第31話 『堕ちるところまで』
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バイトが終わり、俺はファミレス店内に座っていた。
手には一枚の名刺。
母さんからもらったものだ。
『お金は出さないけど、助けになる人を紹介してあげるわ』
そういって渡してくれたのが、この名刺だ。
裏も表も真っ黒。
名前と携帯番号だけが、金色の文字で書かれている。
見るからに怪しい。
こんな名刺、母さんからの紹介じゃなかったら、すぐにゴミ箱行きだ。
『岡崎早苗』
名刺には、そう書かれている。
名刺を受け取ってすぐに、俺は書かれた番号に電話した。
母さんは冷徹で冷酷だが、嘘はつかない。
この名刺は俺の助けになることは間違いないのだ。
「……どんな用件かしら?」
5コール目で出たのは、気だるい声をした女だった。
俺は金に困っていることを伝えた。
そして寝起きのように不機嫌な声で指示されたのが、この場所、この時間である。
約束は23時。
携帯の時計は、すでに23時35分を表示している。
もしかして場所を聞き間違えたのか。
不安になった頃、客の入店を告げる電子音が聞こえた。
入り口を見る。
高そうなコートを着た女と目が合った。
女は真っ直ぐに、こちらへやってくると、
「今朝電話してきた子?」
「は、はい。俺は……」
「名前は名乗らないでくださる? あと年齢も教えないでちょうだい。そうね、貴方のことはTAKAと呼ばせてもらうわ。年齢は20才ね。ワタシのことは岡崎さんとでも呼んでちょうだい。あとワタシの年齢についての話題は禁止よ」
「は、はぁ」
女は俺の前に座ると、店員にコーヒーを注文した。
「それで、いくら欲しいの?」
「は。はい。20……いや、30万あれば……」
「いつまでかしら?」
「できれば春休みが終わるまでに」
「つまり10日ちょっとってことね」
「無理でしょうか?」
岡崎と名乗る女は、顎に手を当て、少し考える素振りをした。
「ふむ……。いい身体してるわね。貴方、女性経験は?」
「へ?」
「それとも男性経験かしら?」
「あの、どちらもないです……」
「経験もないのにワタシに電話してきたの?」
「はい……」
「仕事の内容は……その様子じゃ聞いてないみたいね」
「はい……」
「ワタシから説明するわけにはいかないの。ワタシにできるのは、貴方の助けになる人を、貴方に紹介することだけ」
「助けになる人……」
「1回5万ってとこかしら。つまりそういうことよ。どうする? 今なら引き返せるわよ?」
女の言わんとすることを、俺は理解した。
――落ちるところまで落ちたってことか。
思わず笑ってしまう。
やはり母さんは甘くなかった。
――1回で5万か……。
5万は確かに大金だ。
だが、本当にいいのか?
今、俺の前には大きな橋がかかっている。
その橋は一方通行。
行ったら最後、もう二度とこちらへ戻って来くることができない。
――だめだ。俺には無理だ。
「あの、俺やっぱり……」
断りの言葉が口から出る寸前、俺の脳裏に母さんの言葉が浮かんできた。
「佐藤沙耶ちゃんに償いたいなら、あなたもそれなりの目に遭うべきね」
――なるほど……。こういうことか。
俺が佐藤にしたことは、確かにそういった類のことだ。
俺だけ無傷でいようなんて虫が良すぎる――母さんはそう言いたかったわけか。
――佐藤に償う、か。
考え込む俺を見て、女が立ち上がる。
「賢明だわね。ここであったことは忘れなさい」
立ち去ろうする女へ、俺は頭を下げた。
「やります。俺やります。だから紹介してください」
女の目がギラリと光った気がした。
「そう……。じゃあ、相手が決まったら、場所と時間をメールするわ」
「は、はい」
「あと注意事項をひとつだけ」
「え?」
「ワタシの商売は、ワタシが築きあげた信用あってのものなの」
「はい……」
「その信用を潰すような真似をしたら……。言わなくてもわかるわね?」
「は、はい!」
「ふふふ、それじゃさようなら。コーヒーは貴方が飲んでちょうだい」
女は一万円札を置いて、去っていった。
もう取り返しがつかない。
いくも地獄、戻るも地獄ってやつだ。
だがその地獄をこそ、俺は望んでいる。
それが佐藤に対する、せめてもの贖罪なのだから……なんつってな。




