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よろしくてよ、旦那様

作者: 秋月優里




「君との婚約は、本日を以て破棄させて頂く! 私は君のような人形を妻にするつもりはない!」


 煌びやかなシャンデリアが、空間を美しく彩る大広間。

 そこで行われていた王立学園の卒業パーティーの場で、良く通る声でキッパリと告げられたその言葉は、祝いの場には全く似つかわしくない物であった。

 ざわ、と、人々が小声で何かを囁き合うざわめきが、瞬く間に伝播する。

 しかしその言葉を突き付けられた当の本人――シュヴァリエ公爵令嬢のジャンヌは、広げた扇で口元を隠しながら、「おや」と内心で微笑みを浮かべた。薄々そうかとは思っていたが、ジャンヌの目の前で別の女性の肩を抱いている我が国の王太子殿下は、あの事実をまだ知らないらしい。

 真っ直ぐ伸びた背筋に銀の髪を垂らした美しい立ち姿で、ジャンヌはわざとらしく首を傾げて見せた。


「発言をお許し頂けますでしょうか、殿下」


「何だ、今更私へ媚を売ろうとでも言うのか? もう遅い。この婚約破棄は既に国王である父上にも許可を頂いて――」


「いいえ。わたくし共の婚約は、一年以上前に白紙撤回となっておりますわ」


「……は?」


「ですから、殿下とわたくしの婚約は、一年以上前に白紙となっております。殿下とわたくしは、もう一年以上前から婚約者と言う間柄ではございません。他の女性を妻に娶る? よろしゅうございました。殿下がそのご慧眼で持ってお選びになられた女性ならば、きっとこの国の良き国母となりましょう」


 パチン、パチン。ひどくゆっくりとした動作で扇を閉じながら、ジャンヌは一つひとつの言葉を突き付ける。もちろん慧眼だなんだとは微塵も思っていないので、ただの嫌味だ。

 月の光を一身に浴びる銀の髪。夜空の星を集め、砕いて瞳にはめ込んだのかと思うほど美しい輝きを放つ金の瞳。この国一番の美姫でありながら、社交辞令の薄い笑みしか浮かべないジャンヌは、氷の姫として社交界でも有名であった。

 そんな彼女のことを「咲かぬ月下美人」と揶揄(やゆ)する者も多かったが、そんな彼女が今、満面の笑みを咲かせている事に、大広間に居た人々は別の意味でざわついた。王太子が発した「婚約破棄」と言うショッキングな言葉は、既に脳内から除外されつつあるようだ。

 パチン。とうとう最後まで扇を閉じ切ったジャンヌは、口元で広げていたそれを降ろし、両手に持つ。

 にこにこと本当に嬉しそうに笑みを浮かべたジャンヌは、またもこの場に集った一同を凍り付かせる一言を放った。


「これでわたくしも安心して、あの方の元へ嫁げますわ。シュヴァリエ公爵家から殿下へ支援の手が伸ばされる事は金輪際ございませんが、想い合う女性と手を取り合った殿下であれば、なんら問題なきこと。どうぞその方と支え合い、幸せになってくださいまし」


「え? え、いや、ちょっと待て。支援がないとはいったい」


「あら? 当然のことでございましょう? 我がシュヴァリエが殿下への支援を行っていたのは、わたくしが婚約者であったからです。ですがそれももう遠い過去のこと。殿下がわたくしとの婚約が白紙撤回されていることに気付くかと言う王家との賭けも、我がシュヴァリエが勝ちました。これを以て我が家は、王政の一端から退かせていただきます」


「ま、待て。待ってくれ! 私はそんな話聞いていないぞ! 第一シュヴァリエ公爵家が政から手を引くなど、そんなことをすればこの国は大混乱だ!」


「大丈夫、現宰相と現財務大臣がちょっと居なくなるだけですもの。優秀な殿下であれば、きっとこの国を盛り立ててくださいましょう」


 あからさまに狼狽える目の前の元婚約者の動揺を慮ることもせず、ジャンヌはにこにこと笑みを浮かべる。王家とシュヴァリエ公爵家の賭けは既に一年以上前から成立していて、彼自身も婚約の撤回書類に間違いなくサインをしている筈なのに、ちょうど今隣に立っている女性との、所謂「禁断の恋」「真実の愛」とやらに夢中だったこの男は、全く気付いていなかったらしい。頭を抱えたくなる現国王の気持ちも、ちょっとは解らないでもない。しかも現宰相と現財務大臣の父と兄は、今頃書類を放り投げて大喜びで領地に帰る準備を進めている事だろう。現国王が不憫だとは思うが、それよりもジャンヌは早くこの茶番劇を終わらせて、大好きなあの人の元へ行きたくて、うずうずしていた。

 目の前の「元婚約者殿」の進退など、はっきり言ってもうどうでも良いのだ。彼女はもう彼との縁はスッパリ切ったと思っているのだから。だからこの選択、行動によって、彼が王太子の座から引きずり降ろされようと、本当に、心から、心底どうでも良い。成程、確かに自身が彼に「人形」と言われるもの無理はないな、と思うが、つまりは彼がジャンヌの中で唯一絶対の特別になれなかった結果だ。

 こればかりは相性なんかもあるので、是非諦めて頂きたい。

 にこにこと笑みを浮かべた顔の下でそんな事を考えながら、指先一つ、零れ落ちるその髪の一房すら美しい極上のカーテシーで以てこの大広間から退く挨拶とし、後ろで「何よこれ、ここ、乙女ゲームの世界じゃないの!? あの女、道理で何のちょっかいも掛けてこないと思ったら、悪役令嬢じゃないワケ!? ふざけないでよっ! これじゃ私が当て馬じゃない!!」と喚いている女性の声に、何のことやらと内心で首を傾げつつも、その場を後にした。



 コツン、と王立学園の敷地内に敷かれた石畳に踵を打ち、淑女として何とかはしたなくない速度の早歩きで、淡い水色のドレスの裾を持ち、黙々と正門を目指す。

 ジャンヌが辞した後の大広間は、卒業パーティーどころではない程に静まり返っていることなど知る由もなく、紅潮する頬をそのままに、彼女は正門の前に立つふわふわの蜂蜜色を見付け、パッと顔を輝かせた。


「ヨシュア様っ!」


「あ、おかえりジャンヌ。早かったね。もう卒業パーティーは終わったの?」


「いえ、まだ他の卒業生達は大広間におりますわ。でもわたくし、ヨシュア様にお会いしたくて、抜け出して来てしまいました」


「ええ? んん、ジャンヌにそう言って貰えるのは嬉しいけど、こんなに綺麗な君は人気者だろうから、何だか申し訳ないなあ」


「まあ、まあっ! そう仰ってくださるのは、ヨシュア様だけですわ。この一年、なごうございましたが、漸くわたくし、ヨシュア様の元へお嫁に行けますの。嬉しくて嬉しくて、卒業パーティーどころではなかったわたくしを、どうぞお許しくださいませ」


 その言葉に困ったように眉を下げたジャンヌの現婚約者――ヨシュア・ジュベールは、「君は本当に俺を喜ばせるのが上手いよねえ」と垂れた眦の端を僅かばかり赤く染め、ぱっと両腕を広げた。


「卒業おめでとう、ジャンヌ。俺も君をお嫁さんにできて、凄く嬉しいよ」


「っ~~! まあ、まあっ!」


 氷の美姫の面影はどこへやら。

 へにゃっと形相を崩したジャンヌは、広げられた腕の中へ飛び込んだ。ぎゅう、とお互い抱き締め合って、彼が額へ落としてくれる口付けがあまりにも嬉しくて、またへにゃりと微笑んだ。




    ***



 シュヴァリエ公爵家の令嬢ジャンヌは、幼い頃から「一番」が好きな少女であった。

 礼儀作法はもちろん、刺繍、ダンス、算術、国史、剣術、馬術、果ては領地経営に至るまで、何でも一番が好きで、その為の努力を怠らない少女であった。

 しかも生まれは国一番の大貴族である公爵家で、そんな彼女が、当時第一王子であった現王太子の婚約者にと望まれたのは、齢十歳にも満たない頃であったが、その頃からジャンヌはずっと違和感を感じていた。

 やがて第一王子はシュヴァリエ公爵家の後ろ盾を得て立太子し、王太子となった。つまりジャンヌは、王太子の婚約者と言う事になる。

王太子妃となり、いずれ王妃となれば、それはこの国で一番の女性になると言う事だ。しかし一番が大好きな少女は、何故だかそれに何ら魅力を感じなかった。自分が努力して努力して一番を取っても、天賦の才があるわけでもなく、大して努力もせず、地位に胡坐をかくような言動が目立って来た王太子殿に疎まれる日々。しかも彼は、六年制の王立学園に、二年の途中で編入してきた天真爛漫で、ちょっとおバカな可愛らしい少女が気になっているらしい。

 彼と婚約して四年以上経った十四歳の夏、ジャンヌは成程と一つ頷いた。ずっと感じていた違和感の正体に、自分なりに名前を付けた瞬間だった。


「そうか。わたくしは王太子殿が好きではないのね」


 一番が好き。だから一番になれるように頑張る。言ってしまえばそれは、何かを学ぶのが好きと言っているのも同義。王太子妃の勉強も楽しい。でも、王太子自身を支え、いずれこの国の国母となることに対して、ずっと付き纏っていた違和感。モヤモヤの正体。

 口にしてしまえば、なんともあっさりした物だった。

 この違和感に蓋をして、良き妻を演じることは勿論可能だ。所詮王家と公爵家との政略結婚。そこに惚れた腫れたの感情は、きっと邪魔でしかないのだろう。多少の情があれば、自分は王妃の仮面を被って、彼を支えていける。そう思って少しでも王太子の「良い所」を探そうとしたけれど、ジャンヌの中にその答えが一つも無かったことに、少なからず絶望した。

 そして十五歳の秋。ようやく絶望にも折り合いをつけ始めた頃、その現場にうっかり遭遇してしまったジャンヌは、彼女らしくもなく思わず頭を抱えそうになった。

 王太子と、例の編入生の少女が、物陰に隠れて口付けを交わしている場面を、うっかり、本当にうっかり見てしまったのである。

 こちらの存在に気付かれないうちに、咄嗟に身を翻し隠れたが、自分達への背徳感で夢中になっている二人は、そもそもジャンヌの存在すら気付いていなかったらしい。


(やるのなら、もう少し場所を選んで頂きたいのですけれど……)


 頬に手をあて、はあ、と溜め息を一つ零す。

 これは自分が感情を殺して尽くす以前の問題かもしれない。別に側室を持つことに否やはないが、あれはダメだ。場所も立場も考えず、禁断の恋なんて言うワードに酔いしれている。悲劇のヒーローを気取っているだけの無能男に時間を割くなど、無駄でしかない。瞬時にそう結論付けたジャンヌは、学園に早退届を出して早々に今までの事を父に報告した。


「そう。じゃあ、婚約は撤回させよう。確かに、あの王太子に時間と金を使うのは無駄だと思ってたんだ」


「……よろしいのですか?」


「うん? 何がだい?」


「あの方とわたくしの婚約は、政略的な意味合いが多分に含まれていると、さすがのわたくしも存じております。王太子殿を尊敬することなど微塵も出来ませんが、我がシュヴァリエにとって必要であれば、お父様やお兄様の助けとなるのであれば、わたくしはいくらでもこの身を捧げますわ」


「……ん~。そうは言っても、彼を王太子で居させて、しかもこんなに優秀で可愛い娘の感情を殺させてまで嫁がせるメリットが、我が家にないんだよね。あくまでこの婚約は王家に頼み込まれたからだし。それにさジャンヌ。王太子の名前、言える?」


「ええ、もちろ……ん? あら? 申し訳ありません……ずっと王太子殿とお呼びしていたせいで……あら? お名前、何でしたでしょうか……?」


「ほら。それが答えだろう? 学ぶことが大好きなジャンヌに名前すら憶えて貰えない王はね、要らないと思うんだよ、僕は」


「まあ」


「ついでに王家に賭けでも持ちかけようかなあ。あの愚鈍な王子がいつ婚約が撤回されてる事に気付くか。は~。これで僕もようやく激務から解放されるよ。あの王子に仕える気は更々ないしねえ」


 にやりと口角を上げた父の姿に、もう一度「まあ」とだけ呟き、「いやでも」「あの愚息にはシュヴァリエの力添えがないと」と散々ごねる国王を、ジャンヌの父があの手この手で言いくるめ、正式に婚約自体が白紙になったのが十七歳の初夏頃であった。諸外国が交渉の場に立たれることを恐れ、辣腕宰相として国を動かしていると言っても過言ではないあの父相手に、実に一年以上のらりくらりと躱し続けた国王にこっそり拍手を贈ったのは、ジャンヌだけの秘密だ。


 そして十七歳の冬。ジャンヌは、彼と出会った。

 ふわふわ揺れる蜂蜜色の髪。垂れた眦に、瞳は空をそのまま切り取ったかのような澄み渡る快晴の色。

 柄にもなくへたり込むジャンヌが呆然とその姿を見上げれば、目の前の彼は先ほどまで見せていた凛々しい表情を一変させ、あわあわとトラウザーズの隠しからハンカチを取り出すと、それを自分の手に巻き、ジャンヌに手を差し出して来た。


「だ、大丈夫ですか!? どこか怪我は? 気分が悪いとか、そもそも俺が気持ち悪いとか、あの、大丈夫ですか!?」


「まあ……」


「まあ!? え、俺が気持ち悪い!?」


「あ、いえ。申し訳ありません。わたくしの口癖のようなものですの。手を、貸して頂いてもよろしいのでしょうか?」


「も、もちろんです……!」


「ありがたく存じますわ。失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいですか?」


「あ、そうですよね。失礼致しました。俺はヨシュア・ジュベールと申します。えと、一応、伯爵家の者です」


 手を貸して貰いながら立ち上がるが、脳内の社交界で顔を合わせたことのある貴族図鑑をパラパラと捲ってみても、残念ながら「ジュベール伯爵家」はヒットしなかった。社交界には興味のない家なのかもしれない。


「ジュベール様……。助けて頂き、誠にありがとうございました。わたくしはシュヴァリエ公爵家の末娘、ジャンヌと申します」


「シュヴァリエ公爵家!? し、しし失礼致しました! 王太子殿下の婚約者殿に、俺なんかが……!」


「まあ。婚約は半年前に撤回されておりますのよ。お気遣い頂き、申し訳ないのですけれど」


 その言葉にしゅん、と眉を下げた目の前の青年は、立ち上がったとしても見上げるほどに背が高くて、それでも少し長めの前髪に隠れてしまう空色の瞳が、ジャンヌの位置からであれば少し窺えるのが、何故だか嬉しくて、嬉しい理由が解らず、内心で首を傾げた。


「え、えっと。じゃああの、俺はこれで。貴女も気を付けて帰ってくださいね。どうにも、貴女は体質的に狙われ易いみたいですし」


「まあ。わたくしが? 本当に、なんとお礼を申し上げれば良いか……。ハンカチのお気遣いも、ありがたく存じますわ。そちら、洗ってお返しさせて頂きたいのですけれど、お預かりさせて頂いてもよろしいでしょうか?」


「いや、あの、本当に気にしないでください……!」


「いいえ。礼儀礼節を尊ぶシュヴァリエの人間として、この御恩には報いなければ」


「で、でも……あの、本当にずっとここに居るのは危険ですし……!」


「であれば、尚のこと」


 にこりと笑って両手を差し出せば、うう……と困ったと言うより戸惑いが勝るうめき声を上げてから、目の前の彼はジャンヌの華奢な手にハンカチをそっと差し出した。


「本当に、棄てて貰って大丈夫なので」


「とんでもないことですわ。これでまた、貴方様とお会い出来ますのね」


 思わず零れた笑みに、彼はんん、とうめき声を漏らす。

 咄嗟にはしたないことを言ってしまったと、ハンカチを持っていない方の手を口元を押さえた時には、もう目の前に、優しい眦を仄かに赤く染めた彼は、居なくなっていた。


「お嬢様っ! ああ、無事でよろしゅうございました、お嬢様……! 突然姿を消してしまわれたので、心配していたのですよっ! どこかお怪我はございませんか? 怖い思いなどは?」


「……いえ、大丈夫よ。心配を掛けてしまってごめんなさいね」


「いいえ、いいえ。お嬢様がご無事であればそれで良いのです。さあ、一度お屋敷に戻りましょう。お召し替えも必要ですわ」


「ええ」


 瞳いっぱいに涙を溜めた自身の侍女に、ぎゅっと手を握られる。随分心配を掛けさせてしまったと眉を下げたが、握られた自分の手の内にあるハンカチを見て、あの霞の如く不可思議な出来事は夢ではなかったのだと、ようやく確信した。


 屋敷に戻り、父にことのあらましを説明してから、数日が経った。ジャンヌ自身、手元のハンカチを見てはぼうっと物思いに耽る日々が続いていることに気付いているが、どうしてもやめられない。

 帰ってからすぐさまお礼の手紙を書いたけれど、これと一緒にハンカチを返してしまえば、この奇縁も消えてしまうと思うと、中々一歩を踏み出せないでいた。


「……わたくしは、こんなに臆病で卑怯だったかしら」


 王太子の婚約者と言う地位を失っても何とも思わなかったのに、今はこのたった一枚の繋がりを失ってしまうことが酷く恐ろしくて、そんな自分に溜め息を零す日々。そんな日々に終わりが近付いていることに、この時はまだ、気付いていなかった。



「ジャンヌ、君に求婚者が来たんだ。ジュベール伯爵なんだけど、いつ彼と知り合ったんだい?」


「え、……ええ?」


 父に呼び出され書斎を訪れた途端言われた言葉に、ジャンヌは長い睫毛で縁取られた金色の瞳を、数度瞬かせた。


(球根? いえ、違いますわね、きゅうこん、求婚……? あの方が、わたくしに?)


 ふわふわ揺れる蜂蜜色の髪。青空をそのまま切り取ったかのように澄んだ瞳。優しさが滲む垂れた眦に、こちらを気遣ってハンカチ一枚に隔たれた、大きな手。見上げるほど上背のあった青年の顔を、表情を思い出して、顔が燃えてしまうかのように、熱を持つ。

 思わず両手で頬を押さえるが、白磁の肌は耳や首まで真っ赤に染まっているせいで、なんの意味もなかった。

 そんなジャンヌの反応に眦を下げた公爵は、うん、と一つ頷いた。


「受けても問題なさそうだね」


「っ! お、お父様……!?」


「一目惚れかあ。いやいや、これも天命ってやつかな。彼なら君を護る剣としても盾としても申し分ない。代わりにジュベール伯爵家は君と言う豪運を得る。世の中上手く出来てるもんだよねえ。はあ、これで僕も安心して領地に引きこもれるよ。次はどんな政策をしようかなあ。あ、彼、応接室で待ってるから」


「お父様!?」


 サラリと告げられたとんでもない一言に、悲鳴のような声を上げてしまった。客人を待たせるなど以ての外であるのに、なぜ父はこうものんびりニコニコしているのか、ジャンヌにはほとほと理解出来なかったが、しかし許可なく目の前を辞すのも気が引ける。

 あわあわと意味もなく手を上下に動かし、しきりに父と扉に視線を移すジャンヌの姿に「あはは」と今まで聞いたこともないような笑い声をあげ、あからさまに狼狽えるジャンヌを引き連れ、シュヴァリエ公爵は応接室へ向かった。



「やあやあ。待たせて済まなかったね、ジュベール伯爵。あ、座ったままで構わないよ」


「ひえっ! あ、いや、いえ、全然、待っておりません、ので!」


「そうかい? ああ。先ほど申し入れられた婚約の話だけれどね、娘としても否やはないようだ。僕としても異存はないよ。ただまあ、君の口から直接求婚に至った経緯を説明して、それでも娘が頷くのなら、だけれどねえ」


「……まあ」


 ――本当に居た……。

 応接室に入って目にした蜂蜜色の髪を見て、ジャンヌは率直にそう思った。ガチガチに緊張した面持ちで、シュヴァリエ公爵が部屋に入った瞬間立ち上がろうとした彼はしかし片手で制され、大きな身体がソファの上で縮こまっている姿が可愛らしいと思ってしまうのは、どう言った感情なのだろうと、自分で自分に首を傾げる。


「じゃ、僕は少し席を外すよ。お互いきちんと納得したら、僕の書斎に来なさい」


「こ、公爵閣下!?」


「あ、もちろん扉は開けておくけれどね。なあに、君ならあの馬鹿王太子と違って、僕の娘に変なことはしないと信頼してのことさ」


「もちろんです。この名に誓って、決してそのようなことは」


「うん、うん。じゃあ、ジャンヌ。伯爵の話をちゃんと聞いて、君が決めるんだよ。いいね?」


「……本当に、よろしいのでしょうか。わたくしが決めてしまって」


「もちろんだとも。相応しくない相手なら、そもそも僕が突き返してる。王家との婚約を白紙撤回した件は、もう一部の貴族の間では噂になってる。であるのに、君に半年以上も婚約者が決まらなかったのは何故だと思う? まあ、王家との賭けの件も多少はあるけど、シュヴァリエにとって毒にも薬にもならない有象無象は、ぜーんぶ僕が断ったからだ。この意味が解るね?」


 あとはまあ、あんな無能に君を七年も縛り付けてしまった事への、せめてものお詫びだよ。そう言って公爵が応接室を出た後に待っていたのは、何とも言えない沈黙だった。


 テーブルを挟んで向かい同士に腰かけ、お互い目が合うと、顔を赤くして逸らすのを何度か繰り返し、数度目でジャンヌはある事を思い出す。


「あ、あの……!」


「は、はいっ!」


 自分から男性に声を掛けることの、なんと勇気のいることか!

 先日助けられた時とは、状況も心持ちも何もかもが違う。バクバクと五月蠅く脈打つ心臓の音が耳元で鳴っている気がするのは、きっと錯覚などではない。

 ドレスの上から手のひらをあてて数度深呼吸を繰り返し、ジャンヌは真っ直ぐに目の前の男――ヨシュア・ジュベールの顔を見て、ずっと持ち歩いていたハンカチを、ドレスの隠しから取り出し、ヨシュアへと差し出した。


「返すのが遅くなってしまい、本当に申し訳ございませんでした。あの時助けて頂いたことは、本当に感謝しております。それで、あの……あの、求婚の、お返事でございますが……」


「――ま、待って! 待ってください! 先に、あの、俺の話を聞いて欲しくて!」


「まあ……」


 ジャンヌの言葉を聞いた途端、急に立ち上がってテーブルに手を突いて身を乗り出して来たヨシュアの勢いに、ぱちくりと目を瞬く。

 あまりの勢いに驚き過ぎて、先ほどとは違う意味で心臓がバクバクしていた。


「っ!? も、ももっ申し訳ございませんジャンヌ嬢……!」


「あ、いえ。わたくしは、その、少し驚いてしまっただけですので大丈夫ですわ。それでその、ジュベール様のお話をお伺いしてもよろしいでしょうか?」


「よ、ヨシュアで良いです……。どうぞ、俺の事はヨシュアと。それで、その」


 すぐさま我に返ったのか、ざっと顔を青褪めさせたヨシュアが後退り、ソファにふくらはぎを打ちつけそのまま尻餅をつくようにソファへ戻り、ジャンヌの言葉にぎゅっと自身の両手を握りしめ、瞳を閉じ一度大きく深呼吸をする。

 すう、と開かれた青空色の瞳は、もう動揺を浮かべてはいなかった。


「……ジャンヌ嬢のお話を遮ってしまい、申し訳ありません。でも、この話をしないまま貴女からの返事を頂くのは、あまりにも……アンフェアだ」


「アンフェア?」


 貴族には珍しい考え方だな、と瞬時に感じたが、思わず鸚鵡返しにした言葉以上を紡ぐことはせず、じっと彼の言葉を待つ。

 自身がジュベール伯爵家に嫁ぐことで得られるシュヴァリエからの金銭的恩恵のことを言っているのかとも思ったが、たった一度、刹那の間に言葉を交わしたあの日のヨシュアは、金銭について気にするような人には見えなかった。


「貴女は……大変、運が強い。そうではありませんか?」


「まあ。お父様が仰ったのですか?」


 確かに、ジャンヌは運が強い。豪運の持ち主と言っても良い。軽い気持ちで投資した商会が急成長を遂げたり、何気なく拾った綺麗な石が貴重な鉱石だったり、たまたま目にした花について後ほど問えば、万能薬の元になる大変希少な植物だったり、祖母から遺産として引き継いだ土地から金が採掘されたりと、齎された幸運は枚挙に遑がない。

 その話を父が彼にしたのだろと思ったが、どうやら違うらしい。緩く頭を振るヨシュアに、ジャンヌは不思議な気持ちになった。

 ではなぜ、彼はジャンヌが豪運の持ち主であると知っているのであろうか。


「俺の家、ジュベール家は、所謂とても霊感が強い家系です。この国が建国した当初から、霊的な災厄からこの国を護っていた。影の番犬……なんて言われる家でして。我が家の存在価値は、王家と歴代の宰相しか知りません。事情を知らない貴族からは、社交界の表に出ることのない、日陰者の家、貧乏貴族……なんて、言われる事もあります。まあ、領土の一部の土地は、先代が受けた霊障のせいで実際に作物が実らないので何とも言えないんですけど」


 あはは、と困ったように眉を下げて笑うヨシュアの姿に、ぎゅっと胸が締め付けられる。全身から優しさを滲ませるこの人が、どれだけ口さがない者達に傷付けられたのだろうと思うと、歯痒くて堪らなかった。


「それで、そんな生業の俺から見ても、ジャンヌ嬢は……とても、特殊です」


「特殊? わたくしが、ですか?」


「はい。貴女は……その」


「大丈夫です。遠慮せず仰ってくださいな」


「……貴女は、死霊に好かれるほどの、望まれるほどの、強い魂を持っています。それこそ、死霊からその魂を、命を、狙われるほどの」


「まあ。ですからあの時、不思議な場所でヨシュア様に助けて頂いたのですね。なるほど、死霊ですか。わたくし、今までお会いしたこともございませんが、つまり魂が強いだけで、わたくしには見るほどの才能は無いと言う事でございましょう。あの時は状況が呑み込めないまま座り込んでいただけでしたし、まあ、まあ、わたくし命を狙われていたんですのね。であれば尚更、助けて頂いたこと、深く御礼申し上げますわ、ヨシュア様」


「えっと……驚かないのですか?」


「……お恥ずかしながら、大変驚いております。驚き過ぎて、状況を呑み込むために言葉にしてしまう程度には、驚いておりますわ。わたくし、呆然としている間に死ぬ所だったんですのね」


 淑女としてあるまじき言葉数で捲し立てた自覚があるだけに、些か気まずい。もう一度「お恥ずかしい限りです……」と小さな声で零し俯いたが、ふと疑問に思う事があり顔を上げる。


「ヨシュア様、質問をしても宜しいでしょうか?」


「え? ええ、はい、どうぞ」


「わたくしが死霊に命を狙われている、と仰りましたが、あの不思議な場所に訪れたのは、ヨシュア様に助けて頂いたあの日が初めてなのです。突然わたくしの魂が覚醒した……なんて、巷で流行っている冒険小説のようなことが起こったと言う事でしょうか?」


「あー……えっと、それはですね……。王太子殿下と、婚約していたからかと」


「まあ。殿下と。王家の力なのでしょうか?」


「いえ。えっと……ここだけの話にして頂きたいのですが」


「? はい、畏まりましたわ」


 きゅっと眉間に皺を寄せたヨシュアは、言い辛そうに何度か口を開閉した後、意を決したように、大変真面目な顔で、その言葉を放った。


「殿下は、その、死霊に嫌われるレベルで、運がなくて。とんでもない悪運の持ち主なんです。それこそ死霊ですら気味悪がって近寄らないレベルの」


「…………まあ」


「俺も学園に在学中、偶然姿をお見掛けした時には驚きました。よくあれで今まで生きてられたなあって。二人が結んだ(えにし)によって、殿下の悪運とジャンヌ嬢の強運が良い感じに相殺されて、今までジャンヌ嬢は死霊に狙われる事無く過ごして来た、と言うのが俺の見解です」


 ヨシュアの話を聞きながら、ジャンヌは少しばかり胸のすく思いでいた。あの王太子殿が、あの、禁断の恋とやらに溺れていた王太子殿が、死霊ですら気味悪がって近寄らないレベルの悪運の持ち主。その羅列だけで、悶々とした日々を送ってきたジャンヌからすると、ちょっと面白い。


「殿下と居ても得るものはないと思っていたのですが、そうですか。わたくしも、恩恵を受けていたのですね」


「いえ、あれはもっと性質(たち)が悪いように見えましたから……多分、周囲の何もかもをも巻き込んで破滅させるタイプの悪運です。最早呪いに等しい。実際、殿下との縁の残滓が完全に消えるまで、負の象徴たる死霊ですら貴女に近寄らなかったわけですし。俺としては正直、貴女に何かある前に離れてくれて良かった、とさえ思います。……それで、ですね。俺が貴女に求婚を申し込んだのも、これが理由の一つ、でして……」


 求婚、と言うワードに、心臓がとくりと跳ねる。そう、そうだ。そう言えば本来、自分達はその為に話していたのだった。ジャンヌは居住まいを正して、ヨシュアの言葉の続きを待つ。

 目の前の彼は、可哀想なぐらい顔を真っ赤に染めていた。


「ジュベール家なら、俺、なら……! 貴女を護れますっ 俺が貴女に差し出せるメリットはそれだけで、しかもこの申し出は、これからも死霊の脅威に脅えたくなければジュベールの家に来いと言っているようにも聞こえる。それではあんまりだ。俺のお嫁さんになって欲しい女の子に、あんまりだ。アンフェアだ。だから豪運とか、死霊とか、番犬とか、全部貴女に話しました。話すのも、話さないのも迷ったけど、全部知ったうえで、貴女に決めて欲しかった。だから、もし、俺の話を信じてもらえるなら、貴女がもし、俺を選んでくれるなら、俺の、お、お嫁さん、に、なってください!」


「……一つ」


「は、はいっ!」


「一つ、お伺いしたいのですけれども。わたくしはシュヴァリエの娘。そしてヨシュア様のお見受け通り、強い運を持っています。それは否定致しません。ヨシュア様。貴方様は、その縁が、その運がなくとも、わたくしの手を取ってくださいますか?」


「お、俺、は……。初めて、会ったあの時、綺麗な人だなって、思ったんです。月の女神様みたいだって。お礼を言ってくれた声も、鈴を転がしたみたいに、可愛くて。でも、何より、その魂の美しさに、どうしようもなく、惹かれた。怖かっただろうに、真っ直ぐ背筋を伸ばして微笑んで見せた貴女の在りようが綺麗で、美しくて、愛しく、て。……恋は落ちるものって言葉、あの時実感しました。理屈とか、損得とか関係なく、貴女を護れる力を持ってる自分が、誇らしく、思えて……。先ほどお話した通り、ジュベール領の一部は霊障によって殆ど使い物にならない。シュヴァリエ領に比べて、ずっと貧しいのも事実。貴女に絶対苦労させません、とは、言えないけど、でも、貴女を護ることなら、俺にも出来ます。俺にしか……出来ない。だから、えっと、何が言いたいかと言うと、別に断られたって、俺は、俺の意志で、陰ながら、邪魔にならないように、貴女を護ります、ので」


 話しているうちに青空色の瞳に滲んだ涙を、彼から預かっていたハンカチでそっと拭う。

 突然ソファから立ち上がり隣に座って、手を伸ばし目尻に触れたジャンヌに驚いたのか、ヨシュアは真っ赤な顔のまま固まっていた。

 ふる、ふるりと、心が震える。


「わたくしが、シュヴァリエの娘でなくても構わないのですか?」


 こくり。ぽかんと口を開いたままのヨシュアが頷く。


「この豪運がなくとも、構わないのですか?」


 こくり。ジャンヌの言葉に、目を見開いたままのヨシュアは、またも頷く。


「わたくしが、わたくしで在るだけで、ヨシュア様はわたくしを愛してくださるのでしょうか?」


 こくこくこく。壊れた玩具のように頷く動きに合わせて、ふわふわの蜂蜜色が揺れた。


「では、そこにわたくしからの愛がなくとも構わないのですか?」


「え……」


 まるで大好物をお預けされた犬のように顔を曇らせ、しょん、と眉尻を下げたヨシュアの姿が可愛くて、愛しくて、ジャンヌは思わずふふ、と笑みを零す。

 それが決め手だった。ジャンヌの心が、魂が、そう決めてしまった。

 ジャンヌは一番が好きだ。だからこそ、理屈も損得も何もかも差し引いたとしても、「ジャンヌの存在自体が愛しい」と言ってくれる人の言葉に、想いに、心揺れないわけがない。

 ジャンヌを一番愛してくれる人が、ジャンヌが一番愛せる人。例え死霊に付け狙われようとも、そんな唯一無二の人とこうして巡り逢えた自身の豪運に、唯々感謝の念しかない。


「まあ、まあ。どうしましょうヨシュア様。わたくしどうも、貴方様の事が愛しくて愛しくて、仕方がないようなのです」


「えっ!」


 先ほどのしょんぼり顔は何処へやら。打って変わって喜色満面の表情を浮かべたヨシュアのふわふわの蜂蜜色に指を滑らせ、ジャンヌはうっそりと微笑んだ。


「よろしくてよ、わたくしの未来の旦那様。貴方様がわたくしの存在自体を愛してくださるのなら、わたくしも貴方様が護るもの総てを愛すると、誓いますわ。わたくし、一番が好きなんですの。ですからどうぞ永久(とこしえ)に、わたくしを一等愛してくださいましね?」


「う、うんっ! うんっ!! ジュベールの土地の男は一途なんだ、ずっと、ずっと俺には君だけ。君だけが、俺の月の女神様」


「まあ。嬉しい。では貴方様はわたくしの太陽の神様、ですわね」


 こうして、十七歳の冬の終わり。ジャンヌ・シュヴァリエとヨシュア・ジュベールの婚約が、密やかに取り結ばれた。




     ***



 あれから一年。まさか大衆の面前でとうに白紙撤回されていた婚約について破棄を申し出されたのは予想外だったが、今や心の総てをヨシュアへ傾けているジャンヌにとっては痛くも痒くもない、ただの茶番劇だった。

 ちなみに、求婚を受けると父に報告した際は「ああ、うん。そうだよねえ。一番が大好きなジャンヌが、自分が一番愛せる人に出会っちゃったら、そりゃあそうなるよねえ」と笑いながら婚約誓約書にサイン、捺印していた。相変わらず仕事が早い。きっと今頃は結婚誓約書が準備されている事だろう。

 揺れる馬車の中でふわふわの蜂蜜色に指を絡ませながら、ジャンヌは笑う。


「ジャンヌ、ねえジャンヌ。恥ずかしいよ……」


「まあ、まあ。わたくしの未来の旦那様。大衆の面前で辱めを受けたわたくしを、どうか癒してくださいましな」


「え?」


 密着したままジャンヌに髪を梳かれ、顔を真っ赤に染めていたヨシュアの顔色が、がらりと変わった。

 しまった、と思った時には既に遅く、唇から零れた言葉を撤回することなど出来ない。

 あの日、ジャンヌを護ると宣言した彼は、まさしく溺愛と言って良いレベルでジャンヌを大切に慈しみ、その心身を護ってくれている。


「ジャンヌ。ねえ、俺の愛しいジャンヌ。あの王太子に何かされたの? 身体に触れられた? 酷いことを言われた? された? それとも他の誰か? ねえ、教えて?」


「あ、う……ええとですね、ヨシュア様」


 普段は温和でのんびり屋さんで、ちょっぴり意気地が足りない大型犬のようなヨシュアが、ジャンヌの事になると地獄の番犬さながらに豹変する姿を見るのは、別にこれが初めてではない。この一年で何度も見て来た。そしてそんなヨシュアが嫌いではない……いっそ好きなので、ジャンヌとしては困ってしまうのだ。

 唇が触れ合ってしまうと思うほど近くからじい、と瞳を覗き込まれると、青空色の瞳の奥にあるキラキラした輝きが見える。死霊を退ける魔眼だと彼は言っていたが、ジャンヌを魅了する魔眼の間違いではないだろうかと思ってしまう。それほどまでに美しい輝きに、ジャンヌはほう……と溜め息を零した。

 ヨシュアの怒りが露わになればなるほど輝きを増すこの美しい瞳が、ジャンヌは一等好きなのだ。


「んぅ」


「ん、はっ……ね? 教えて?」


 そのまま唇を食まれ、ふるりと甘い痺れに背中が震える。ちゅ、ちゅ、と可愛らしい口付けを繰り返され、愛しさを十二分に孕ませた甘やかな声を耳に吹き込まれ、とうとうジャンヌが根を上げた。


「は、はぁっ……こ、言葉が、過ぎました。今更ながらに、婚約破棄を突き付けられただけですのよ。わたくし、全く気にしておりませんわ」


「へえ。今更。もう君は俺のお嫁さんになるのにね」


「ええ、ええ。そうでございましょう。今更、です。ですから、ね? ヨシュア様、怖いお顔はおよしになってくださいな」


「うん。うん。大丈夫。ジャンヌを傷付けたあんな奴を、この国の王になんてさせないから」


「ですからわたくし、一ミリたりとも傷付いてなどおりません。だって、あの方の為にわたくしの心は動かないのですもの。喜びも悲しみも、あの方の言葉は、行動は、一つもわたくしの心を動かすことは出来ないのです。ですからヨシュア様、いつものお顔を、わたくしに見せてくださいませ」


「……怖い顔の俺は、嫌い?」


「いいえ。大好きだから、困ってしまうのですわ」


「うん。俺も君が世界で一番大好きだよ。だから心臓に悪いことを言わないで」


 ぎゅう、と抱き締めて来たヨシュアの背中に腕を回し、その肩口に額を擦り付ける。世界で一番大好きで、世界で一番安心するジャンヌの特等席だ。恥ずかしがらずに最初からこうしてくれればジャンヌだってあんな失言はしなかったのだが、どちらかと言えば責は己にあると思い直し、素直に謝罪の言葉を口にする。

 御者が到着の声を掛けるまで、二人はずっと抱き締め合っていた。



    ***



 冬に二十三歳の誕生日を迎えたヨシュアは、春に二十歳の誕生日を迎えるジャンヌからすれば十分大人だと思う歳なのだが、日溜まりの中、芝生の上ででぬくぬくとお昼寝をしている姿を目撃してしまうと、思わず「可愛い……」と呟いては、微笑ましい気持ちになってしまう。

 早いもので、ジャンヌがジュベール伯爵家に嫁いでから、もう一年以上が経っていた。

 シュヴァリエ公爵家、そして影の番犬であるジュベール伯爵家の当主――その中でも歴代随一と謳われるヨシュアが、正式に第二王子についたことにより、第一王子である王太子はその地位から退かざるを得なくなり、真実の愛とやらに浮かれていた二人は、結局破局を迎えたと風の噂で聞いた。今まで傲岸不遜な振る舞いをしてきた分、王宮内での立場はまさに針の筵らしい。


「んん……」


「あら、目が覚めまして?」


「ん、ジャンヌ……膝枕して……」


「ふふ。ええ、ええ。よろしくてよ、旦那様」


 のそりと大きな身体が動いて、ふわふわ揺れる蜂蜜色がジャンヌの膝の上にすぽりと収まる。日の光を反射してとろりと蕩ける蜂蜜色に指を絡ませてから、ジャンヌは昨日も領地経営と土地の霊障を清める為に走り回っていた夫の頭を、優しく撫でる。

 先代――ヨシュアの父が霊障を受け亡くなった地には、ヨシュアが手ずからホワイトセージの木を植え、定期的に浄化を施しているらしい。ヨシュアの力が込められた指輪を通して視る景色はほんのりと薄い靄と、キラキラお日様の光のように降り注ぐ光で溢れていて、ジャンヌはその光景が嫌いではなかった。こんなに上手く浄化が進んだのは自身の豪運のおかげだと夫に抱き締められれば、尚のこと。

 そして浄化が完全に終わるまで、作物が駄目なら養蚕業(ようさんぎょう)はどうかとジャンヌが提案した一件が、漸く形になり始めたらしい。別の場所へ植えた蚕の主食である桑は実も生る果樹で、葉を蚕へ、甘い実を子供たちへ与えることで、子供たちが実を食べに行くついでに葉を取って来てくれるだろうと思ったからの提案だった。それに桑自体が、色々役に立つ植物である。

 ジャンヌの持参金の一部を使って、農作に向かない土地に養蚕所と製糸場、ついでに桑の木の根から薬を生成する為の製薬場と、皮から紙を()く為の製紙場も作った。これでこの土地の領民が職にあぶれると言うこともなくなるだろう。

 このまま蚕から始まった産業がこの土地に定着すれば、これで雪の降る真冬であろうと、領民たちは薬を作り、紙を漉き、糸を撚って、染めて、布を織って、明日の飢えを心配せずに生きていける。

 次に憂慮すべきは飢饉の際の保存食作りだが、一度に多方面に手を出し過ぎても混乱を招くだけ。今はとにかく美しい絹を作り、その副産物にあやかりながら、ジュベール産の絹を広めることに尽力しなければ。


「よろしいですか、旦那様。貴方様は影の番犬である前に、この土地の領主でもあらせられます。民の飢えは国の飢え。決して領地経営を甘く見てはなりません。民が我等の為に存在するのではなく、民によって我等が存在しているのです。数の民意は時に暴力となり、内乱となりましょう。民草の税金によって生活を保障されている我等貴族こそが、民草の明日を保障せねばなりません。民草は明日を見ますが、我等は十年先を見ねばなりません。しかし除霊の仕事も受け持つ旦那様に、これら総てを一人で円滑に回せなどと無茶なことは申しませんわ。その為に、わたくしが居りますのよ。ああ本当に、わたくしの今までは無駄ではございませんでした。なんと言う幸運。なんと言う豪運。ええ、ええ、ジュベールの地にこそ栄光ありと、わたくしが証明致しましょう」


 何て、この土地に、ジュベール伯爵家に嫁いできて直ぐ、得意げに啖呵を切った学園を卒業したばかりの小娘の言葉を、知識を信じ、ヨシュアはジャンヌと一緒にこの一大改革に乗り出してくれた。

 だから今は、ほんの少しの小休止。きっとこのお昼寝が終われば、ジャンヌの愛しい旦那様は、西へ東へ走り回って、土地の霊障を浄化して、死霊によって窮地に立たされている人々を救うのだ。

 そうしてこの地へ、ジャンヌの元に帰って来て、「ただいま」とへにゃりと笑う。

 ジャンヌの大好きな、あの笑顔で。


 ああ、なんて、なんて。



「なんて幸せな、時間かしら」



 死霊をも引き寄せる自身の豪運が齎したのは、確かに得難い程の幸運であったと、ジャンヌは優しく降り注ぐ日差しの下で、微笑んだ。





連載してる救国女王の四章が重すぎて、息抜きのつもりでさらっと軽いラブコメ書こうとしたら何故かこんな内容になりました。何故だろう。

少しでも楽しんで頂けたのなら幸いです。



書いてる本人が医療従事者(通常業務+発熱外来+ワクチン接種がマジで激務)の為、相変わらず更新は不定期&のろのろ亀更新ですが、救国女王含めのんびりお付き合い頂けますと幸いです。

この夏で5kg痩せました。マジかよ。

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[良い点] 面白かったです。 [一言] 医療従事、お疲れ様でございます。皺寄せによってお仕事大変かと思いますが、ご自身の体調に気をつけて、ストレス溜めないようお過ごしください。 ちょっと前に骨折しまし…
[気になる点] 悪運は、悪いことしても何故か運がいいことなので、 この王子さまは凶運があってるんじゃないかなあと思います。 他の思惑があっての言葉遣いだったなら、申し訳ありません。 読みやすくて、面…
[一言] がんばっている人にがんばっては失礼なコメントでした。すいませんです。 自分はコロナに感染してませんが、医療従事者に、ありがとうございますと言いたい。
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