第5話 『取り返しのつかないこと』
とたんに母さんの顔が青ざめた。
母さんは、今まで見たこともない表情を浮かべていた。
絶望と焦燥と恐怖が入り混じったような。
いつも冷静な母さんが、こんなに焦るなんて。
「な、なにをするつもり!? 止めて! それは! それだけは!」
「うるせぇババァ! いつまでも後生大事に、オヤジの形見ばっかり使いやがって!」
我知らず、そんな言葉が、俺の口から飛び出した。
それは、今まで気づかなかった、俺の本心だった。
思えば、俺はずっとずっと嫉妬していたのだ。
いつまでも思い続けられている、亡き父親の影に。
俺が小学校4年の頃に送ったカップ。
そのカップより、父親のカップを選び続ける母さん。
そんな母さんに、ずっと怒っていたんだ。
そう気づいた俺は、もう止まらなかった。
暴挙を止められなかった。
「こんなもんッ!」
俺は憎い憎いコーヒーカップを、力いっぱい床へ叩きつけた。
ガシャンッ!
その音を聞いた時、心の底からスッとした。
長年胸につかえたものが取れた気がした。
ざまぁみろ。
だが、その満足も、母さんの声を聞くまでだった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁあぁぁあぁあぁぁぁぁぁぁぁっっぁあぁぁ!! いやぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁっぁあぁぁっぁあぁぁぁぁっぁ!!」
叫びなんてものじゃなかった。
まさに絶叫だった。
母さんは今まで聞いたことがないほどの大声を上げながら、床に倒れ込んだ。
そして、砕け散ったカップの破片を集め始めたのだ。
「あぁぁぁぁぁ!!! ゆうたさん!!! ゆうたさん!!! いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ! いやよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!!」
カップのかけらを握る母さんの手からは、少なくない血が流れていた。
破片が手に突き刺さっているにも関わらず、全力で握り締めているのだ。
怪我なんて気にしていない。
母さんはカップの残骸を集め続けた。
割れんばかりの大声で、亡き父の名前を呼びながら、狂ったように破片を集め続けている。
誰だ?
俺にはわからなかった。
目の前にいる人物はいったい誰なんだ?
少なくとも、俺の知っている母さんではなかった。
そこにいるのは、一人の狂った人間だった。
そして、聡明で、美しくて、優しい母さんを、そうなるように仕向けたのは、他ならぬ自分だった。
――お、俺はなんてことを……。
今更ながらに、自分のしたことを盛大に悔いた。
「ご、ごめん、母さん」
反射的に、俺は母さんに謝った。
母親に謝ったのは数年ぶりだった。
謝らずにはいれなかった。
それほどまでに、目の前の女性が狂気じみていたのだ。
「母さん。俺も手伝うよ……」
そう言って、破片を集めようとした俺は、右手に激しい痛みを感じた。
「ぎゃぁぁぁっ!」
あまりの痛みに俺は叫んでいた。
ゴリゴリと手の骨が圧迫されていく。
なんと俺の手に、母さんが噛み付いていた。
「は、離せ! 離せよ、このッ!」
俺は思わず左手で母さんの頭を殴った。
殴った。
殴った。殴った。殴った。殴った。
だが母さんは、より強く噛み付いてきた。
「うぅぅぅぅぅぅぅッ!」
唸り声を上げ、手に噛み付いたまま、母さんが俺を睨みつけた。
髪を振り乱し、涙に濡れた瞳で睨みつけるその顔は、母親のそれではない。
まるでホラー映画の怪物そのものだった。
「ひぃっ! は、離せっ!」
俺は母さんの顔に、全力で蹴りを入れた。
母さんはようやく俺の手から口を離して、吹っ飛んだ。
そのとき、母さんが両手に集めたコーヒーカップの破片が飛び散った。
「あぁぁぁっぁぁっぁぁぁっぁぁぁ!! ゆうたさんが!! ゆうたさんがぁぁぁぁっぁあぁぁっ!!! ああぁぁぁぁっぁぁぁぁっぁぁっぁぁぁぁぁっ!!!」
再び狂気じみた所作で、カップの破片を集め続ける母さん。
俺は右手を押さえながら、その光景を眺めていた。
噛まれた箇所は肉がえぐれている。
ドクドクと血が流れた。
そんなことはどうでもいい。
今は目の前にいる女性が、ただただ恐ろしかった。