星が瞬く夜に7
「最もシンプルな理由だ。レティシア」
柔らかな声と共に、たまらなく優しい指先が震える私の頬をなぞった。
「あなたが好きだからだ。ただそれだけだ。一目惚れだった。いや、正確には、他者を深く思いやるあなたの心の清らかさや、あなたの瞳のひたむきさに心を奪われたというべきだな。あなたはこの身体に聖なる力があることを知れば、間違いなく闇の魔術師を討伐する軍に加わると言うだろう。だが俺は、どうしてもあなたに傷をつけたくなかった。そのために、黙秘し続けていた」
飾ることのない言葉だった。まっすぐに胸に突き刺さって、呼吸が止まりそうになる。
その瞬間、世界には私とルーカスだけが存在していた。
「何よりも先に、レティの危険を排除したかった。俺が軍に加わったのは、あなたのこの力が知られてしまう前に、すべての悪を討つためだ。それ以外の理由はない。……言っただろう。俺は、あなたが思うような誠実な人間ではない。己の欲望のために、あなたの力を隠していた」
ルーカスは私のために隠し続けてくれていた事実を、己の欲望のためのものだと言う。まるで、私に嫌われることを恐れるように瞳を揺らしてこちらを見下ろしていた。
「あなたに軽蔑されても、仕方がない行いだ」
どうしてこれほどまでに、まっすぐなのだろうか。眩しさで胸が潰れてしまいそうだ。
ルーカスは、正しい道を選ぼうとする人だ。いつも最善を選ぼうとする。その人が、信念を曲げてでも私を守ろうとしてくれていた。
そのことの何を責められるだろう。
「いいえ。私こそ、ずっと守ってくださっていたことも知らずに……、愚かでした」
「俺が身勝手にしていることだ」
「それでも! それほどの思いで守ってくださっていることも知らずに……、私は逃げることばかりを続けてきました。戦うこともせず、保身ばかりを考えて……」
「あなたは逃げようと思えば、俺に見つからないどこかへ隠れることもできただろう。ゲームのストーリーに触れないどこかへ逃げて、安全に暮らすこともできたはずだ。だがあなたはそうせずに、人を助け、まっとうに生きるという険しい道をあえて選んだ」
「違います。私はただ……」
ただ、普通の人生を歩んでみたかったのだ。好きな人の側に居てもよい理由が欲しくて、まっとうな人間であろうと必死になっていた。――ルーカスが、好きだからだ。
ルーカスが幸せになる未来を見たかった。それも本心だ。この世界が破滅に向かわぬよう、私の好きな人たちが幸福のうちに生きられるようにしたいと心から願っていた。
だが、それと同時に、どうしても私はルーカスに嫌われたくなかった。
「……ただ、あなたに、見合う人間になりたかったのです」
囁いた声は、みっともなくかすれていた。
もしも私がラスボスにならずに済むのなら、ルーカスに嫌われていないのだとしたら、――彼を思う気持ちを隠す必要もないのではないか。
私を見下ろす彼の瞳は、大きく見開かれていた。
「ずっと前から、私もルーカス様を……、お慕いしている、から」
一生伝えることはできないだろうと諦めていた思いを口にした瞬間、目から何かがこぼれ落ちた。
ずっと前から、私は泣きそうになっていたのだ。こぼれ落ちてようやく気づいた。
こぼれ落ちるそれを隠そうと顔を俯かせかけたその時、全身が柔らかな熱に包み込まれた。
「ルーカス、さま?」
涙の雫が彼の服に滲む。胸いっぱいに彼の匂いが広がり、耳元に熱い吐息を感じて、息が止まりかけた。
「レティ」
「は、い」
「……現実だな?」
噛み締めるような声に、僅かに喜びの色が混じっている。確かめるように抱きしめる腕に力を込められて、ゆっくりと頷いた。私の頷きに、ルーカスがまた一つ、熱いため息を吐いた。
「夢のようだ」
「ゆめ、でなければ、……嬉しいです」
「あなたにとっては、つまらぬ婚約者候補だっただろう」
「そのようなことは、ありません。いつもお忙しいのに会いに来てくださって、どのようなつまらない話にもじっと耳を傾けてくださいました。……それだけでなく、こうして私の些末な話を覚えていらっしゃったのです。……とても嬉しいです。会えば会うほど気持ちが大きくなって……、この気持ちのせいで、私は本当に闇の魔術師になってしまうのではないかと恐れるくらい、あなたを」
「レティ」
不安を抱きしめるように優しく名前を呼ばれ、頭の中に浮かんでいた最悪のシナリオが霧散していく。
「仮にあなたが、闇の魔術師となる素質を持っていたとしても、そうなることは決してない。……あなたは俺を思い、俺もあなたを思っている。この世界に、あなたと俺が離別する理由などどこにもない。レティが十八を迎え次第、婚姻を結べばいい。未来永劫、俺はあなたのものだ。……違うか?」
子どもをあやすように背中を撫でられ、広い胸に額を寄せる。
目の回るような告白だ。
ただ思いを通じ合わせるだけでなく、その先の未来を約束しようとしてくれている。絶対に訪れないと言い聞かせていた幸福が、目と鼻の先にある。到底信じられず、縋るように抱きついた。
「私が幸せになっても、よろしいのでしょうか」
「この身体はあなたのものだ。不安なら、サイラス殿下に鑑定していただくこともできる。俺よりもその能力に長けたお方だ。殿下には、おそらくあなたが聖女であることを知られている。そのうえで目を瞑ってくださっているんだ。……必ず力添えしていただけるだろう」
「サイラス殿下が……?」
言われてみれば、殿下は何度か私の手に触れようとしていた。ありとあらゆる力を感じ取ることができる殿下ならば、私の身体が誰のもので、何の魔力でこのような入れ替わりが起こったのかを調べることもできるだろう。
「ああ。もしもあなたがゲームのレティシア嬢のように、闇の力を持つ者となる未来があったとしても……、どのような手を使ってでも俺があなたを助ける。――レティシア」
名前を呼ばれ、ゆっくりと身体を離す。
騎士の誓いのように片膝をついたルーカスが、私の手の甲にそっと口付けた。
「これはあなたの人生だ。あなたの思う通りに生きていい。誰に引け目を感じる必要もない。あなたの自由な意思で、未来を選んでほしい。……俺との未来を望んでくれないか」
ルーカスらしい、まっすぐな言葉だった。真剣な眼差しに胸を突き刺されて、泣き出しそうになるのを必死に堪えている。
この人の隣を歩くことが許されるなら、どれだけ幸せだろうか。この人に見合う人でありたい。ただそれだけの思いで、私は強くなれる気がする。
切なる問いに、ゆっくりと頷く。私の答えを見届けた彼はこの世の全てを手に入れたかのような満ち足りた笑みを浮かべた。
「レティ、あなたが好きだ」
「はい。私も、お慕いしております。……かなうなら」
「ああ」
「もう一度、抱きしめてくださいませんか」
私の願いを聞いたルーカスは、やはり喜色に溢れた笑みを浮かべながら、そっと私の身体を抱きしめ直してくれた。
彼の熱が伝わってくる。ここに生きているのだということが、はっきりと感じられた。
借り物の人生を生きているのだと思っていた。だが、もしもそうではないのなら、私は私の人生を歩んでもよいのだろうか。
――お嬢様、今まで、私がやりたいようにするべきだとお伝えして、悪い方向に向かったことはありましたか?
どこかで、ケイシーの自信に満ち溢れた声が聞こえた気がした。おかしさに笑いながら強く縋り付くと、ルーカスは言葉なく同じように抱きしめる腕に力を込めてくれた。
この夜の奇跡を、私はきっと、一生忘れないだろう。世界の全てが美しく輝いて見えた。
――しかし、すべてがうまく行くような気がするときほど、世界は残酷を叩きつけてくるものだ。




