寛大である、はずもない
十四歳でレティシアの身体に入り込んでから、一度として途切れさせたことのない習慣が一つだけある。
「お嬢様、少し休憩をとってはいかがですか」
日記に次の言葉を書き込もうとペンを握ったまま、うまく状況の整理ができずに椅子の背に深くもたれ掛かる。
「……ありがとう。いただくわ」
ハーブティの香りに誘われて、結局続きを書くのを諦めてしまった。
今日起こったことを客観的に書き起こすには、もう少し気持ちの整理が必要だ。思い出そうとするたびに、ルーカスに触れられる感触が思いだされてよくない。
失神することなくルーカスと別れることはできたものの、その後もぼんやりと一日を過ごしてしまった。
「何が起こっているのか、さっぱり分からないわ」
「好意を持たれている、とはお思いにならないのですか?」
「それはもちろん。……恋愛音痴であることはしっかり理解しているから、弁えているわ」
ルーカスに見つめられている間は何度も錯覚を起こしたが、そもそも私は恋愛音痴なのだ。ルーカスにとっては婚約者候補としての務めを果たそうとしているだけに違いない。
「では、考えられるとすると、よほどサイラス殿下に近づかれたくなかったというところでしょうか。もしかすると、お嬢様はサイラス殿下に危害を加えると思われているのかもしれませんね」
ケイシーの口から淡々と語られる考察に、言葉を失ってしまった。
今日の出来事を整理していくと、確かに殿下との接触がある。あの時もルーカスは過剰な反応を見せていた。彼が急激に距離を詰め始めたのも、あの後だ。
「……ケイシー、あなた、本当に天才だわ」
「お褒めに預かり恐悦至極にございます」
あまりうれしくなさそうな声だ。少し呆れ顔のようにも見える。
最近は私がルーカスとの関係に悩んで相談を持ち掛けるたびに、こういう表情を浮かべている気がする。四つ年上のケイシーはすでに二十一歳だ。
「いつも苦労ばかりをかけてしまって、ごめんなさいね。きっとあともう少しで、円満に解消できると思うの。ケイシーにもやりたいことがあれば、いつでも言ってね。働きたいところが別にあるなら、ちゃんと推薦状も書くわ」
「そのような機会はありませんし、ご安心ください」
「そう? あと、素敵な人がいるのなら、いつでも仕事を減らして構わないし、お休みだってたくさん取っていいのだからね?」
「お嬢様は私なしでゲームの攻略ができるとお思いですか?」
厳しいところをついてくる。思わず苦笑してしまった。
「変なことは考えないでください。お嬢様は、ゲームの攻略に集中を」
「……そうね。それじゃあ様子を見て、サイラス殿下に声をかけてみようかしら。執行部への勧誘をしていただいたから、入ることはできなくともお手伝いをすればおかしなことは考えていないと分かってもらえるかもしれないわ」
「実にお嬢様らしい作戦です」
「成功しそう?」
「ええ。それはもう、間違いないでしょう。さすが恋愛音痴のレティシア様です」
我が優秀な侍女のお墨付きをもらって、安心しながら日記の続きを埋めていく。
なるべく客観的に、しかし、その時に誰が何を発言していたのかを事細かく書き記した日記だ。十四歳から書き続けているから、このノートも相当な数になっている。
「読み返すとなると、本当に骨が折れてしまいそうね」
「お嬢様の日記を勝手に読むような不埒な輩はおりませんから、ご安心ください」
それはどうだろうか。
おそらくいつか、私が書き記してきた膨大な日記を手に取る者が現れるはずだ。もしかしたらその者は、書き記されている情報の多さに嫌気がさしてしまうかもしれない。しかし、何もないよりはいいはずだ。
「さて。それじゃあ、明日からは殿下に害意がないことを理解してもらえるよう、やってみるわ」
そう意気込んでから、すでに二週間が経過している。
「レティシア、食べないのか」
美しい水面に映る光を凝縮したような、輝かしい碧眼が私を見下ろしている。親しい間柄であるということを少しも隠そうとしない瞳だ。私にかけられる声音の優しさからも、少なくとも顔見知り以上の関係性であることが察せられる。
そしてその声を発したのが、常時真顔で、しかも言葉数の少ない堅物と知られるルーカス・キングストンであれば、相手の女子生徒と彼がそういう関係にあることくらい誰にでも感じ取れるだろう。
「調子が悪いなら……」
「食べますわ! 少し考え事をしてしまって」
一体いつ、ルーカスの中の私の印象は病弱になったのだろうか。慌ててメインディッシュを口に含み、おずおずと顔をあげる。
「急かしているわけではない。ゆっくり食べてくれ」
「……はい」
ルーカスは迎えに来ることを宣言した翌日から、当然のように毎朝オルティス家の門前に現れ、帰りも普通科のクラスに迎えに来るようになった。
これでは殿下に話しかけに行く隙もない。
それどころか、いつの間に昼食を共にする約束まで取り付けられ、ランチタイムになるたびに颯爽と現れるルーカスにエスコートされ、こうしてお昼の時間を過ごしている。
ロージーやクラスメイトには当然驚かれた。
中にはルーカスに私と彼の関係を問うた者もおり、ルーカスはその問いに対し、「レティシアは俺の……、大切な人だ」と返したのだという。
婚約者候補であることを伏せてほしいと願ったせいで、むしろ大きな誤解を生む言葉になってしまった。
それ以降ロージーは何かとルーカスに協力的だ。
『やっぱり、やっぱりなのね! レティへのキングストン卿の視線、ただならぬ熱情を感じていたの~! やっぱり私の目に狂いはなかったわ。キングストン卿は闇の魔術師を葬ってから、レティにアタックするつもりだったのね。本当に素敵だわ……!』
『ロージー、そういうわけでは……』
『レティはまだ、恋を認められないのかしら? キングストン卿を見るレティの目、いつもとっても可愛いのよ? 隠さなくていいのに、どうして気づかないふりをするの?』
頬を薔薇色に染めたロージーの問いに、上手く言葉を返すことができなかった。
たとえば、今私の目の前に座るルーカスが、人の噂を信じたり、誰かを罵るような言葉を使ったりするような人であれば、もっと冷静に立ち回って彼を愛することなくそれなりの関係を築くことができたかもしれない。
だが私の前に現れたルーカスは、レティシアに関する悪い噂や悪評を知っていただろうに、一度も私を軽蔑することなく徹底的に淑女として扱った。
私が学園へ通いたいと言ったときにも、否定することなく頷き、言葉は少なくとも、いつも私の話に耳を傾けて丁寧に付き合ってくれた。
優しさに触れるたびに、彼の魅力に気づかされる。
たとえ嫌われていたとしても、彼のたゆまぬ努力によって維持された義務的な関係であったとしても、好きにならずにはいられなかった。
しかし、私が勝手にルーカスを愛して、勝手に関係を結ぶわけにはいかない。
「ジェシカ様はお元気ですか? 近頃はあまりお顔を見ていなくて」
「……ああ。無病息災だ」
「叙勲式がもうそろそろですわね。……式にはお二人が出られるのでしょう?」
叙勲式は、奇しくもレティシアの生誕の日に行われる。
ゲームでも同じ日付であったとしたら、レティシアは耐えがたい苦痛を感じただろう。
騎士と聖女が揃って叙勲されるのだ。聖女のエスコートは騎士のルーカスが務めるに決まっている。
レティシアはその素行の悪さのせいで、父のジョナスから社交界の出入りを禁じられている。そのため、ルーカスと婚約者候補の関係になってから、公式の場で彼にエスコートをされた経験がない。
エスコートをされれば、誰よりも近くでルーカスの手に触れて、ともに歩むことができるのだ。その相手が誰であろうと、胸が痛むのは当然だろう。
「そのようだが……、俺は――」
「では、ルーカス様がジェシカ様をエスコートなさるのですね? とっても素敵ですわ。私、お二人が叙勲される場を見届けることができないのが本当に残念ですの。わたくしの分まで、楽しんでくださいね」
自身の発言が深く胸に突き刺さり、徐々にひび割れていく。
あれだけ好きになってはならないと思っていたはずが、どうしてこうもうまくいかないのだろうか。
叙勲式までに、関係を解消させなければならない。私が十八になってしまえば、容易に解消することができなくなってしまうのだ。
ここで癇癪を起して、ルーカスに軽蔑されるような態度を取れば、どうにかなるかもしれない。そう思うのに、嫌われるのが恐ろしくて、行動することができない。――嫌われるために、頑張っていたはずなのに。
遠回しな表現で関係を解消させようとしている自身の汚さに気づき、努めて笑みで覆い隠した。
ルーカスは、真意を覗くようにじっと私の瞳を見つめている。
「叙勲式の日は、あなたの誕生の日だと記憶している」
まさか、そのようなことを覚えていたのか。
確かにルーカスは真面目だから、覚えていてもおかしくはない。だが、いちいち胸がときめいてしまうから、困り果てている。
「ええ。ですが、お気になさらず。叙勲式はこの国一番の祝い事ですもの」
「俺にとってはあなたの生誕のほうが、重要なことだ」
「ふふ、お上手ですね」
「レティシア」
「やっぱり、少し食べ過ぎてしまったみたいですわ。……私は先に教室に戻ります。ではごきげんよう」




