第9話 『死ね、クソババァ!』
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「はっ!」
目が冷めて、壁の時計を見た。
午前8時20分。
はぁ!?
マジかよ!
完全に遅刻じゃねぇか!
「あのクソババァ!」
俺は昨日のことなど頭から吹っ飛んでいた。
怒りに任せて飛び起きた。
ガタッとベッドから何かが床へ落ちた。
昨夜握りしめていた金づちだ。
思わず拾って、壁に投げつけるところだった。
それほど俺は怒っていた。
7時半までに目覚めなかったら、母さんが起こしに来る。
それが母親の仕事だ。
いくら喧嘩しているからといって、サボっていい理由にはならない。
急いで制服に着替えて、勢いのまま一階へ駆け下りた。
大義名分は、俺にある。
正しいのは、俺だった。
リビングに入ると、コーヒーの香りがした。
母さんは、そこにいた。
開口一番、俺は叫んだ。
「おいババァ! なんで起こさねぇんだよ!」
母さんは、いつものようにソファーに座り、いつものようにコーヒーを飲んでいた。
ただし、コーヒーカップは、いつものカップではない。
それは、俺が子供の頃に、母さんの誕生日にプレゼントしたカップだった。
思わず顔がほころんでしまいそうになる。
俺の知る限り、母さんが俺のプレゼントしたカップでコーヒーを飲むのは、初めてのことだ。
だが今の俺は怒っているのだ。
ガツンと言わなければならない場面である。
俺は無理矢理に息を荒げながら、母親の言葉を待った。
当然、謝罪の言葉をだ。
その予想は、だが裏切られた。
「どうして私が起こさなきゃならないのよ」
俺に顔を向けること無く、母さんは言った。
あまりに意外な言葉だった。
俺は言葉を失った。
だがすぐに気を取り直して、叫んだ。
「テメェが母親だからだろ!」
対して、返ってきた言葉は、またしても意外なものだった。
「違うわね。もう私はあなたの母親じゃないわ」
「ふざけんな! お前は母親だろうが! 意味わかんねぇこと言ってんじゃねぇ!」
「昨日まではね。今日からは違うのよ。私はあなたの母親を降りたの」
「母親を降りただと!? そんなことできるか、ボケ!」
「あら、どうしてかしら? 法律で決められている義務教育は中学までなのよ?」
「くそっ! 時間がねぇ! 続きは帰ってからだ! ――おい! 飯はどうした!?」
「朝ご飯? とっくに食べ終わったわよ?」
「は!? 俺の分はどこだよ!?」
「あるわけないじゃない」
「じゃあ作れよ! 今すぐ!」
「はぁ……だから、どうしてあなたの分を作らなくちゃならないのよ? 母親じゃあるまいし」
母さんはため息を吐いた。
絶対に意思を曲げないと決めたときの母さんの癖が、このため息だ。
つまり、今まで言ったことは全部本気ってこと。
絶句する俺。
母さんは立ち上がる。
そして手に持ったカップを傾けた。
ジョボジョボジョボ……。
ベージュ色のラグに、黒いシミが広がっていく。
何をしてるんだ……。
気が狂ったのか?
唖然とする俺。
ここへきて、母さんは、ようやく俺の顔を見た。
「こんなにマズいコーヒーを飲んだのは生まれて初めてだわ。せっかくの高級な豆が台無しよ。このクソ趣味の悪いカップのせいでね」
そう言うと、カップを床へ叩きつけた。
ガシャン!
大きな音を立てて、カップが砕け散った。
俺が母さんにプレゼントしたカップが……。
まるで昨日の再現だった。
違うのは、割ったのが母さんで、カップの破片を母さんが気にも止めていない点だった。
俺の頭に一瞬で血が上る。
「クソババァ!」
俺は母さんに飛びかかった。
胸ぐらをつかんで、母さんの顔面を殴った。
一発、二発、三発。
口から血を流し、鼻血を出すほど殴っても、母さんは抵抗しなかった。
ただゴミを見るような目つきで俺を見つめている。
ゾッとした。
その視線が怖かった。
ただただ恐ろしかった。
「死ねっ! 死ねよ、クソババァ!」
ゴッ、ゴッ、ゴッ……。
恐怖を打ち消すように、俺は母さんを殴り続けた。
「はぁはぁはぁはぁ……」
もうどれくらい殴り続けただろう。
気がつくと、母さんはソファーでぐったりしていた。
「か、母さん……?」
俺の呼びかけに、母さんはまったく反応を示さなかった。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
俺は家を飛び出した。
殺した、殺した、殺した、殺した!
俺は母さんを殴り殺してしまった!