第29話 『対照的な二人』
「ねぇマー君。今日財布忘れちゃってさぁ。また少し貸してくれないかしらぁ?」
佐藤沙耶が横柄な態度で話しかけてきた。
帰り支度を中断して、俺は財布を取り出した。
「……千円でいいか?」
「ま、いいわ。じゃあ、カバンよろしくねぇ。――お待たせ! 今日はどこ行く?」
友達3人と笑いながら、佐藤は教室を出ていった。
財布をポケットにしまい、俺はその後ろ姿を見送った。
佐藤と俺の立場が逆転してから、もう5ヶ月か。
佐藤沙耶は変わった。
まずビジュアルからして別人になった。
最近の佐藤はメガネを掛けていない。
店で働いている時のように、コンタクトをつけ、髪をまとめ上げている。
と言っても、最近は新たなバイトが数名入り、佐藤が店に出ることはなくなったがな。
ややぽっちゃりだった体型は、今では普通サイズまで落ちている。
その変化は、まるで芋虫が蝶になったようだと、もっぱらの噂だ。
性格も変わった。
明るくなったのだ。
引っ込み思案だった文学系少女が、今では誰にでも気さくに話しかける活発な女の子になった。
そんな彼女を、多くの者が受け入れた。
今ではクラス女子の中心人物と言っても過言ではない。
一方俺はというと。
まぁ、ひどいものだ。
ひとことで言うと、全校生徒が敵になった。
大袈裟に聞こえるだろうが、実際に俺は、そう感じている。
佐藤沙耶が人気者になるほど、反比例するように俺は嫌われ者になっていった。
無理もない話だ。
だって、みんなの人気者、みんな大好きな佐藤沙耶に、俺は2年間ずっとひどいことをしてきたんだからな。
俺への嫌がらせが始まったのは必然だった。
机に落書きなんて当たり前。
上履きを隠され、教科書を盗まれ、体操服が焼却炉に捨てられていたこともあった。
つまりそういうことだ。
陰キャのカースト最底辺。
それが俺だ。
今じゃすっかり、その立場が板に着いている。
普段から、なるべく気配を消し、誰とも接点を持たないようにする。
これが底辺なりの処世術ってやつさ。
俺は引き出しにある教科書を、自分のカバンに詰め込んだ。
教室に置きっぱなしなんてできない。
紛失するか、落書きされてボロボロにされてしまうからな。
俺は二つのカバン(一つは佐藤沙耶の分)を肩にかけた。
今からバイトだ。
バイト先は、佐藤の親が経営する居酒屋である。
そう。
三学期の3月現在でも、俺は佐藤の店で働いていた。
結局、佐藤は俺をクビにしなかった。
あんな酷い目に遭わせた俺をだ。
憐れみなのか、同情なのかわからないが、ありがたい話だ。
それどころか、毎日の弁当も変わらず持ってきてくれた。
もちろん、その行為に佐藤沙耶の好意はない。
佐藤が持ってくる弁当は、生活費のためにバイトをする俺への、店長の気遣いだったのだ。
父親の気遣いを、佐藤沙耶は無碍にできないだけだったんだ。
それを俺は……。
バカな俺は都合のいいように解釈した。
佐藤沙耶が俺に惚れているってな。
とんでもない勘違いから、勘違いな妄想を繰り広げ、その結果、とんだ変態行為に発展してしまったわけだ。
はぁ。
なんてバカなんだ、俺は……。
改めて暗い気分になった時、背中から声がした。
「お、おい正弘。また佐藤に金を貸したのか?」
振り返ると、辻圭介が心配そうな顔で立っていた。
「ああ、佐藤さんにはいつも世話になってるしな」
「つっても、限度ってものがあるだろ」
「いいんだ……いいんだよ、これで」
だが圭介は納得しなかった。
「なぁ、先生に相談してみたらどうだ?」
「無駄だよ。俺は佐竹先生に嫌われてるからな」
圭介だけだった。
こうして俺を心配して、話しかけてくれるのは。
親友ってのは、こんなにもありがたいものだったんだな。
「……何かおれにできることがあったら、遠慮なく言ってくれよ?」
「そのときはよろしく頼むよ。ありがとうな、圭介。――じゃ、バイトがあるから」
「そっか。頑張れよ」
「圭介も生徒会頑張れよ」
なんとか親友を納得させた俺は、いつものように一人帰路に着いた。
二つのカバンが、重く肩にのしかかる。
人生のどん底にいる気分だった。
だが、俺は知らなかった。
こんなの、どん底でもなんでもない。
本当の地獄は、これから始まるってことを。




