第12話 『教育係』
俺はバスを乗り継ぎ、家へ戻った。
あたりは薄暗くなっている。
いつもなら母親は出勤している時間だ。
俺は家へ入った。
リビングのドアを開けると、母さんはソファーに座っていた。
「おい、ババァ! あの契約書はどういうことだよ!」
開口一番、俺は叫んだ。
すると母さんが、こちらに顔を向けた。
ギョッとした。
母さんの顔は腫れ上がり、ところどころが青やら赤やらに変色していた。
これは俺がやったことだ。
思わず目を背けそうになる。
だが、馬鹿な俺は虚勢を張り続けた。
「なんとか言えよ、こら!」
「なにを言ってるの? 書類を読んで、サインしたのはあなたでしょ?」
「あの状況じゃサインするしかねぇだろ! あんな契約、無効に決まってる!」
「確かに、ムチャクチャな内容だったわね。でも守ってもらうわ」
「はっ! 守るわけねぇだろ」
「いいえ、守ってもらいます」
あくまで毅然としている母さんに、俺は圧倒されていた。
だが若く馬鹿な俺は引くことを知らなかった。
「じゃあどうするってんだよ、テメェみたいなババァがよ!」
「契約は守らせます。力づくでもね」
「力づくだと!? テメェみてぇなチビババァがか!? 笑わせんな! また殴られてぇのかよ!」
「これ以上殴られるのは遠慮したいわね。殴られる理由もないわ。それに力づくってのは脅しじゃないのよ?」
「んだと、コラ! やれるもんならやってみろ!」
「そう。じゃあ、お望み通りに。――だ、そうよ。出てきてもらえるかしら?」
「は? ババァ、テメェ何言って……」
すると、台所の奥から、一人の男が現れた。
「紹介するわね。彼は山崎真也くん。お仕事は……そうね。あなたの教育係ってところかしら?」
短髪の男は20代後半に見えた。
身長は182cmの俺より高く、体は俺より細く締まっている。
その眼光は鋭く、今まで出会ったことのない種類の男だった。
街中でこの男に会ったら、俺は間違いなく目をそらすだろう。
だが俺は、男を見た瞬間、さらに頭に血が上った。
母さんが男を家に連れ込んだ。
その事実が許せなかったのだ。
「ババァ、テメェ! 俺の家に男を連れ込んでんじゃねぇ……ブッ!」
叫んでいる途中で、いきなり殴られた。
ものすごい衝撃だった。
たまらず床に手をついた。
そう言えば、誰かに殴られるのは、このときが初めてだったっけ。
「テメェ、何しやが……ブェ!」
男が無言で俺に馬乗りになって殴ってきた。
「や、やめ……ガッ……ゴッ……やめ……」
防ごうとする手を、すごい力で外されて、殴られ続けた。
まるで大人と幼稚園児の喧嘩だった。
絶望的な力の差が、俺と男の間にあった。
「あらあら大変。でも歯は折らないであげてね」
冷淡に言ってのける母さんに、俺は手を伸ばした。
「ひっ……か、母さん……た、助け……」
だが母さんは、俺を助けなかった。
冷たく俺を見下ろすのみ。
数十発殴られて、抵抗する気もなくなった頃、ようやく男は俺を開放した。
「親に手を上げるようなクズが、一丁前なことほざくんじゃねぇよ、ボケ」
思ったよりも高い声で男が言った。
「ありがとう、真也くん。さて、正広。あなた、契約を守らないって、まだ言い張るのかしら?」
「ま、守りまひゅ……ごめんなさい……ごめんなさい……」
「そう、よかった。これは返しておくわね」
俺の前に何かを投げ渡した。
通帳と印鑑だ。
「早速家賃を回収したいところだけど、二ヶ月は免除してあげるわ。これはせめてもの温情よ。その間にバイトを見つけるなり、体を売るなりしてお金を作りなさい」
たった二ヶ月……。
それに体を売れだと?
それでも母親かよ。
這いつくばって母さんを見つめる俺の腹に衝撃があった。
「ぶぇッ!」
男に横腹を蹴られたのだ。
「返事はどうしたクソ坊主。会話のキャッチボールもできねぇのか?」
「す、すみません! すみません! 母さん、ありがとうごさいます!」
「どういたしまして。じゃあ細かいルールを説明するわね」
それから母さんは、これからのことを話した。
1,契約書通り家事は自分でやる。
2,家具や家電は使っていいが、食材は自分で確保すること。
3,家を出ていく場合は、保証人を自分で探すこと。
俺はヘコヘコと頭を下げた。
この時点でプライドはズタズタだった。
だが、横に立つ男が怖くてたまらなかった。
一通り話し終えると、母さんは満足したように締めの言葉を述べた。
「さて、同居人ってことになるけど、これからもよろしくね」
「は、はい!」
男に睨まれて、俺は情けない返事をした。
男が側にいるからって調子に乗りやがって。
余裕こいてられるのも今のうちだ。
だが、俺を殴った報いは受けてもらうぞ。
この後すぐにでもな。
後書き)
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