この場合、それが核抑止の失敗とそれに伴う相互確証破壊の発動によってもたらされた全人類の滅亡でない限りは――例えば地球全体がブラックホールに飲み込まれる等の不可抗力によって滅亡するのであれば――、その瞬間に恒久的世界平和の概念は実現することになる。
つまるところ、恒久的世界平和は実現の可能性を持つが、実現の瞬間に人類は滅ぶ。
滅亡の瞬間に恒久的平和は実現する……か。
俺はそれが実現したところでさほど意味が無いように思えた。なにしろ、そのとき人類はもう滅亡しているのだから。
俺は、自分の結婚生活も同じだと思った。
永遠の夫婦愛は実現するか?実現の可能性はあるが、実現する瞬間に、俺も由紀も死ぬ。
俺はもうすっかり疲れてしまった。眠れないが、無理やり寝るしかないと思い、今日一日のことを頭から追い出そうとした。
考えるな。忘れちまえ。夫婦愛なんて、結婚生活なんて、さほど意味は無いんだから――。
それでも俺の頭の中では、あのリズムが懲りずに響いていたのだった。
タン、タタン。タン、タタン。キュッ、キュキュ。キュッ、キュキュ。
タン、タタン。タン、タタン。キュッ、キュキュ。キュッ、キュキュ。
永遠の夫婦愛が、実現する、実現しない。実現する、実現しない……
由紀、由紀。帰って来てくれ、由紀。