推しが壊れた
こちらには初投稿。人生初の転生ものです。よろしくお願いいたします。
「お嬢様、キングストン卿がいらっしゃいました」
「ええ、わかったわ」
侍女ケイシーの言葉にゆっくりと頷いて立ち上がった。今日のために誂えたドレスは、レティシア・オルティス公爵令嬢の容姿によく似合っている。
淡いピンクブロンドの長髪は美しい髪飾りで丁寧にまとめられ、レティシアが動くたびにきらきらと光の粒が煌めく。髪飾りには、その瞳の色と同じローズレッドの宝石がふんだんにあしらわれていた。
抜けるように白い肌を持つレティシアは、どことなく儚さを感じさせる雰囲気を持っており、今日のドレスも、その印象を助長させるような色合いになっていた。一目でレティシアのために誂えられた一着であることが察せられるほど、レティシアの持つ色に染め上げられている。
このドレスを作るために、いったいどれほどのお金が必要だったのだろうか。それを考えるだけで、お父様がどれだけこの婚約に期待しているのかがひしひしと伝わってくる。――けれど私は、父の悲願を叶えてあげる気がない。
今日までの四年間、気が休まる日はなかった。常に最良の選択肢を選ぶことを考え、何を考えているのかが全く分からない婚約者候補――ルーカス・キングストン次期公爵と深まらない交流を続けてきた。
しかし、その日々もようやく今日で終わりを迎える。
「お待たせいたしましたわ」
応接間のソファに腰かけるその人は、座り込んでいても充分に体格ががっしりとしていることが伝わってくる偉丈夫だ。オルティス公爵家の広々とした応接間であっても、彼の鍛え抜かれた肉体の前では、少し手狭に感じられてしまう。
私の言葉に反応を示したルーカスが即座にこちらを振り向く。その漆黒の髪の隙間から見える碧眼には、思わず吸い寄せられてしまいそうな魅力がある。意志の強そうな眉に筋の通った上品な鼻、そして淡く色づいた唇が過不足なく適切な位置に配置されている。
美しく、そして勇ましい。誰の目にも、彼が正義の騎士であることがわかるだろう。
その美しい男が私の婚約者候補であり、前世の推しでもある。しかしこの婚約者候補という関係性も、今日で解消される。
そうなることでルーカスの、そして何よりも私のバッドエンドが回避されるからだ。
ここまで長い時間をかけて、何度もルーカスと交流の場が設けられてきた。初めのころはその度に、バッドエンドへの道が早まってしまうのではないかとヒヤヒヤしていたものだが、私の想像とは裏腹に、ルーカスは私が想定する以上に私に興味を持っていなかった。
そのことに気づいてからは好き勝手に振る舞って、好きなだけ推しの顔を盗み見る日々を重ねてきたのだが、ついにルーカスは先の戦いで、聖女との間に愛を見出した。そのはずだ。
だからこうして、定期的な交流の日ではないはずの今日、彼から面会の申し出があった。
婚約者候補の関係は今ならまだ互いに名誉を傷つけることなく解消することができる段階だ。彼はその期間のうちに、私に婚約者候補の解消を願い出ようとしているのだろう。ルーカスのそういう誠実さこそが、私の推したるゆえんだ。
「レティシア嬢」
まったく好みでもない私と、月に一度の面会をしなければならない立場にあるルーカスはさぞや苦しい思いをしたことだろう。だが彼は、一度として泣き言を言うことがなかった。
私のくだらない世間話にも、ただじっと耳を傾けていた。決して話を膨らませたり、同じように笑ってくれたりすることはなかったが、害のない人間であることがわかってもらえればそれでよいのだ。
『レティシア嬢、不用意に他者に触れようとするな』
何度か注意を受けた言葉を思い返して、害のない人間と認定されているのかが怪しい現実にため息をつきたくなった。暗い気持ちを掻き消して、彼の呼びかけに応える。
「はい、ルーカス様」
私の名を呼びながら立ち上がったルーカスはその右手に、珍しいものを持っていた。彼に似合わないものとは言わないが、この家に来る上では、全く必要のないものだ。
「……ルーカス様、その薔薇はどなたかからのいただきものですの? それでしたら、お早めに活けてしまったほうが」
「いや」
ルーカスほどの美丈夫であれば、薔薇を差し出される機会もあるだろう。語りながら理解したというのに、彼は私の推測をやんわりと否定して、ただじっと私の瞳を見おろした。
言葉なくその薔薇の花束が、私の目の前に差し出される。まるで、思う相手に愛を乞う騎士のような行動だ。俄かに信じがたい。
もしかすると、ルーカスがこのような行動をとるシーンが見てみたいという思いが強すぎたせいで、幻覚を見ているのだろうか。
「え、ええ……?」
ひどく狼狽えながら口に出した言葉は、言葉の意味を成していない。しかしこのたったの一言で私の動揺を悟ったルーカスが、微かに困り顔をして、ゆっくりと唇を開いた。
「あまり気にいらないだろうか。あなたによく似合うと感じて手に取ってしまったのだが」
その薔薇は確かに、私の瞳の色とよく似た上品なローズレッドだ。しかし、どうしてそれが、彼から私へと捧げられているのか、理解ができない。
「……わたくしに、ですの?」
「ああ」
恐る恐る問いかけたはずが、間髪をいれずに答えが戻ってくる。困惑しつつ、差し出されるまま目の前にある薔薇を受け取って、両腕に抱いた。
薔薇の匂いが鮮やかに香る。その匂いで、これが現実の出来事であることをはっきりと思い知らされた。しかしどうしてこうなってしまったのか、全く検討もつかない。今日私は、この美丈夫に別れを告げられるはずだったのだ。
「ありがとう、ございます」
たどたどしく礼を口にして、薔薇へと落としていた視線をあげる。その先に、常時固く閉ざされている唇を綻ばせたルーカスが立っていた。はっきりと、喜びを示していることが伝わってくる。
彼が柔らかな微笑みを浮かべているのを見るのは、どれくらいぶりだろうか。もしかすると、ゲームをプレイしていた時以来初めてのことかもしれない。衝撃的な光景に、目を奪われる。
「あなたは今日も麗しいな」
呆然と見つめることしかできない私には、言われている意味がよくわからなかった。
口説き文句どころか、これまでほとんど会話すらする気のなかった婚約者候補が、たっぷりと甘く囁く。その言葉を何度か反芻して、ようやくじわじわと頬が熱くなってきた。
ルーカスは今、私を見て、今日も麗しいと言ったのだろうか。
「な、な、なに、を」
「できることなら一日中、あなたの瞳を眺めていたい」
ルーカスがおかしくなってしまった。
彼は少し前まで聖女と共に、三か月の遠征に行っていた。そこで真実の愛を手に入れたはずの彼がなぜか、このゲームのラスボスになる私の前で微笑んでいる。
「ルーカス様、今日は、どうなされたのです?」
「どうということはない。俺は思う通りに話しているだけだ」
今まで、一度も聞いたことのないような言葉だ。何がどうなってルーカスはこの言葉を口にしているのだろうか。
本来であれば、今日こそルーカスからこの関係の解消を申し出られるはずだった。そうなるよう、好感度を無視した選択肢ばかりを選んできた。そのはずが――。
「そろそろあなたと婚約者候補の関係を結んでから、四年が経過するな。この秋、あなたは十八になる。そうなればようやく、あなたと俺も正式な婚約者となることになる。……婚姻の日取りだが、俺は今すぐにでもレティシア嬢を妻に迎えたいと思っている」
「つ、ま?」
「ああ。今すぐにでも、だ」
「この関係を、解消する、というお話ではなく、ですの?」
わけがわからず思う通りに言葉を返せば、ルーカスの凛々しい眉が微かに下がったように見えた。彼は憂いを帯びた悩ましげな表情でさえ、人の視線を集めてしまう。
「やはり俺は、あなたに寂しい思いをさせていたのだな。……関係解消などあり得ない。俺にはあなたが必要だ」
彼は懇願するような声色で囁きながら、その節くれ立った手で私の髪に触れて、梳くように指先を滑らせた。
今まで、彼に触れられた記憶などそう多くはない。屈んだルーカスがそっと私の髪を持ち上げ、愛おしそうに口付けてから、私の顔を覗き込むように視線を上げた。
「レティシア」
甘やかな色気を孕んだ声に、とうとう思考が停止する。
「あなたは俺の妻になるんだ」
果たして、いったいこれはどういうことだろうか。