前世の死と謎の復活2
ルーカス・キングストンのことはよく知っている。三年前に開かれた王宮の茶会の際、お母様の形見である大切なハンカチを落として困っていた時に、その場に現れて差し出してくれた。言葉数の多い少年ではなかったが、一目見てレティシアは恋に落ちた。――というシーンを知っているからだ。
「レティシア、どうした」
誰かの声を無視して、少年の顔を見つめ続ける。十四歳のルーカス・キングストンは、まだあどけなさの残る顔貌だ。しかし、将来は誰もが振り返り見てしまうほどの美丈夫になるだろうことが感じられる美しい顔立ちをしている。すでに物語の主人公たる風格を持っているのだ。
「レティシア」
二度、感情のこもらない声色で名を呼ばれ、慌てて顔をあげた。私の父、ジョナス・オルティス公爵は、失望の色を隠すことなく私を見おろしていた。
『王家から、我がオルティス公爵家とキングストン公爵家の縁をより強固なものにせよと命を賜った。お前はキングストン家の子息と婚約することになる。くれぐれもキングストン家の子息の機嫌を損ねるような態度をとらぬよう』
久方ぶりに会話した父は、冷たく突き放すようにレティシアとルーカスの縁談について言及した。それでもレティシアは、胸の内でひっそりと喜びを感じていたのだ。なんせ、相手は密かに思っている相手、ルーカス・キングストンだ。この日のために、メイドに相談しながらしっかりと準備を整えてきた。
父はレティシアに対して特段興味を示さず、無き者として扱ってはいるが決して虐げているわけではない。充分な金を渡し、好きに生きさせていた。今日のレティシアも、その金をふんだんに使って、大層美しく着飾っていた。しかし、そのような見た目の美しさに、ルーカスはほとんど興味を示していない。
むしろ、控えめな色使いの服装のルーカスと相まみえると、レティシアの気合いの入りようは異質にさえ見えた。
私を見おろす彼の瞳には、何の感情も映されていない。――やっぱり、メイドのケイシーの言うことを聞いておくべきだったのだ。レティシアはせっかく美人なのだから、大人っぽい色あいや誘惑することを意識した華美な格好などせず、着飾りすぎずに十四歳らしい装いをするべきだった。
髪の毛もそうだ。最近の社交界で流行っていると聞いて全体にヴォリュームを持たせるような形にしてもらったが、初めにケイシーが整えてくれた緩やかなハーフアップのほうがよく似合っている。
「レティシア嬢?」
「ひ……っ、ル、ルーカス・キングストン?」
不躾に呼び捨てられたルーカスが目を見張った。
可愛らしいソプラノの声が、どうしてか私の言葉を発している。そのことに混乱しつつ、一歩後退する。
狼狽えながら視線を下げると、ワインレッドのドレスと、ほっそりとした手が見えた。その手は爪先まで綺麗に磨き上げられている。闘病する私の爪先は常に血の気を失ったような不健康な色合いをしていた。それとは全く違う手のひらを見つめて、もう一度顔をあげた。
「レティシア、何と失礼な……」
「いえ。構いません。それよりもレティシア嬢、ご気分が優れないのでは」
顰め面のジョナス・オルティスと、ルーカス・キングストンの顔が見える。二人は青ざめる私を見て、一様に同じ名前を口にした。その名前にトドメの雷を落とされ、ふらふらと二人から遠ざかる。
――どうしてこのようなことが起こってしまったのか。それとも夢なのだろうか。
「ご、ごめんなさい。……少し、調子が悪いようで……、ごめんなさい」
震える身体を抱きしめながらつぶやいて、二人の言葉を聞く間もなく走り出す。私は――私は、病室でゲームをしていたはずだ。妹と談笑していて、それから――。
「私の、名前、は……」
どうしてか、自分の名前が思い出せない。顔も声も、何もかもが砂のように指先から零れ落ちていく。
一歩歩みを進めるたびに鮮明に覚えていたはずの記憶が曖昧になり、走りついた先にある姿見に映った姿を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。
「……レティシア?」
なんという夢だろうか。どうやら私はレティシア・オルティスの身体の中に入り込んでしまったらしい。
十四歳のレティシアは幼さを覆い隠すように化粧をして、派手なドレスを身に纏っている。元の美しい顔立ちはほとんど隠されていた。恋愛音痴と呼ばれていた私からしても、あまりにも酷い格好だ。窘めてくれる存在がいないのだろう。
今日はレティシアが待ちに待ったルーカスとの顔合わせの日だ。顔合わせとは、婚約者候補を決める大切な儀式だ。これを行い、男性側が婚約を申し込んだそのときから双方が十八歳を迎える日までの年月を『婚約者候補』の期間としている。
『婚約者候補』の期間とは、若くして将来を約束した男女が心を違えてもよいようにと定められた制度だ。
互いに婚姻の意思がなくなった場合は即座に解消できる。逆に、十八歳を過ぎれば、婚約者候補の期間を持つことなく婚約・または婚姻関係を結ぶことになる。
この国では一度婚約・もしくは婚姻関係を結んでしまえば、それを解消するのはほぼ不可能だ。これは、国の少子化対策であるらしく、特別な事情が国王に認められない限りは離縁することができないため、ほとんどの男女は若いうちに婚約者候補を見つけ、じっくりと互いの相性を見極めた上で十八歳を超えたその日に婚姻する。
「どうしよう……」
その顔合わせの大切な日に、私はレティシアの身体の中に入り込んでしまったらしい。しかも最悪のタイミングで意識が生まれ、一言目が礼儀を欠く最低の呼び捨てになった。
これが夢ならいいが、夢にしてはあまりにも鮮明過ぎる。
気持ちを落ち着けるために歩くうちに、あまり来たことのない所にたどり着いてしまった。レティシアとしての感情を思いだすことはできないが、どうしてかこの邸のつくりや、置かれている立場については理解ができる。戻れば父に失望されることは間違いないだろう。戻らなくても、失望されてしまいそうだが。
「この格好で、お父様は何も思わなかったのかしら……」
ぶつぶつとつぶやきながら歩き、シチューの匂いに足を止めた。
このままではルーカスに嫌われてしまいそうだが、レティシアの未来を思えば、傷が大きくならないうちに失恋しておいた方がよいのかもしれない。そのほうが、ラスボスとなってしまう可能性は下がるはずだ。一人でうんうんと自身を納得させつつ、首を傾げる。
何か、大切なことを忘れている気がする。
レティシアに忠告をしてくれて、さらに、彼女の存在を慈しんでくれているのは、この世界にただ一人、歳の近いメイドのケイシーだけだ。
「……ケイシー」
しかし、この日のレティシアは髪形が気に入らないからと言って、料理長に命じ、彼女の昼食のシチューに毒を混入させる。そうしてケイシーは苦しみながら死んでゆくのだ。これがレティシア――私が初めに犯した殺人だ。
「だめだわ」
呟くのが先か、華奢なハイヒールで走り出すのが先か。考える間もなく廊下を走りきって、ノックすることもなく目の前の扉を開いた。
「ケイシー!」
その名を叫びながら視線を向けると、シチューを口にしようとしているメイド服姿の女性と目があった。
「っ、お嬢様!? な、なぜここに!?」
「食べてはだめだわ!」
今にもスプーンを口に含もうとしている手を掴みあげる。ケイシーは私の突然の行動に目を丸くして、スプーンを手放した。そのスプーンは綺麗な放物線を描いて私の胸元にシチューを飛ばした。
「ひ……っ! お嬢様、ドレスが……!」
「まだ食べていないわよね?」
「たべ、食べておりませんが! それよりも早くお洗濯を」
どうにか間に合ったようだ。焦ってきたせいで、化粧はぐちゃぐちゃだ。ドレスも髪も、酷い有様だろう。しかし、ケイシーがなくなってしまうよりはいい。
酸欠で肩を弾ませながら、プレートに盛り付けられたシチューに手を伸ばす。
「このシチュー、すべて捨てて」
「はい?」
「だから、このシチューを食べてはいけないと言っているの!」
癇癪を起した子どものような言葉に、ケイシーは目を丸くして、何度も頷いた。私が既に、泣き出しそうになっていることを察したのだろう。
「お嬢様、よくわかりましたから、落ち着いてください。……別に私も、少し人参を多くされたくらいで、怒ったりしません」
「人参? とにかくそういうことではないのよ! だめ。捨ててちょうだい!」
上手く感情をコントロールすることができずに、シチューをケイシーから最も遠く離れた場に置いた。視界が滲んでくる。今まさに、目の前で大切な人の命が奪われようとしていたのだ。それも自身の手によって。
恐ろしさに震える私と対峙するケイシーは、困った妹を見るような瞳で私を見つめ、小さく息を吐いた。