星が瞬く夜に6
「もちろん、無理強いはしない。俺の思いは変わらないが、あなたが望むなら関係を解消する。そういう約束だからな」
私の頬に寄せられた手が、ゆっくりと肌を撫でた。優しい手つきに、どうしてか泣きたい気分にさせられる。彼がどれほど私のことを思ってくれているのかがはっきりと伝わってくる。優しくも温かい慈愛のこもった手つきだった。
「あなたの秘密についても、気が進まないのであれば無理に話す必要は――」
「……レティシアではないのです」
唇から零れ落ちた言葉に、ルーカスは一瞬目を見張った。言葉の先を促すように、ただじっと私の瞳を見つめている。
どうすれば、ルーカスのような清廉潔白な人に見合う人間になれるだろうか。何度考えても、この秘密を抱えたまま、隣に立つことができるとは思えなかった。
やはり、これほどまっすぐに思いを寄せてくれている相手に、嘘を吐くことなどできない。
「私は、レティシアではないのです」
再度はっきりと告げて、震える指先を握りしめた。
「ルークのような、誠実な人間ではないのです。私はこことは別の世界で生まれた人間で、……すでに死んでいます。私は――」
「レティ」
握りしめてもなお震える手に、そっと大きな手が触れた。優しく名前を呼ばれ、忘れかけていた呼吸が戻ってくる。彼は私の姿をじっと見つめ、静かに囁いた。
「ゆっくりでいい。……不安に思うことがあれば、手を握ってくれ」
美しい星がそこら中に散らばる湖の畔で、ただ彼の瞳だけを見つめていた。何よりも美しい。
きっと、はじめてその瞳に見つめられたその時、私はすでに恋に落ちてしまっていたのだ。
「前世の私は、身体の弱い人間でした。治療を続けるだけの毎日の中で、妹がゲームという、物語の主人公の行動を選んで遊ぶ玩具を貸してくれたのです。その物語の中の主人公が、ジェシカ様でした」
私が知るすべてのことを、ゆっくりと語っていく。
ルーカスはいつものように、口を挟むことなくただじっと私の言葉を聞いてくれていた。
前世の私のこと、聖女の信愛のこと、そしてゲームのレティシア・オルティスのこと。私がここまでの四年間に、バッドエンドを回避しようと奮闘してきたこともすべて語り尽くした。
話している間、ルーカスは決して私の手を離すことなく握り続け、私が語り終えると、しばらく考え込んでゆっくりと口を開いた。
「しかし、あなたが邪悪な力を扱うようになるというのはにわかに信じがたい」
「ですが、ゲームの中の私は確かにその術を得ているのです。何らかの力で私が操られてしまう可能性も充分にあります」
「……あなたが気づかないようだから黙っていたが」
不自然に言葉を切ったルーカスは、私の手を握る指先にやんわりと力を込めた。
「……何、ですの?」
「あなたの手には、すでに聖なる力が宿っている」
「聖なる、力……?」
「一般には知られていないが、聖女には二つの力があると言われている。いずれも闇を払う力だが、方法が異なる。……一つはジェシカのように、武具で闇を討つ力だ。そしてもう一方は、あなたのように、触れることで災いを払う力だ。あなたに触れられた者は、気が落ち着いたり、体調がよくなったりしたことがあるだろう」
ルーカスの言葉に、数々の記憶が蘇ってくる。とくにロージーは何度も、私に触れられると気分が落ち着くと言っていた。
「で、ですが、そんな……」
「血筋からしても、あなたが聖女であることはなんらおかしなことではない。王族の安寧のため秘匿されているが、歴代の聖女は、必ず王家の血を引いている。あなたの母方の祖母は先王の妹君だろう」
「王家の血を……? ですが、ジェシカ様は」
「ジェシカも、……いや、ジェシカ様も王族の血を引いている。これもまた伏せられていることだが、あの方は王弟ユラン殿下が我が領に保養に訪れた際に生まれた子だ。ゆえに秘密裏にお守りするよう命を受けていた。……決して、不埒な感情など抱いていない」
公爵家の嫡男であるルーカスと平民の娘であるジェシカが共に育てられてきたということには、違和感を持っていた。しかし、このような経緯があるとは思いつきもしない。ジェシカの出自は国を揺るがすような秘密だ。
「そのような大切なことを、私にお話してよろしいのでしょうか」
「レティもすべてを打ち明けてくれた。俺も話すのが道理だろう。……あなたからも、気になることがあれば何でも聞いてほしい」
知ってはならないことなのではと思い立って慌てて声をあげるも、きっぱりと言いきられてしまった。清々しい返答に、わずかに口を噤む。
疑問はいくつもある。
ゲームのレティシアには、聖力などないはずだ。そして何よりもなぜ彼は、私に聖力が備わっていると確信しているのか。
「なぜ……、私に聖力があると思われるのですか? 確かに、触れられると気分が落ち着くと言われることはありますが……。聖女だなんて……、恐れ多いですわ」
ルーカスは度々、私が人に触れることを嫌がっていた。あれは、私が何か良からぬことをするのではないかと目を光らせているものと思い込んでいたが――。
「この婚約者候補の関係が、王命によって結ばれたということは知っているな?」
「はい。存じております」
「あれはあなたに聖女の力が芽生えたとき、俺が即座にその力に気づき、あなたを戦に引き込むために結ばれたものだ。王家と我がキングストン家は、触れるだけで相手の力を読むことができる魔法を会得している。そのため、いつあなたが覚醒しても問題がないよう、俺があなたの相手として選ばれた」
つまり、ルーカスは触れるだけで相手が聖女であることがわかるということだ。そして、その手で私に触れた結果、私が聖女であることを確信したのだろう。
「あなたが闇の魔術師になることはないと確信している理由は他にももう一つある。一度目に茶会で出会った時、あなたの身体からは聖力が全く感じられなかった。だがしかし、次に出会ったときにはなかったはずのそれが強く感じられた」
「それは、私がこの身体を奪って……」
「ああ。確かに聖力の芽生えには、あなたの魂が強く関係しているだろうが、……あなたのその認識は、おそらく誤っている」
「誤っている……? どういうことです?」
「茶会であなたに触れたとき、聖力が感じられない代わりに、あなたの身体と魂の間には強烈な違和感があった。しかし、二度目に触れたときには、何の違和感もなくなっていた。あの違和感が何だったのかたびたび考えていたが……。あなたの告白でようやくわかった」
「それ、は、どういう……」
「あなたは、身体を奪ったわけではない。むしろ十四歳までのあなたが、何者かに身体を奪われていたのではないか」
彼は確信を持った力強い瞳で、こちらを見つめている。その眼差しに、目眩を起こしてしまいそうだった。
信じがたい話だ。この身体に乗り移ったのは私で、本物のレティシアは、別に存在している。そのはずだ。
「そ、んなはずがありません。私は……、別の世界の人間で、病で命を落としたはずです」
「ではなぜあなたは、その身体に戻ったその日から、当たり前のようにレティシア・オルティスとして振る舞うことができたんだ? あなたの魂が、これほどあなたの身体に合致しているのは、あなたがレティシア・オルティスであるからではないか?」
「それは……、ですが、ではこの記憶は……いったい」
「闇の魔法には身体を入れ替える術も、時を逆行する術も、魂を異世界へと飛ばす術もあると聞く。すべて死を代償とするため、禁じられているものだ。……当然魔力も膨大に必要となる。あなたがゲームとして見てきたレティシア・オルティスこそが偽物で、闇の魔法を使ってあなたの身体を乗っ取っていたのだとすれば、辻褄は合う」
ゲームのレティシアは確かに強大な魔力を持ち、闇の魔法に手を出した。しかし、それが本当のレティシアではなく、レティシアに乗り移った何者かであるとしたら――。
「仮説ではあるが、たとえばそうだな……。あなたは十四年間、闇の魔術師に身体を乗っ取られていた。その間、あなたの魂は異世界へと飛ばされ、ゲームとして乗っ取られたレティシアに起こる未来を見せられていた。……その世界で闇の魔術師の何らかの野望が達成されることはなく、闇の魔術師は人を殺めてもう一度レティシア・オルティスの身体に入ったまま、時間を逆行した。しかし、あなたは十四歳の生誕の日に聖なる力を目覚めさせて身体を取り戻した。……強引なこじつけだが、充分に可能性はある」
「そんな……。それが真実なのでしたら、なぜそのような恐ろしいことを、するのです」
この世界で目を覚ました時、確かに不自然なほど違和感なく、生活を維持することができた。
すべてレティシア・オルティスに刻まれた記憶のおかげだと考え込んでいたが、一方で私の前世であったはずの記憶の方が曖昧で、今では妹の顔さえ思いだすことができないことを思えば、確かにこの世界の生活のほうが、私の記憶に馴染んでいる。
「聖なる力を冒そうとする人間がいるのは、残念だが事実だ。すでに聖女として目覚めているあなたが悪しき力に屈する可能性は低いだろうが、存在が知れれば、命を狙われることも多くなる。ジェシカ様とは違って、あなたは戦うよりも癒すことに特化した力を持つ極めて攻撃を受けやすい存在だ」
今まで一度も考えたことのないような話だ。自分が聖女になる未来など、想像することもなかった。
「ルーカス、さま、私……何も、何も知らずに……」
聖女としての務めを果たすこともなく、ただ、逃げることばかりを考えていた。全身から血の気が引いていく。
「レティ」
優しい低音が、いっとう大切なものを呼ぶように私の名前を囁いた。冷えきった私の手を握って、熱を移してくれる。俯きかけた顔を上げてその顔を見上げれば、彼は苦笑とも自嘲とも思えるような複雑な表情を浮かべていた。
「違うんだ。あなたは何も悪くない。俺こそ、あなたが思うほど誠実な人間ではない。あなたに聖力があることを知りながら、誰にも、あなたにさえも報告しなかったのだからな」
彼はただじっと、懇願するように私の瞳を見つめ、一度瞼を閉じてからゆっくりと語り出した。
「聖力や、さらに先夢の力があることが陛下に伝われば、あなたは数多の悪人の影に怯えながら、あの地獄のような戦いに赴き、敵に触れるという命を投げ出すような方法で戦わなければならなくなる。――その未来を想像したとき、身勝手にもあなたをできる限り戦場から遠ざけたいと、そう思った」
情けない話を打ち明けるような、苦しそうな声だった。
彼は私に力があることを報告しなければならない立場にありながら、ずっと黙秘し続けてきた。
彼には、夢と称して話したゲームの内容を誰かに打ち明けることも固く禁じられていた。すべて、私を守るための行動だったのだ。
しかし、誰よりも王家に深く忠誠を誓う家門の嫡男に、そのような行いが許されるはずもない。
「なぜ、そのような危険なことを……」
反逆罪に問われてもおかしくないような隠蔽だ。このことが知れれば、間違いなく罪に問われる。想像するだけでも恐ろしい。無意識に身体が震え出していた。




