寛大である、はずもない2
つい、逃げ出してしまった。
後ろから声がかけられていることに気づきながら、振り返ることなく走ってとにかくその場から離れた。廊下を走るなど淑女にはあるまじき行為だが、これ以上あの場に留まっていたら、ルーカスの厚意に甘えてしまいそうだったのだ。
嫌われていると思い込むには、あまりにも優しすぎる。
近頃のルーカスは、二人でいる間だけ小さく笑みを見せたり、冗談を言ってきたりする。充分に信頼する相手なのだということを、行動で示されている気がしてならない。
叙勲式まであと一か月を切っている。つまり、私の十八の誕生日までも、時間がないということだ。
「オルティス公女?」
荒れた息を整えようと胸に手を当てているうちに、後ろから柔らかな声がかけられた。瞬時に振り返り、想像した通りの人が立っているのを見て丁寧に一礼する。
「サイラス殿下、ご無沙汰しております」
「久しぶりだね。……今日はルーカスと一緒じゃないのかい? 珍しいことがあるものだ」
茶化すような声で問われ、曖昧に微笑む。少し前まで一緒にいたのだが、走って逃げてきたとは言えない。
ゆっくりと視線をあげると、サイラス殿下の後ろに、もう一人男性が立っていることに気づいた。
「フォーンハイム卿も、ご無沙汰しております」
声をかけると、ダグラスはぴくりと肩を震わせて、丁寧に頭を下げた。
「そういえば、以前ダグラスが無礼な真似をしたようだね。倒れかけたところを助けてもらった挙句、暴言を吐いたと聞いた」
殿下の口から軽やかに語られる言葉に、微かに首を傾げた。無礼な真似に思い当たる節がなく暫く考え込んで、ようやく私とルーカスの関係について言及したことを言っているのだと気づいた。
「いえ、暴言なんて……。そのような事実はありませんわ。フォーンハイム卿は事実をおっしゃっただけですし、気にも留めておりませんでした」
「あはは、公女は寛大だね。ダグラス、よかったじゃないか」
ダグラスは去年、青い顔をして廊下に蹲っていた人とは思えぬほどに体つきがしっかりしてきている。美しさにもますます磨きがかかっていた。
成長を微笑ましく見つめていると、居心地の悪そうな顔をしたダグラスが、口を開いた。
「あれは、事実ではない。……悪かった、と思って……います」
ぎこちない謝罪の言葉だ。気にしていないと言ったにもかかわらず謝罪を受けることになるとは思わず、目を丸くしてしまった。
私の反応を見て、ダグラスは決まりが悪そうにしている。
「いえ……、本当に、お気になさらず。何も気にしておりませんから」
慌てて言葉を返すと、殿下はおかしそうに笑い声をあげた。
「だそうだ。ようやく謝罪できてよかったね。……ダグラスのこともあって、君の騎士には君の執行部入りを猛反対されていてねえ」
「私の騎士……、とは、いったい何でしょうか?」
「もちろんルーカス・キングストンのことじゃないか」
殿下の口から当然のように流れ出た名前に、僅かに呼吸が止まりかけた。ルーカスは私が執行部のメンバーに加わることを、よほど嫌がっているらしい。
「……至らぬところが多いですから、ルーカス様も、私が殿下にご迷惑をかけてしまうことを懸念されているのですわ」
「あはは。まさか。公女は本当に謙虚な方だ」
「いえ。そんな……。実は、執行部の皆様のお手伝いが私に務まるのでしたら、できる限りご協力したく考えておりました」
しかし、執行部の手伝いをするとなると、ルーカスに遭遇する確率も上がる。今にして思えば、あまりよくない解決策だった。
「だが、君の騎士が拗ねてしまいそうだね。彼はどうしても公女を、隠しておきたいみたいだから」
最近のルーカスの様子を見ていると、そのように思われてしまうのだろうか。隠しておきたいと思われているようには感じないが、茶を濁すように笑みを浮かべた。
「私の研究の手伝いをしてもらうのはどうかな。長い時間をかけるものでもないし、少し手を握ってもらうだけで充分だよ」
「手、ですの?」
「そう。それで公女の身体に流れるありとあらゆる力が感じ取れるから」
手に触れるだけで相手の力がわかるとは、すさまじい能力だ。ルーカスは裏庭で会話をしたときにも私が殿下に触れることを嫌がっていたし、私が誰かに触れることも快く思っていなかった。
あれはもしかすると、私にも人の手に触れるだけで相手に危害を加える力が備わっている可能性を危惧していたのだろうか。
「公女?」
物思いに耽りかけたところで、目の前に手が差し出される。いつの間にグローブを外したのか、むき出しの指先が見えていた。
「サイラス、やめておいたほうがいいぞ」
殿下の手を呆然と見つめるうちに、ダグラスの呆れ声が聞こえた。ちらと顔をあげると、相変わらず上品に微笑んでいる殿下と、顔を顰めるダグラスの姿が見える。
ダグラスにはいまだに人間性を疑われているのかもしれない。
婚約者候補でもない男性の素手に触れるのははしたないことなのではないかと思いつつ、それで協力ができるのならばと覚悟を決めた。
殿下と同じように右手のグローブを外そうと左手を伸ばす。
しかしその手がグローブの裾を掴む前に、誰かの手に咎めるように触れられた。
節くれ立った大きな手が、私の手を飲みこむように包んでいる。まるで捕食されているかのようだ。以前も一度同じことを考えたことがあった。そしてその相手は、ルーカス・キングストンただ一人だ。
「殿下、私の婚約者候補にどのようなご用がおありですか」
随分と他人行儀の冷たい声だ。私にかけられたものではないと分かっていても、背筋が震える。不快であることを隠そうともしていない声色だ。
「少し交流を深めていただけだよ。怒らないでくれ」
「殿下は交流を深めるために、わざわざご令嬢の手を握ると?」
「そう目くじらを立てられると、隠したい理由があるのかと勘繰ってしまうね」
背後から私の手を握っているルーカスは、ゆったりと微笑む殿下の言葉を聞き、ため息とともにその手を放した。
しかし背後から離れることはなく、私の肩にそっと手を触れさせ、身体を引き寄せた。
「ル、ルーカス様?」
「サイラス。美しい花を我が物としたいがために隠しておくのは、それほどおかしなことか」
ルーカスは茶化すことなく、至って真剣にその言葉を言い放った。
冗談を口にしたわけではないことが容易に察せられる。しかし、どう考えてもその美しい花というのが誰をさしているのか、勘違いしてしまう。無駄な勘違いをやめようと思い続けているのに、堪えきれずに顔が熱くなった。
「殿下こそ、私の花にわざわざ触れようとする必要があるのですか」
臆することなく発せられた言葉に、激しく動揺する。
肩に曖昧な力で触れている手を振り払うこともできない。逃げ出せばいいはずが、触れられているだけで考えをまとめることができなくなり、ただ俯いて赤い顔を隠すだけで精いっぱいだ。
殿下はただ、研究のために私の手に触れようとしただけだ。顔をあげなくとも険悪な雰囲気が伝わってくる気がして、狼狽えながらルーカスの顔を覗き込んだ。
「あ、あの……、殿下はただ、研究のサンプルにと、私の力を測ろうとされていた、だけなのです」
しどろもどろに語ると、ルーカスは冴え冴えとした目で私の瞳の深淵を覗いた。
「そうか。だが、あなたが相手になる必要はない」
「ですが、その、成長と共に魔力が減ってしまう体質はそう多いものではないですから」
「そうだとしても、殿下であれば研究に協力する者などいくらでも募れる。そうだろう、サイラス」
いつになく流暢に語られる言葉に気圧されているうちに、ルーカスはあっさりと話をまとめて殿下を見遣った。
気心の知れた仲だということはわかっていても、あまりに直球すぎる言葉にこちらがひやひやしてしまう。ちらりと殿下とダグラスが立つ方に視線を向けると、二人は心なしか苦笑しているようにも見えた。
「わかったわかった。私が悪かったよ。ゼルヴァンの英雄に嫌われては困るからね。公女に協力を仰ぐのはやめておくよ」
あっさりと引き下がった殿下は、私へと視線を向け、なおも美しく微笑む。何を考えているのか悟らせない瞳だ。
「驚かせてごめんね。君の騎士が拗ねてしまう前に、私たちはお暇するよ」
「い、いえ……! そのような」
「できれば、君の騎士のご機嫌取りをお願いするよ。……このままでは英雄が叙勲式をボイコットしてしまいそうだ」
「サイラス」
殿下の冗談は、ルーカスの低音に綺麗にかき消される。
彼の咎めるような声に呼ばれた殿下は、やはり軽快に笑いながら踵を返してダグラスと共に遠ざかり、角を曲がって私の視界から消えてしまった。




