寛大である、はずもない3
少し前に逃げ出してきたはずの相手と、また二人になってしまった。今更そのことに気づいて、ぎこちなく視線を向ける。
「あ……、ルーカス様?」
私が視線を向けるよりも先に、ルーカスは私のことを見下ろしていたらしい。すぐに視線がぶつかって、逸らすことができなくなった。
肩に置かれている指先に、僅かに力がこめられる。
「レティシア」
少し前まで聞いていた無機質な声色とは違う、甘やかな優しさを孕んだ声音だ。呼ばれると無条件に胸がときめいてしまう。
「はい、ルーカス様」
「なぜ殿下に協力をしようとしていたのか、教えてくれないか」
真昼の柔らかな日差しが窓から差し込み、細かな塵がダイヤモンドダストのように煌めく。人気のない廊下には、私とルーカスだけが存在していた。
「あなたはこれまで、殿下には極力接触しないようにしていた。……違うか?」
どうしてそのようなことに気づかれているのだろうか。クラスが違えば、必然的に出会う確率も低くなる。極力会わないようにと細心の注意を払ってはいたが、まさか、それに気づかれているとは思いもしなかった。
「……それともただ単に、俺に会いたくなかっただけか?」
サイラス殿下の側には、いつもルーカスの姿があった。攻略対象者である可能性が高いサイラス殿下に会わないようにするのはもちろんのこと、私は常にルーカスを避けて生きてきた。
しかし、本人にそれが悟られている可能性など、考えたこともなかった。
答えることもできず、ただルーカスの目を見つめていた。それが肯定を示すような反応であることに気づくのは、ルーカスが自嘲するような笑みを浮かべたあとだ。
決して傷をつけたいわけではない。ましてや、ルーカスを嫌っているわけでもない。
「ち、が」
「あなたが俺との婚約者候補の関係を解消したいと願っているのは、知っている」
ルーカスの口から語られることを、少しも想定していなかった言葉が聞こえた。
今まで散々、彼から解消を申し出られるようにと興味のないふりをし続けてきたにもかかわらず、いざこうして突き付けられると、頭が真っ白になる。
知られていて当然の振る舞いをしてきたくせに、こうして言葉に出されるとは思ってもいなかったのだ。
否定することもできず、ただルーカスの青い瞳を見つめていた。深く傷つけているのだと気づいても、謝罪の言葉が思い浮かばない。
彼は無言の私をただじっと見下ろし、静かに口を開いた。
「そうだとしても、あなたは十八を迎えれば俺から逃れることはできない。あなたは一生、俺の隣にいることになる。あと数週間待っているだけであなたは俺の伴侶となり、他の誰の手に渡ることも、俺以外の誰の手に触れられることもなくなる。俺だけのものになる」
まるで、そうなることを望んでいるかのような言葉だ。
焦がれる相手に懇願するような痛切な瞳に見下ろされ、呼吸の仕方さえも忘れて魅入られる。
肩に触れていた手が離れ、私の髪を一房掴み上げる。その髪を愛おしそうに指先で撫でた彼は、小さく笑みを浮かべて、もう一度声を上げた。
「だが、あなたへの恋情に溺れてこのような脅しを口にするような男に、あなたは惹かれないだろうな」
「れん、じょう……?」
「恋い慕っている、ということだ。わからないか? あなたの姿が見えれば、どれほど遠くとも目を奪われ、その声を聞けば他のことなどすべてがどうでもよくなる。慈悲深いあなたが他者に手を差し伸べるたび、内心ではあなたの美しさをこの手に隠してしまいたいと思っている。あなたが平穏無事に暮らすためならば、あなたの隣に立つためならば、幾多の死線をも苦心することなく乗り越えられる。――俺の中に存在するあなたへの思いとは、そういう尋常ならぬ恋慕だ」
ルーカスは真剣な顔つきで語り、触れていた髪を持ち上げて見せつけるように口づけた。
恋愛感情を持たれているとは思わなかった。いや、そういう雰囲気なら、何度も感じ取っていた。ただ、自身の勘が信じがたくて、目を背けていたのだ。
「俺を、俺だけを見ていてほしい。そう、思い続けている。これが恋情でなければ、何だ? あなたに触れたいと思う。誰よりも近づいて、この腕に収めたい。誰にも渡したくない」
「ル、ルーカス様」
熱っぽく語られる言葉に耐えかねて、とうとう声をあげた。私の声は、か細く頼りない音になった。しかしルーカスは聞き逃すことなく、私の唇をじっと見つめている。
――ここが私の世界なら、どれだけ幸福な言葉だっただろうか。私が本物のレティシアであれば、どれほど喜んだだろうか。この先の未来を知らなければ、今すぐにでも思いを告げられた。
だが、私はレティシアの中に入り込んでしまっただけの人間だ。
「私は……、長らくルーカス様に、嫌われているのではと思いながらこの関係を続けてまいりました。そう、思いたかっただけなのかもしれません。……だって、どう考えても私は英雄のルーカス様には、不釣り合いですもの」
偽りの姿で側にいるのだ。ここまでの未来を知っていて、ルーカスに言われるまま、知らぬふりをして黙り続けてきた。
それだけでも充分に罪深い。ルーカスの側にいられるはずもない。ましてや私は、死んでいる身だ。
ケイシーはこの話をするといつも叱って、これ以上考えるなと言っていたが、何度も同じことを考えていた。
私という魂は、一度死を迎えている。
本来、死ぬはずではないレティシアの身体に入り込んだ私は、いつ本物のレティシアに身体を返すことになるか分からない。そのうえ、何らかの力によって、ラスボスとしての力を発現させてしまう可能性もある。
「ルーカス様には、私よりもふさわしい方が――」
「いや、違う。真逆だ。……あなたには俺よりもふさわしい相手がいるだろうが、俺にはあなただけだ」
最後まで私の考えを口にする前に、あっさりと否定をされてしまった。
ルーカスの瞳には嘘がない。まっすぐに私だけを見下ろしていた。
好きにならずにいられる相手ではなかった。心底そう思う。
困り果てていると、私の表情を見つめたルーカスが、安心させるように笑みを浮かべた。最近のルーカスは、本当によく笑みを見せてくれる。
「……だが、あなたを困らせ、意思に背く形であなたをもらい受けたいわけではない。あなたが俺を嫌悪するなら、あなたの誕生の日までに関係を解消する」
誠実な騎士らしい、まっとうな言葉だ。胸に深く突き刺さって、うまく言葉が出なくなる。
ここであなたを嫌悪していると言えば、ルーカスはすぐにでも関係を解消するだろう。
理解していても、その言葉は少しも口から出てきてくれなかった。
私の反応を見て、ルーカスは少しおかしそうに笑っている。私の髪にもう一度触れて、優しく囁いた。
「レティシア。あなたは本当に心優しく、慈悲深い人だ」
「そのようなことは……」
「だが、その優しさに付け込む不埒な輩がいることを、あなたは覚えておくべきだな」
ルーカスは悪戯を思いついた子どものように笑んでいる。眩しい光景に目が眩みそうだ。
「俺の存在を厭うているわけでないなら、チャンスをくれないか」
「チャンス……ですか?」
「ああ。必ずあなたの望む男になる。手始めに、明日の放課後、街へ行かないか」
「街へ?」
「以前、歩いてみたいと言っていただろう」
それは、私でさえも忘れてしまうほど、昔の言葉だ。
邸に籠もりきりの私は、ルーカスが市井の様子を見るためにキングストン公爵と共に街を歩いたという話を聞きつけて、羨ましいと口にしたのだ。
そのことを暫く考え込んで、ようやく思いだした。ルーカスは私の反応を窺うためか、こちらをじっと見つめている。
いつもの何を考えているかが分からない彼とはかけ離れた姿に、思わず笑ってしまった。
「もう、ずっと昔のお話ですわ」
「ああ。だが、いつか連れて行きたいと思っていた。そういう場が幾つもあるんだ。……あなたがよければ、あなたの生誕のその日まで、俺の我儘に付き合ってほしい。それであなたの望む通りに今後の関係を決める。……どうだろうか」
私の誕生日まで、すでに一か月を切っている。
ルーカスと共に、昔の私がしたかったことをするだけで円満に関係を解消できる。そうなれば、すべてがうまくいく。
「……わかりましたわ」
しかし、この心をかき消す方法など、どこにあるのだろうか。




