春の到来
三か月間の遠征はゼルヴァン王国で最も邪悪とされている闇の魔法使いを葬り去る任務だ。この時すでにジェシカは十八歳を迎えており、遠征の中盤でルーカスも十八になる。
レティシアが十八を迎えるのは遠征から二か月が経過した後だ。
ゼルヴァン王国の貴族にとって十八とは成人と認められる歳だ。さらにゲームのルーカスはこの遠征での功績を評価され、勲章が授与される。
成人と認められ、その上で活躍を叙勲されることが決まったルーカスは、父であるキングストン公爵にレティシアとの婚約者候補の関係解消を願い出、オルティス公爵家の許しが得られるのならば、後の叙勲式で聖女の騎士としての誓いを立てたいと心に決める。
しかしその願いは、激高したレティシアが闇の魔法に手を出し、ラスボスとなることで儚く散る。
――つまり、レティシアが闇の魔法に手を出さなければ、この物語のラスボスは三か月間の西部遠征で倒し終えていたはずなのだ。
そしてやはりこの世界でも、ルーカスはジェシカと西部遠征に行くことが決まった。
物語のヒーローとヒロインであるからと言って、痛みを感じないわけではない。苦しい思いをすることもあれば、悲しみに涙をこらえる日もある。
ジェシカにもあれほど近寄らぬようと気を付けていたはずが、明るい笑みを浮かべて近づいてくる可愛らしいヒロインを無視することができるはずもなかった。
『レティシア様、どうか私の手を握ってくれませんか』
『手を、ですか?』
『ええ。それで、すっごく力が漲ってくるような気がするんです!』
どことなくロージーを思わせるジェシカは、ロージーともすぐに良好な仲を築いた。
そうしてロージーと二人で涙ながらにジェシカの武勲を祈った後、遠征前にと約束されていたオルティス家での夕食会で、ルーカスと二人、相変わらず大した会話のない食事の時間を過ごした。
『遠征から戻ったら、あなたに話がある』
去り際のルーカスの言葉に頷いて、横に現れたケイシーが盆に載せたハンカチを見遣り、躊躇いながら彼に差し出す。
『……不要でなければ、私から。今年はルーカス様の生誕の日をお側でお祝いすることもできなさそうですわね。残念ですが、お手紙を書きますわ』
婚約者候補の関係にあれば、出征する騎士となる相手に、刺繍の入ったハンカチを渡すことくらいよくあることだ。しかも、行き帰りの日程を考えると、彼の誕生日を祝うこともできない。
ここまでの三年間は欠かさずプレゼントを渡してきたが、闘いの最中には不要だろう。せめて、邪魔にならないものをと思って用意をしたが、果たしてこれからジェシカと仲を深めていくルーカスに必要な贈り物であるのかどうかは疑問である。
戦いに行くルーカスとジェシカが心配でどうしても落ち着くことができず、手慰みに刺した刺繍の数々をケイシーに目撃され、『渡したいのならば、お渡しになればよろしいのでは』ときっぱりと断じられて頷いてしまった。
こちらに好意があることを示すような行動だと思うのだが、私の直感よりもケイシーの助言のほうが正しい。そう思いなおし、覚悟を決めてルーカスに渡した。
『あなたがこれを……?』
引きこもっている時間が長すぎたから、刺繍の腕はそれなりになっている。ルーカスも私の密やかな趣味を知らなかったのか、珍しく僅かにぼんやりとした表情を浮かべていた。
『このような贈り物ではなく、私自身が戦いに出られるほどの力を持っていればよかったのですが』
実際にルーカスやジェシカと同じ、志を持った魔法学校の生徒の中には遠征に志願する貴族も少なくない。私もこの先の展開を知っているのだから、ともに出向いて邪悪な存在を打ち消すことに力を使うべきだろうが、この些細な魔力では、かえって邪魔になる。
『いや。あなたの気持ちだけで充分だ。……レティシア嬢』
ハンカチを大切そうに懐にしまったルーカスがコートを着て、私の名を呼んだ。
ルーカスは今や、その身体で私を覆い隠してしまえそうなほど逞しい体つきになった。顔立ちからは幼さが消え、今は精悍な美男となっている。少し前までは可愛らしさのある少年であったようにも思えるが、本当に、立派に成長したものだ。
『はい、いかがいたしましたか?』
『手を』
出会いの日のように手のひらを差し出され、考える間もなく、シルクのグローブで包まれた指先を触れさせる。恭しく頭を下げた偉丈夫が、あの日と同じように手の甲へ唇を寄せてゆっくりと離れた。
『……武功を立てて戻る』
そう宣言したルーカスは私の返事を聞く間もなく踵を返して邸から出て行った。それが遠征の三日前の出来事だ。
『もしかして、武勲を得て来いと言っていると思われてしまったのかしら』
『お嬢様、さすが恋愛音痴です』
笑えない。
あの日の私は、本当にそう思っていたのだ。
* * *
「ルーカス様に変わったところがないか、ですか?」
「ええ」
まさか、こんな日が来るとは思ってもいなかった。武勲欲しさにハンカチを渡したと思われているほうがまだよかった。状況はもっと深刻だ。
私が事態をどれほど深刻に捉えているのかわからないらしいジェシカは、輝かしいブロンドを柔らかに揺らして首を傾げながらクッキーを頬張っている。
西部遠征から二週間が経過し、ようやくジェシカの周辺も落ち着き始めた。ストーリーの通りではあるが、ジェシカはやはり西部の闇の魔術師を倒し、この学園に戻ってきた。
ゼルヴァン王国で闇の魔術を継承する人間は、西部の魔術師が最後の一人であるとされている。長年、何度も闇の力で世界を支配しようとしていた者たちが、聖女の力で成敗されたのだ。
今、王国中が春の訪れと夏祭りが同時に到来したかのような大騒ぎを起こしている。
ジェシカとこの戦いの指揮官を務めたルーカスは、王都への帰路で大勢の民に歓迎された。改めて考えると、ゲームのレティシアはこの喜びのムードを叩き壊して絶望の闇に覆い隠してしまったのだから、すさまじい力の持ち主だ。
「具体的に、レティシア様から見て、どのようなことが変わったのでしょうか? 私にはいつも通りに見えますが……」
「それは……」
ルーカスには凱旋を終えて王都に戻りつくとされていたその日に面会を申し出られ、当然婚約者候補の関係解消を求められるものだと思い、その場に挑んだ。しかし聞かされたのは、すぐにでも婚姻を結びたいという真逆の言葉だ。
「なぜか、毎日花が送られてくるのです」
「ええ? それが何か、不思議なんですか?」
「……そのほかにも贈り物や、メッセージカードまで」
これまでは形式的なご機嫌伺いをされることはあっても、頻繁に贈り物が届いたりメッセージカードが送られてきたりすることはなかった。
「婚約者候補なのですから、普通のことじゃないんですか? ルーカス様はレティシア様にメロメロですし」
「めろ……?」
信じがたい言葉に絶句してしまった。
私の反応を見て、ジェシカがけらけらと可愛らしく笑っている。ジェシカも重度の恋愛音痴なのだろうか。そうでなければ、彼女がまだ誰とも恋に落ちていないことが不可解すぎる。
ジェシカには、私とルーカスの婚約者候補の関係を気にせずにいてほしいと何度も声をかけていたのだが、そのせいでかえって気を使われている気がする。
「ルーカス様、お誕生日にレティシア様からいただいたハンカチを大切に握りしめていましたよ~。西部の山岳部はそれはもうひどい吹雪で、途中一度だけ二人っきりで山小屋に閉じ込められてしまったんです」
「山小屋……!?」
間違いなく、ゲームに出てくるあの山小屋のエピソードだ。あからさまに反応する私に目を丸くしたジェシカが、苦笑しながらもう一度口を開いた。
「レティシア様が望むような話はありませんよ? 夜が深まる前には扉が開きましたから。それに何度も言っていますが、彼は私を妹のように思っているので、やましいことも起こりません。絶えず外の様子を見張っていらっしゃいました。途中、交代しようと顔を覗き込んだとき、見えたんです。あれって、レティシア様の贈り物ですよね?」
ルーカスの爆弾発言を受けて、ケイシーと相談してジェシカから詳細を聞くことにしようと決めていた。ジェシカからはすぐに茶会の返事をいただいたのだが、私が様子を伺うつもりが、逆に質問されてしまっている。
「レティシア様は誰にでも優しく、情が深いお方です。ルー兄……ルーカス様にも、きっとその優しさを見せているのですよね? レティシア様のような綺麗な婚約者なら、離れていかないようにと手を尽くすことはあっても、自ら手放そうとするわけがないじゃないですか。……もしもルー兄から逃げ出したいのなら、レティシア様は叙勲式の前に――」
「おや。どうやら先客がいるようだ」




