第11話 『契約書』
「弁護士……? 俺は弁護士なんて雇った覚えは」
「依頼人は大倉瑛子さんです」
「母さん!? 母さんは生きてるんですか!?」
「はい。命に別状はありません」
「よかった……」
俺は心の底から安堵した。
今にして思えば、このときの俺は、自分の罪が軽くなったことを安心していたんだ。
クズな俺らしいよな。
「ですが瑛子さんは全治三週間の怪我を負っています。そしてあなたがその加害者です。それは認めますね?」
「そ、それは……」
この弁護士は母さんの依頼を受けている。
つまり、俺の味方ではない。
だから、弁護士の言うことを素直に認めていいものか判断できかねた。
すると、弁護士がノートパソコンを取り出した。
カチャカチャと操作して、俺に動画を見せた。
『死ねっ! 死ねよ、クソババァ!』
画面の中で男が女を殴っている。
それは俺の家の映像で、殴られているのは母さんだ。
そして殴っているのは、紛れもなく俺自身だった。
無抵抗の女性をひたすら殴り続けるその映像は、見るに堪えないものだった。
俺は思わず下を向く。
母さんは隠し撮りをしていたのか……。
「あなたは言い逃れができる立場にはありません」
「……はい」
「この映像はまだ警察には見せていません。ですが、これを証拠として提出すれば、あなたは確実に逮捕、起訴されることでしょう」
「逮捕……起訴……」
「そうなると数年は出てこられませんね。当然、高校は退学です」
「退学……」
「ですが、瑛子さんは被害届を取り下げてもいいとおっしゃっています」
「え?」
「これを……」
弁護士が一枚の書類を差し出した。
そこには、
1,俺が母さんに慰謝料300万を支払うこと。ただし支払いは高校を出てから、月6万の分割返済とする。
2、これからは家賃を月5万支払うこと。
3,それができなければ家を出ていくこと。
4,家に残るなら、自分の分の家事一切は自分で行うこと。
以上が、甲だの乙だのと、難しい言葉で書かれていた。
読み終えた俺に、弁護士がペンを差し出す。
ペンを持つ手が震えてしまう。
この紙は母さんからの絶縁宣言だった。
俺には選択肢なんか無かった。
震えながら書類にサインをした。
サインした書類をケースにしまうと、弁護士はパソコンとケースをカバンに入れた。
そして立ち上がり、俺に言った。
「これであなたは釈放されることでしょう。ですが……あなた、本当に馬鹿なことをしましたね」
「はい……すみませんでした……」
呆れたような顔を最後に、弁護士は出ていった。
馬鹿なこと、と彼は言った。
それは俺が母さんを殴ったことを言ったのだと、その時は思った。
だが違った。
彼はもっと根本的なことを言っていた。
馬鹿なこと。
それは〝母さんを怒らせたこと〟だったのだ。
まぁ、言ったところで、そのときの俺には理解できなかっただろうがな。
それから俺は拘置所に入ることもなく開放された。
敵に見えていた警官たちが、今は味方に見える。
シャバの空気。
ドラマなんかでよく聞く言葉だ。
今の俺はそのシャバの空気ってやつを実感していた。
それはつまり、檻からこちら側のことを言っているのだ。
なんて開放感だ。
一度は諦めた明るい未来は、まだ首の皮一枚つながっていた。
この皮を太く、強固にする方法は一つしかない。
母さんを説得することだ。
言ってわからないなら、力づくで言うことを聞かせてやる。
このときの俺は、まだ楽観視していた。
それどころか、弁護士を使って理不尽な契約を押し付けた母さんに、腹を立てていた。