秋
春夏秋冬 秋の巻
地方都市 妙齢の女性
*
駅前近くだけは、都会のふりをして賑わっている街並を、車で20分も走り抜ければ、緑豊かな風景が広がる。 地方都市とは、大概そのようなものだ。
日差しは年々強くなり、ここ数年は10月中旬でも暑い日は暑い。 それでも彼女は、幸せそうな笑みを浮かべて駅のホームに立っていた。
小花を散らしたプリント柄の、膝丈までのワンピースを清楚に着こなしている、セミロングヘアの女性。 アウターには、ロングカーデガンを合わせている。
彼女は、これから向かう式場のリーフレットを眺めていた。
翌年の3月に結婚式を挙げる予定だった。 式場選びには、3ヶ月はかかった。
その日は、パンフレットの写真を見て目星をつけた、何着かのウェディングドレスを試着する予定だった。
結婚を控えた不安よりも、どんな風に式を彩ろうか? と言う楽しい想像の方が頭の中を占めている、とても幸せな時期だった。
その日、婚約者は仕事の都合がつかず、自宅から同行出来なかった。そのため、珍しく式場での待ち合わせを約束していた。
いい機会だったので、公共交通機関を使って会場に向かう方法を、自分で確かめてみようと思い立った。
通常、自家用車が生活必需品の地方生活。 こんな機会でもなければ、中々、電車に乗ることもなかった。
たまの電車旅は、旅と表現するには短い距離でも特別感があり、心楽しいものだった。
その特別感は、浮き浮きした気分に良い感じのスパイスとなり、季節のわりに暑さを感じる少々面倒な道行きにも、思わず口許を緩ませる程の効果となっていた。
ふと、目眩と頭痛に襲われた。
秋だと言うのに、季節外れに強い日差しを受けていた。 普段は自家用車を使うぶん、気温の変化には、上手にカークーラーを利用して対応している。
駅のホームではやはり暑さを避けられないから、軽い熱中症にでもかかったのかと、自分で思った。
軽い熱中症ならば、冷たいものを額に当てて、水分を取りながら日陰で少し休めれば、きっとすぐに良くなるだろうと、あまり深刻に考えずに自動販売機を探した。そして、首を捻って視点を変えようと試みた。
それは、何も特別な行動ではない。 何の無理もない動きの筈だった。
けれど、彼女の記憶はそこで終わっていた。
**
小花を散らしたプリント柄。 膝丈までのワンピース姿を清楚に決めていた女性は、今。
少し歳を重ねていた。 けれど、幸せそうに微笑まなかった。
目を閉じていた。 呼吸は自力で出来ている。ごく稀には、表情が動いたかのように錯覚してしまうことがある。
……けれども。
目は開かない。 手も指も動かない。 半身でも起き上がることはない。 立ち上がらない。 しゃべらない。 足が動くこともない。
白い病室のベッドの上で、ただ 静かに 静かに 呼吸をしている。
年老い、彼女の目覚めを待つことも出来ずに、彼女の母親はつい数年前に亡くなった。 父親は、もう少し前に旅立っていた。
今、彼女の元へ足繁く通ってきて、目覚めない彼女に声をかけるのは、少し年の離れた兄だけだった。
この場所から彼女が動けなくなったあの日から、既に10年の年月が経過していた。
婚約者の彼は、始めの内は時間を見付けて、まめに病室を訪れてくれていた。
彼女がいつ目覚めるともわからない状態になって、1年が過ぎる頃から徐々に、足が遠退き始めてしまった。
彼女の兄は、それも仕方がないだろうと、彼女の寝顔を見ながら ぼんやり考えて、それでも不憫な思いにやりきれなくなる日もあった。
最後に婚約者だった男が訪ねてきてから、8年半の年月が過ぎた頃。
男は身を小さくして、長年の無沙汰を詫びながら、病室にいる兄の前に現れた。
そして、更に身を縮ませながら、申し訳なさそうに、自分の新しい幸せの報告をした。
「申し訳ありません。結局 僕は一番残酷な形で、彼女と別れてしまった。 それなのに……」
言葉が続けられなくなる。 暫しの沈黙のあと、
「……ただ、自分の気持ちに区切りをつけたく、ご報告だけでもさせていただきたくて、会いに来ました」
「今まで、妹の事を忘れずにいてくれて、……感謝します」
それ以外には言葉が出てこなかった。
それは、仕方のないことだと 理屈では理解している。
いつまでも目覚めない婚約者を死ぬまで待ち続けることなど、難しいだろう。
彼は、普通に生きているのだから。
***
駅のホームで、幸せそうな笑みを浮かべている彼女の姿は、何年間も変わらなかった。
彼女の時は、あの日から止まったままだ。
病室で眠っている筈の彼女は、この場所では歳を重ねることなく、あの日のまま若々しかった。
けれども、10年の月日を過ぎた ある瞬間から。 彼女は違う表情を見せ始めた。
目まぐるしく変化する。
幸せと悲しみの表情。
慈愛と怨念の表情。
日暮れ近く、目の前がボヤけるような明かるさの中で、彼女の姿は半分透明だった。
彼方側が透けて見えている。
その表情は、クルクル変わる。
一度見てしまったら、視線を外せない。 見えてしまったなら、ただ、耳を澄ませてしまう。
心が、聴こえる。
幸せになってほしい。 大切な人だから……。
私が目覚めるまで、待っていてほしかった……。
幸せになってほしい。 でも、忘れないで!
いっそ、不幸な結末になって、私のもとへ帰ってきて!
新しい幸せを 掴んでほしいから、私の事は忘れても怨まないから……。
行ったり 来たり 揺れる思いに、心が落ち着かない。
瞬きをする、束の間で。 次に見える表情が、クルクル変わる。
優しく慈愛に満ちた。
暗く恨みがましい怨念を宿した。
楽しそうに微笑んだ。
悲しそうに歪んだ。
クルクル、クルクル。 クルクル、クルクル。 クルクル、クルク…、…………、…………。
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彼女が語りかけるのは、いつも決まって、結婚を控え希望に満ちた瞳をした女性ばかりだった。
彼女たちは、このホームを後にするときには必ず、知らず、涙を流しているという。
冬に続く
次回で終了します。もうしばらくお待ちくださいませ。