1-47 出立の朝
世界最大の経済力を誇ると言われている迷宮都市ベギシュタット。
そのベギシュタットの中でも大手と言われる3つの商会、グレッツナー商会、シュトラウス商会、オーピッツ商会。
彼らが加わったことで、紅茶事業は爆発的に拡大していった。
会合で話し合われた通りカレンの弟子たちには工房が与えられ、今度は彼ら自身が多くの弟子たちを抱える立場となった。将来的にはその弟子たちにも工房が与えられ事業が拡大していく予定となっている。
また茶葉も採取だけでは不足するようになることは目に見えていたので、カレンが実験的に行っていたダンジョン内での茶の木の植え替えはもちろん、迷宮外へ持ち出しての栽培も始められ増産体制が整えられていった。
そうして順調に紅茶事業が拡大していく中で一年以上の月日が経った頃、レオンは借金の返済を……全く済ませてはいなかった。
というのも色々と相談した結果、今はまだ返済を済ますべきではないという結論に達したためであった。
レオンは探索者になるにあたりトーレス家とは完全に関係を断ち、国を出てベギシュタットの市民権を獲得するつもりでいる。
これはもちろん実家を食い物にしているムゼッティ商会との関係を完全に断つためであったが、封建的な祖国メンブラート公国を出るためでもあった。
メンブラート公国では非常に貴族たちの権力が強く、逆に平民の権利は守られにくい。
そのメンブラート公国においてレオンは現在『反逆者に与した商会に属する人間』という立場である。
実際はレオンの祖父と懇意にしていた領主が政争に負けた派閥に属していたというだけの話なのだが、権力者たちにとっては恩情で生かしてやっているという認識の方が強い。
つまりこの国でのレオンの立場は非常に危うく、生殺与奪の権利は権力者に握られていると言ってよかった。
だからレオンとしてはさっさと国を出て関係を断ちたかったのであるが、メンブラート公国の法律では家に借金がある場合、債権者の許可がない限りその家族は国外に籍を移すことは許されない。さらにその返済を終えたとしても、未成年のうちはトーレス家から抜けることも出来なかった。
そのため今借金の返済を終えてしまうのはまずかった。
成人するまではトーレス家から独立できないレオン。
それなのに今借金を全て返してしまうとムゼッティ商会にレオンが稼げることが知られてしまう。そうなるとほぼ間違いなく彼らはレオンを縛り付けるために動くこととなる。その時間的猶予を与えたくなかったのだ。
領主とつながりの強いムゼッティ商会。
そしてその領主にとってレオンは生かしてやっているだけの存在にすぎない。金づるになると思われればレオンの人権など容易に無視されることとなるだろう。
適当に因縁をつけてレオンに罪を背負わせてもいいし、新たにトーレス商会に莫大な借金を負わせてもいい。抵抗しようにもメンブラート公国においては貴族の権力は絶大、レオンの言い分など封殺されて終わることは目に見えていた。
だからレオンは紅茶の交渉の席でベギシュタットの誇る3つの大手商会の主たちに相談し、独立に手を貸すように依頼した。
そのためにスライムゼリーからプラスチックやゴムのような物質を作り出す方法も譲り渡すことにした。
現代日本社会においてプラスチックやゴムで出来た製品というものは大量に溢れている。つまりそれほどに需要のある便利な物質なのだから、上手く活用すれば莫大な富を築くことが出来るはずだ。
もちろん調合のギフトでしか作れないのですぐに大量生産というわけにはいかないが、それでも使い道はいくらでもあるだろう。
そんな金の生る木ともいえるレシピと引き換えに得た彼らの協力であったが、レオンとしては十分にその価値があったと言える内容であった。
レオンの立場では知りえない情報や知識、幅広い人脈、そしてそれらを活かせるだけの人員と財力。レオンでは持ちえないものを彼らは持っていた。
そんな彼らの協力を得て計画を練り、一年以上かけて準備をして来た。
そしてとうとうレオンが成人する日まで1か月を切り、本格的に行動を開始しようとしたところでトラブルが生じたのであった。
「すまんな、レオン。おまえの一生がかかった大事な時期だっていうのに」
「いえ、仕方ありません。代わりにカレンさんが手伝ってくれるということですのでこちらのことは気にしないでください。それよりホルストさんの方こそ心配です。どうぞお気をつけて」
「ああ、様子を見て場合によっては逃げる手伝いをするだけだ。戦いに参加する気はねえから心配するな」
迷宮都市ベギシュタットの南、メンブラート公国の南東に位置するフィレット王国。
そのフィレット王国が東側にある隣国、セヴェーロ王国に対して突如宣戦布告を行い、侵略を開始したとの情報が入ったのが3日前のことであった。
とはいえ迷宮都市ベギシュタットは完全中立の都市。一部物価の上昇などが多少あったものの直接的な影響はほとんどなかった。
普通は隣国が兵を起こせばもう少し混乱するものだが、ベギシュタットの場合攻められる心配がない。
なぜならベギシュタットには一流の探索者たちが集まっており、抱えている戦力はどんな大国よりも勝っていると言われているので手の出しようがない。
さらに貴重な迷宮資源の産出地としてアンタッチャブルな存在とされており、万が一にも手を出してしまえば世界中を敵にまわすこととなる。
そんな事情もあって隣国が兵を動かそうとも、ベギシュタットの住民たちにとっては対岸の火事でしかなかったのだ。
それはレオンにとっても同様であったのだが、唯一ホルストにとってはそうでなかった。
なぜならホルストの出身地はセヴェーロ王国、今まさに攻められようとしている国の……しかも国境に近い地域であったからだ。
そしてそこではまだ彼の家族や親しい友人たちが暮らしていた。
そのためホルストは最悪の場合に備え、急遽帰国することになったのであった。
見送りに来ていた面々との挨拶を終えたホルストが馬車へと乗り込んだところで、レオンが声をかける。
「戦争となると何が起きるかわかりませんからどうかお気をつけて。一応不測の事態に備えて馬車にはポーションも多めに積んであります。どうせ持って帰ってきても期限切れで使えないので遠慮なく使ってくださいね」
馬車の中にはレオンの用意したポーションのみならず、戦争になると不足するであろう食料や日用品が大量に詰め込まれていた。この馬車は最悪の場合、家族だけでも連れて帰ってこられるようにとグレッツナー商会が用意してくれたもので、積み込まれている物資はシュトラウス商会とオーピッツ商会が無料で提供してくれたものだ。
この一年でレオンとすっかり親しくなった商会長たちであったが、ともに行動していたホルストともしっかりと友誼を結んでいた。
「…………ああ、すまねえ、正直言って助かる。皆さんも本当にありがとう。あっちで手に入るかわからねえしな。この借りは帰って来たら必ず……」
「ええ、待ってます。パーティーを組む約束は健在ですからね」
「ああ、わかった。必ず戻ってくるからお前も上手くやれよ」
「はい、この街の住民になってお待ちしています」
御者が馬に鞭を入れ、ゆっくりと馬車が動き出す。
去り行く馬車を眺めながら手を振るレオン。その胸の内からは寂寥感とともにわずかながら不安も沸き上がってくる。
(心配しても仕方ない。ホルストさんは俺なんかよりよっぽど強くて経験豊富なんだ、どんな状況になっても絶対生きて帰ってくるはずだ。それよりも俺はこっちのことに集中しないとな……)
レオンはそれらを振り払うように馬車に背を向けると、自分も出発の準備をするため宿へと向かうのであった。