第36話 『天国』への門
プレッティーノ・ファミリーより「蜘蛛の糸」を渡るための通行証を受け取る日が来た。ハリーは朝早く起きて新聞紙を受け取ると、いつ帰れるか分からないことを想定して入念に準備を始める。
熱いシャワーに入り、念入りに髭を剃り、そしてトランクに幾つかの替えの服を詰め込んだ。更にアリアが置いていったリボルバー拳銃もトランク内の脇に忍ばせた。ハリーの様子をトントが心配そうに眺める。
(大丈夫なのか?随分と長期間留守にするみたいだが)
「心配するな、トント。お前の餌はたんまり買っておいた。それに俺の留守中の世話について隣のマーガレット婆さんに頼んでいる」
(勘弁してくれよ。あの婆さん、呆けてるだろ?私の餌のことなんて絶対忘れるだろ)
「そうならないように早めに帰る」
(私は嫌な予感しかしないがね)
「なら無事に帰れるように祈ってくれ」
ハリーがトントと会話しながら粗方の荷物をまとめ終わる頃、ドアのチャイムが鳴った。ハリーはゆっくりとドアのスコープを覗くと、其所にいたのはプレッティーノ・ファミリーの白いジャケットの男と赤スーツの男だった。
どうやらこの二人はハリーのお目付け役を買って出ているみたいだ。
「どうやらお迎えが来たようだ」
(ハリー)
「ん?」
(生きて帰ってこいよ)
「当たり前だ」
ハリーはトントに笑って返した。ドアの外にいる男たちに「今開ける」と返事してハリーは鍵を開ける。その隙にトントはハリーのトランクを開けると素早く中へと潜り込んだ。
「ハリー・ライナス、時間だ」
「ああ、わかった。準備はできている」
ハリーはトランクを持つと男たちと一緒にアパートを出発した。
「トント、行ってくる」
(行ってらっしゃい)
トントの声を聞いたハリーはトランクの異変に気づくことなく男たちの車に乗り込んだ。ハリーを乗せた車は真っ直ぐ「蜘蛛の糸」へと向かう。
ハリーは後部座席に赤スーツの男と、前には運転手と助手席に白いジャケットの男が座る。車内は何ともいえない沈黙が続いた。
「…ところで通行証はどこにあるんだ?」
「此処だ」
赤スーツの男が胸ポケットからチケットのような紙を取り出してハリーに渡した。紙には通行番号の羅列とマダム・プレッティーノの連名が刻まれていた。
「マダムからのプレゼントだ」
「本当に用意してくれたのか…」
「マダムは約束を守る寛大な方だ。例えお前のような雑魚でもきちんと相手にしてくださる。マダムに感謝することだな」
白いジャケットの男が後ろを振り返ってハリーに説明する。そうこうしている内に車は「蜘蛛の糸」を渡り、アップタウン側の検問所へと着いた。
すると赤スーツの男が車を降りてハリーのトランクを無造作に道路に置いた。ハリーも慌てて車を降りてトランクを拾い上げる。
「此処から先は俺たちも行けない場所だ。精々マダムの期待に応えるんだな」
「…お気遣いありがとよ」
「おい、引き揚げるぞ」
赤スーツの男が乗り込むと車は来た道を戻り、「蜘蛛の糸」のダウンタウン側へと走り去っていった。取り残されたハリーは一人検問所の中へ入る。
検問所は非常に簡易的な作りだが、中には屈強な警備員が三人もいる。事務的な作業をする者、その隣で質問する者、そして門を守る者、といった配置だ。
「通行証を此方へ」
「はいよ」
ハリーが警備員にマダムから受け取った通行証を見せた。警備員は怪訝な表情を浮かべてハリーを上から下までじっくりと観察する。何ともいえない時間が異常に長く感じる。
「アップタウンへは何の用事で来たのですか?」
「マダム・プレッティーノからの依頼で荷物を受け取りに来た」
「滞在期間は?」
「長くて約一週間ほどの予定だ」
「武器やその他危険物の持ち込みは?」
「ない」
これは嘘だ。ハリーはリボルバー拳銃を持ち込んでいたが、シラを切った。質問者の警備員が隣の事務をしている警備員に何やら相談している。どうも真剣な様子にハリーは首を傾げたが、少ししてから「どうぞ」と先に行くよう促された。
「どうも」
ハリーは警備員に向けてニコリと微笑んだ。門を守る警備員はハリーをじっと見据えているが、ハリーは帽子を脱いで会釈すると堂々と検問所を切り抜けた。
検問所を越えて少し歩いた辺りでハリーは運河沿いに設置されたベンチに座り込んだ。緊急の糸が解けたらしいのか、どっと疲れが出た。
「フーッ…何とか第一関門通過だな」
ハリーは深呼吸すると対岸にあるリバーサイドパークを見た。目と鼻の先の僅かな距離だが、恐ろしく遠い処まで来たような感覚だ。まだ朝早いためか辺りの人通りは少なく閑散としている。
「さて、問題はこれからだ。まずは捜索の拠点を確保せねば…」
ハリーはベンチから立ち上がると高層ビル群が立ち並ぶメトロポリス中心部へと歩を進めることにした。すると…突然黒塗りの高級車が猛スピードで此方へ向かっているのにハリーは気づいた。
「ん?何だ…?」
ハリーは立ち止まって歩道の端に避けようとするが、車は寧ろハリーに向けて突進しようと加速している。ハリーは慌てて先程までいたベンチの方まで戻り、ベンチの上に飛び乗った。
「な、何だ!?酔っ払いか?」
ハリーが車の様子を見ていると、車は突如方向転換してハリーのいるベンチへと突っ込んできた。
「まずい!!」
ハリーが急いでベンチから横に飛び降りた直後、車はベンチをなぎ倒して運河の柵に衝突した。間一髪助かったハリーは息を切らせて車を見る。
「…バカな…俺を狙ってきただと?」
ハリーがヨロヨロと立ち上がると車のドアが開き、二人の影が降りてきた。




