第28話 『二人の覚悟』
朝になった。
痛む体でリビングに降りると、母さんがお茶を飲んでいた。
「おはよう……」
「あら、おはよう。どうやら顔はそんなに腫れてないみたいね。さすが山﨑くんだわ」
昨日のことはご存じでござい、ってか。
確かに俺の顔は、前回ほど腫れていなかった。
鼻が変色して、口の端が切れているくらいだ。
服の下は、青やら赤やら、アザだらけだがな。
「昨日は災難だったわね。まぁ、あなたの行いが招いた結果なんだけど」
「……聞いてもいいか?」
「どうぞ。聞くのはタダよ」
「あいつが店に来たのは、あんたの指示なのか?」
「さぁ、どうだったかしら? でもよかったわ。あの子が救われて」
「……どこまで知ってる?」
「私が知ってるのは、どこかの勘違い男が散々女の子を弄んで、手痛い罰を受けたってことぐらいね」
「俺は……知らなかったんだ」
「なにをかしら?」
「佐藤が俺のことを嫌ってるなんて……。俺のことを好きなんだって、ずっと思ってたんだ……だから……」
「そう。だからなに? あなたが勘違いしてたからって、あなたの罪が消えるわけ? あなたが勘違いに気づいたからって、あの子の心の傷が癒えるっていうの? バカバカしい。それこそ勘違いしないでちょうだい。あなたはただの〝性犯罪の加害者〟なの。女の敵が、被害者そっちのけで悲劇の主人公ぶらないでもらえるかしら? 朝から気分が悪いわ」
「……学校に行ってくる」
「よかったわね、訴えられなくて。でも覚悟なさい」
「……覚悟?」
「女は怖いってこと。後は学校へ行ってからのお楽しみよ」
母さんは、佐藤沙耶が怒っているってことを言いたいのだろう。
わかってるさ。
そんなのはとっくに覚悟の上だ。
そうだ。
俺は覚悟を決めていた。
俺は、クラスメイトの前で、佐藤に謝罪しようと思っていた。
だが、そうじゃなかった。
母さんが言っていたのは、そんなことじゃなかった。
俺は全然できていなかった。
母さんの言う〝覚悟〟ってやつが、まったくと言っていいほどに。
∮
教室へ入ると、佐藤沙耶はすでに登校していた。
俺は自分のロッカーを開けた。
弁当は……当然入っていない。
そんなことはわかっていた。
だからコンビニでパンを買ってきた。
あの美味い弁当を食うことは、もう二度とないのだ。
俺は自分の席に行き、重い腰を下ろした。
謝罪をするにしても、どのタイミングがいいだろうか。
「おい、どうしたんだよ、その鼻!? また喧嘩したのか!?」
親友の辻圭介が話しかけてきた。
「はは……今回は一方的にやられちまったよ」
正直に答えた。
もう嘘で自分を誤魔化したくなかった。
「マジか。相手は……」
「ひ、一人よ。た、たった一人にやられたの。そそ、そうよね、大倉くん?」
気がつくと俺の席の横に、佐藤沙耶が立っていた。
俺はギョッとした。
俺が何かを言う前に、佐藤は持っているものを、大きく震える手で俺の机の上に置いた。
それは弁当箱だったのだ。
今までロッカーを使ってコソコソと受け渡していた弁当を、なぜ皆の前で堂々と渡してきたのか?
というか、あんな真似をした俺に、どうして弁当を?
「は、はい。きょ、今日のお弁当よ。あ、あとこれ」
戸惑う俺に、佐藤沙耶が手渡してきたのは、携帯だった。
画面を見ると〝通話中〟の文字。
何かいいたげな圭介を制して、
「……もしもし」
俺が電話に出ると、
『よぉ、坊主』
電話の声は、忘れようもない。
何せ、昨夜聞いたばかりだ。
「あんたは……」
『あんただと? 山﨑さんだろうが、クソ坊主。また殴られてぇのか?』
「ひっ……。や、山﨑さん、俺に何の用ですか?」
『お前に報告したいことがあってな』
「報告……ですか?」
『ああ。オレは昨日から雇われたんだ。そこにいる佐藤沙耶さんにな』
「え? 居酒屋でってことですか?」
『違うな。仕事は用心棒――いわゆるボディーガードってやつだ。佐藤沙耶さん専属のな』
「はぁ!?」
『報酬は店に行くたびにビール一杯無料にすること。これからは、ちょくちょく会えるってわけだ。どうだ? 嬉しいだろ?』
「用心棒って……」
『だって物騒だろ? クラスメイトに暴力で脅されて、無理やり乱暴されたりな』
「……っ」
『だから用心棒になったのさ。それで早速、仕事をしようと思ってな』
「仕事? 用心棒の、ですか?」
『そうだ。俺の初仕事は〝大倉正宏を佐藤沙耶さんの召使いにすること〟だ』
「召使い? 山﨑さん、あんた何言って……」
『言葉通りだ。これから先、佐藤沙耶さんの言うことには絶対服従しろ。これは俺からの命令だ。やぶったらどうなるか、わかってるな?』
「そんな……」
『もちろん佐藤さんに手をあげるなんて馬鹿なことをするなよ? その時は、この先、五体満足で生活できると思わないことだ』
「…………」
『返事はどうした?』
「は、はい!」
『大方、理不尽な要求だって思ってるだろ? だがな、坊主。お前はそれだけのことを佐藤さんにやっちまったんだ。まさか、そんなこともわからないボンクラじゃあるまいな?』
「……はい」
『よし。用件はおしまいだ。せいぜいご主人様のご機嫌を損ねないようにしろ。じゃあな、クソ坊主――ツーツーツー……』
俺は通話終了を押して、佐藤に携帯を返した。
すると、佐藤沙耶は、大きく深呼吸をしたかと思うと、驚くべきことを言った。
「の、喉が渇いたわね。お、大倉くん、じゅじゅ、ジュースを買ってきてもらえるかしら?」
その言葉に、辻圭介はポカンと口を開け――そして次の瞬間、大爆笑した。
「はっはっはっは! 聞いたかよ!? 佐藤さんが、正宏にジュース買ってこいだってよ! ま、マジかよ! は、腹痛ぇ!」
その笑いはクラス中に伝播した。
「ははは! 佐藤が大倉をパシるって?」
「うふふ、佐藤さん、大倉くんには近づかない方がいいわよ? 噂じゃ女相手に手を上げるらしいから」
大きな笑い声の中、俺一人だけが青い顔をしていた。
佐藤沙耶のやろうとしていること理解しているのは、どうやら俺だけのようだ。
佐藤沙耶は顔を真っ赤にして、下を向いている。
先ほどの言葉を口にするのに、どれだけの勇気が必要だったか。
俺は佐藤のことを何もわかっていなかった。
こんなことができるやつだったのか。
佐藤は覚悟してここに立っている。
目の前で顔を赤くして震えている女の子に、俺は圧倒されていた。
『女は怖いってこと』
今朝、母さんは言った。
そうだな。
まったくその通りだ。
俺は俺なりの覚悟を決め、静かに立ち上がった。
「ジュースは……何がいいんだ?」
シーン……。
一瞬で、世界から音が消えた。
クラス中が目を丸くして、俺と佐藤を見つめている。
「そ、そんなの、自分で考えなさいよ!」と、佐藤。
「わかった。すぐ買ってくる」と、俺。
俺は佐藤からもらった弁当箱をロッカーに入れると、足早に教室を出た。
すると、すぐに教室から爆音が聞こえてきた。
それは窓ガラスが振動するほどの大歓声だった。
「すごーい! 佐藤さん、何があったの!」
「あのクソ野郎をパシらせるなんて、マジパないんですけど!」
「佐藤さん、最高! わたし見直したわ!」
「ねぇねぇ、お弁当を大倉に渡すって、どういうことなの!?」
大きな声は、主に女子のものだった。
さしずめ〝女の敵である大倉正宏〟を退治した〝伝説の勇者、佐藤沙耶〟ってところか。
よかったな、佐藤。
〝俺と佐藤の立場を逆転させる〟って覚悟は、無事に実を結んだぞ。
大したやつだよ、お前は。
まさしく勇者の名に相応しい。
俺は素直に祝福した。
パシリなんて安いものだ。
これで佐藤がクラスの輪に入れるってんならな。
俺は短い人生において、ようやくいいことができた気がした。
ジュースを買いに走る召使いの足取りは軽い。




