第36話 『未来へ』
母さんの訪問から二度目の夏が過ぎようとしていた。
2年前と同じように、俺は公園のベンチに腰を下ろしている。
今ではすっかりベテランホームレスだ。
その日の俺は、妙に予感めいたものを感じていたが、どうやら的中したようだ。
「よぅ坊主。久しぶりだな」
現れたのは見知った男だった。
「…………」
「やっぱり喋らねぇのか。本当にぶっ壊れちまってんだな」
憐れみの表情を浮かべた男は、山﨑真也――俺を何度も半殺しにした男だ。
俺は憎んでいたはずの男を、無感情に見つめた。
心が動くことはない。
山﨑がそこにいるって事実を、ただぼんやりと認識していた。
「ずっとこうやって生きてきたのか? 坊主が失踪してから、もう4年だぞ?」
「…………」
「今日は報告したいことがあってきたんだが、この調子じゃ話もできんな。ちょっと待ってろ」
山﨑は電話をかけ始めた。
「もしもし、オレだ。……ああ、見つけたよ。聞いてた通りの状態だ。……そうだな。……いや、それはわからん。……ああ。……ああ。……本当にいいのか? ……そうか、じゃあ代わるぞ」
山﨑は俺に携帯を差し出した。
俺は無言で耳に当てた。
『もしもし、マーく……大倉正弘君ですか?』
懐かしい声だった。
「さとう……さん?」
『そうです。佐藤です。佐藤沙耶です。お元気ですか、って聞くのはおかしいかな?』
「さとう……さな……」
声の主は佐藤沙耶。
高校の頃、俺が暴力で脅し、性的な悪戯をした相手だ。
そして、今まで生きてきた中で、最も好きになった女性だった。
『話は聞きました。正弘君がやったことも、家を追い出されたことも』
「さとうさんは……げんきなのか……?」
驚いた。
俺はまだ会話ができたのか。
まだ他人に興味を持てたのか。
『はい、わたしは元気です。あの……わたしの話を聞いてくれますか?』
「はなし……はなしって……?」
『高校の頃、わたしは正弘君にひどいことをされました』
「おれをせめたいのなら……かんべんしてくれないか……」
『逃げないでください! わたしの話を聞いてください!』
ビクッとした。
こんなに大きな声を出せるんだな、佐藤は。
それから佐藤沙耶は一方的に話を続けた。
『わたしは正弘君が許せませんでした。正弘君の顔を見るたびに、あの路地裏でのことを思い出して、体がすくみあがっていました』
『だからひどいことをしました。毎日、正弘くんに命令して、みんなの前で恥をかかせました。そうすることで心の均衡を図っていたんです』
『わたしは子供でした。今でも成長したとは言えないけど、あの頃よりはマシな自分になれたと思っています』
『今、わたしは幸せです。大学にも行けて、仲の良い友人に囲まれて、日々幸せに暮らしています』
『だから、もういいんです。わたしは正弘君のことを恨んでいません』
『もし正弘君が、わたしにしたことで心を悩ましているのなら、もう終わりにしてください』
『わたしは正弘君を許します』
『だから正弘君は前を向いてください。いつまでも過去の悪夢に足を取られないでください。過去の自分に心を囚われないでください』
『幸せになってください。わたしも幸せになります。どうか……どうか過去に負けないでください』
佐藤沙耶の言葉が、一言一句心に染み渡っていく。
この4年間で凍りついた心が一気に溶けた気がした。
溶けた氷は濁った目から溢れ出し、気がつくと俺は泣いていた。
ボロボロと涙を流しながら、俺は、
「ありがとう……ありがとう、佐藤さん……。俺は佐藤さんが好きでした。大好きでした。ずっとひどいことをして、ごめんなさい。どうか、お幸せに……」
やっと言えた。
それは、ずっと心に秘めていたことだった。
ずっと言えずに後悔していたことだった。
電話の向こうで佐藤が何か言っていた。
携帯から耳を離していた俺には聞こえなかった。
俺は携帯を山﨑へ返すと、嗚咽をあげて泣いた。
「じゃあ、いいんだな? ……ああ、後は任せろ」
山﨑は二言、三言ほど携帯で話すと、通話を切った。
そして人好きのする笑顔でこう言った。
「とりあえず風呂と飯……だな」




