常雨の街のウェンディ
雨音が足元から沁みこんで来る。
雲のように白い石畳の上を雨水が流れ流れて、石蓋の嵌められた水路へ落ちていく。
もしその景色をのんびり眺めている者が居れば、流れの集まる場所で草舟がくるくる回っている所が見えただろう。多くの場合、この街に二つある入り口に立った時、大きなすり鉢状の街並みに目を奪われる。夕焼けに見る赤を掬い取って色付けしたような屋根が立ち並び、隙間からは渦巻状の街路と長い階段が覗き見え、白い街路の上を色とりどりな傘が行き交っているのだ。
雨雲に覆われた街並みは、都会で見る重苦しさとは別物だった。
薄暗いと言われればそうなのだが、太陽の眩しさにそっと手を翳したような優しさがあり、やわらかな雨音と相まってついうとうとしてしまいそうな雰囲気がある。
長い時間をバスで揺られ続けてきた団体旅行客たちは、それなりに長かった旅の疲れにほっと一息つき、今日の為に用意してきた傘を広げて花を咲かせている。中にはうっかり傘を忘れた者も居て、旅中で親しくなったご婦人の傘へほんのり口元を固くして入れてもらう紳士も居る。年齢層が高いこともあって囃し立てられることもないが、中年の女性三人組などは目を合わせてにんまり笑う。
そんな彼らの前へ、ワンピースに長靴姿の少女が躍り出た。
片手には当然傘がある。
少女は雨に濡れるのも厭わず両手を広げ、小春に吹く風のように声を張った。
「ようこそ、常雨の街ウェンスティアへっ!」
ツアー客一同は待っていたものが始まったとばかりに手を打った。
傘の少女は再び傘を頭上に戻し、今度は恭しく礼をする。
「遠路はるばるようこそお越しくださいましたっ。ご覧のとおり本日は絶好の雨。この常雨の街では一年の内八割がこのように静かな雨が続いています。人々は雨と共に生き、雨と共に大地へ還り、やがてまた雲から降り立ち生を受けるのです。ここで蓄えられた水は地下深くを通り、やがて川を成し、大陸の隅々にまで広がっていきます。ユースラティス大陸の心臓とも呼ばれた日もありましたが、ドクンドクンと鳴っているよりかは、今皆様の足元から聞こえてきます雨音を思わせる『常雨』の名をどうか家までお持ち帰りくださいますようお願いします。伏して、いえ、伏すと濡れますのでこのままで失礼しますが」
調子の良い口上に好意的な拍手が続き、少女は下げた頭を勢い良くあげる。
スカートを摘んで後ろへ払い、足を引いて片手で街の景色を示す。
「既にご覧頂いたかとは思いますが、このウェンスティアは高原にあり、長い年月によって中央の地下水路へ流れ込む水が大地を削り削って出来上がった、すり鉢状をしています。その形状を指してさる詩人は世界のへそと呼びましたが、心臓なのかへそなのかちょっとハッキリして欲しい所です。まぁーっ、この常雨の街は長い歴史がありまして、あれこれと大変な時代もありましたので、詳しい歴史について興味がございましたら、この後で案内される宿で適当なご老人を捕まえてください。きっと今夜の酒代が浮くでしょう、睡眠時間は削れますが。それも旅の醍醐味、かもしれませんけどね」
そしてくるりと傘を回し、
「それでは前口上はこの辺りで。ここから先の通路は狭く、バスは入って来れない為、お荷物は台車にてお送りします。ところで傘をお忘れの方はいらっしゃいませんか? もしお忘れのようでしたら、入ってすぐのお土産屋さんでお好きなものをお選びくだ――あーっ実は今日はお土産屋さんは休業中です、休業させますので、どうかそちらのお二人は是非是非傘をシェアしていただいたまま観光をお楽しみ下さい。ここは常雨の街、雨に纏わる愉しみを心行くまでご堪能下さい。ふぅう、ではちょうど遅れていた新人が来たようですので、後の事は彼女へ聞いてくださいね」
示された手の先、すり鉢状の外周をけたたましいエンジン音を響かせながらやってきた、一台のバイクに人々が目を奪われている間に、少女はそっと傘を閉じたのでした。
※ ※ ※
初めて一人で仕事を任されることとなり、アリシアはとても張り切り、張り切り過ぎて準備を過剰なほど整えた挙句集合場所を間違えた。
元々ウェンスティアは大きな街ではないから、ツアーガイドも人が足りておらず、基本的に一団体に一人という投げっぷりだ。繁忙期には一人で五団体を回したツワモノも居るのだが、お給料はそれなりに良く、若い観光客からは都会の話も聞けるとあって垢抜けた人が多い。言ってしまえばこの雨ばっかりな街で憧れの職業とされるものだ。
ところが今日のためにクリーニングしたスーツは既にびしょ濡れ、当然髪もぐっしょりでセットは乱れ、必需品と教えられてきた手鏡は置いて来た鞄の中だ。幸いにも運送業をやっている幼馴染をしこたま拝んでタクシーにして、このウィンスティアに二つある入り口の一つ、東門から西門へとかっ飛ばしたのだが、流石に遅刻は免れなかった。
前もっての手続きや、荷物運びの要員は東門へ放り出して来た為、入り口脇のお土産屋のおじさんに頼み込んで場所を借りよう。
既に失敗のごまかしだけは手練れになりつつあるアリシアだが、ツアーガイドとしての一人立ちは始まったばかり。
でもなぁ、遅刻だしなぁ、お客さん怒ってるかなぁ、などと降りしきる雨よりもざめざめと涙を流し、ようやくツアー客の元へ辿り着いたのだが。
「ははは、君が言ってた新人か。先輩が助けてくれてよかったな」
「あらあらびしょ濡れじゃない。ほら、コレ使っていいから髪をお拭きよ」
「私たちはいいから、まずは身を整えてらっしゃい」
「しかし先ほどの子は見事なものだったなあ。随分若く見えたが、流石は世界のへそ、あいや、常雨の街と知られる観光地だよ」
なんだかほっこり受け入れられてしまい、どころかご婦人らは孫がやってきたような扱いで、誰も怒り出す様子はない。
コレって私の人徳!? などと調子の良い事を考えたのも束の間、気になる言葉があった。
「わ、私の前にどなたか来てくれてたんですか!?」
「えぇ、さっきまで元気良く迎えてくれましたよ。あら、もう何処かへ行ってしまったようだけど」
「はぁ……んー……?」
今日は案内所に三人詰めているだけで、後は非番だった筈。
繁忙期でもない季節にやってくるのは目の前に居るようなご老人らが中心で、数も少ない為に熟練者は都会でのツアーに駆り出されている。本来二人詰めの案内所に三人居るのは紛れも無くアリシアの失敗補助要員なのだが、彼女はそこに気付かずとにかく安堵した。
「そういえばアナタ、さっきの子みたいに傘は差してないのかい? それに恰好も違うんだねぇ」
新人だからだろ、などと紳士が口を挟んで、それとなく納得された。
ウェンスティアのツアーガイドは祭りの時期を除けば皆共通でスーツ姿である。
ガイドはツアー客に寄り添う者で、郷土感を出すのはお店や宿の者たちだ。
アリシアとしては更に首を傾げるばかりであった。
「ほらっ、あんな感じの傘だよ」
ご婦人の一人が西門の上を指差した。
そこにはこの街の名前であるウェンスティアの文字が書かれた看板が掲げられていて、そこに降る雨を受け止めるように一本の傘が飾られている。
つい口をあけっぱなしで傘を眺めたアリシアは、ふっと頬を緩ませた。
「あぁよく似てるねぇ。子どもの使う傘みたいだけど、なんだかちょっと懐かしいような」
「そう。なぜだろうね、今になってそう思うよ」
「ずっと若かった頃、下校の時に雨が晴れていたから、つい置きっぱなしにしてそのまま無くした傘のような……。あの傘はどこに行ったのかな」
「さっきの子はまた来るのかい? 名前はなんて言うのかしら」
「ウェンディ」
まるで遠い日に別れた親友を呼ぶように、アリシアは彼女の名を口にした。
長靴を履いた、ワンピース姿の少女が目に浮かぶ。
雨のように胸の奥へ沁みこんで来る。
幼い頃から聞かされて来た大切なトモダチの名前だ。
「きっと、また会えると思いますよ。皆さんがこの常雨の街を好きになってくれたら。彼女は、ちょっと困ってしまうくらい、この街と、この街を愛してくれる人が大好きですから」
ぱっ、と雨が跳ねる。
それはまるで、余計な一言を付け加えたアリシアへの抗議のように、彼女の頬を濡らした。
※ ※ ※
ウェンディは雨の精である。
精霊、妖精、あるいは天使や神、あるいは妖怪、悪魔と呼ばれた事もある。
好きに呼べば良い。なにせウェンディ自身が自分を良く分かっていないし、さほど気にしたことがないからだ。
ずっとずっと昔からここに居て、ウィンスティアがただの渦巻き谷だった頃から知っている。昔は度々洪水を起こし、人々に荒神として恐れられた。なにせ人の手が入るまでは水路もなく、溜まり過ぎない様に日々水を汲み上げられることもなかったから、ちょいと雨が降り過ぎると決壊して周囲の地形を変えた。たまたま進攻してきた軍隊を丸呑みにさせ、戦神なんて呼ばれたこともあるけれど、さすがに御免被るので、以来少しずつ雨の量を調整することを覚えた。
決壊する様というのはある意味で見ごたえがあった。
とかく変化に乏しい大自然の中、それは時折起きる一大事件だったからだ。
それが無くなってくると、やはり退屈を感じてしまい、けれど戦神よと遠くで戦いが起きる度にやってくる髭もじゃたちを思い出してちびちびと洪水を起こした。ただ、調子に乗って近くへ小屋を建てたときは容赦しなかったが。
変化があったのは、およそ四百年前である。
昨晩ちょいと洪水を起こして遊んでいたウェンディは、崩れた崖の縁に少女が立っているのを見つけ、いつも通りに手を伸ばそうとした。
やいのやいのと騒がしい髭もじゃは嫌いだけど、あの位の子どもは純粋で可愛い。一杯おしゃべりをしてみたくて、髭もじゃの引き連れていた女たちの踊りを真似てみたくて、水の中へ招待するのだ。ちょっとだけなら大丈夫。人間はなぜか水の中に長く居ると死んでしまうけど、ちょっとだけなら大丈夫。
お話しましょう?
一緒に踊って?
出来るなら、ずっとずっと。
だけど水の中から手を伸ばした時、女の子はこちらに傘を差し出していた。
思わず掴む。
ぱちくり。
女の子は言った。
「きのうのこうずいでお父さんがいなくなったの。お父さんが買ってくれたおきにいりの傘をあげるから、お父さんをかえして」
それは出来ないことだった。
この土地から離れていけるなら、洪水を起こして遊んだりしていない。
人間のように色んな所へ行って、もっと色んなことの起きる様を眺めたい。
ましてや洪水で流された人を助けにいくなど。
君のお父さんを助けることは出来ないの。
そう言うと、女の子はぽろぽろと涙を溢し、洟を啜って、続けた。
「だったら、もう、こうずいはおこさないで。みんな、こまってるの」
それはとても退屈なことだ。
人間だって、部屋の隅で固まって動かないでいられないように、何もしないでいることは辛い気持ちを呼び起こす。
でも、女の子の流す涙を止めたくて、受け取った傘を彼女の頭上に掲げた。
泣かないで。
けれども女の子は泣き止まない。
仕方なく、傘を彼女の隣へ置いた。
ほら、雨はとても気持ち良いよ。つめたくて、やさしくて、命を育むものなんだよ。時々、命を奪ってしまうけれど。
「お父さんがいってたの」
傘に雨粒が当たる。
プツ、といつもと違う音が混じる。
「傘はね、雨をよけるものじゃないんだって」
その音に心が跳ねた。
今までに聞いたことのない、雨の音。
知り尽くしていた筈の雨に、別の色が混じっていく。
「雨のやさしさをきくためのものだよ、て」
それから、雨が穏やかになるに従って、人間が住み着くようになった。
昔みたいに押し流したりはしなかった。
やさしさの音を彼女は知ったから。
人々は水を汲み上げ、大地に石を敷き詰め、あるいは積み上げて家を作った。
最初は調整を失敗して何度も人を流してしまったけど、何故か人間たちは諦めず家を建てた。
やがて家が並び、もうもうと煙を吐き出し、街と呼べるほどになると、遠くから多くの人間が集まり始めた。
その間に女の子は大きくなって、お腹を膨らませたかと思えば子どもを産んで、その子どもがおぎゃあおぎゃあと煩く言わなくなって、いつかの女の子みたいになっていって、やがて、やがて――よぼよぼのお婆さんになっていくのを眺めた。
「相変わらずその傘を使ってくれてるのね」
暖炉の暖かさで満ちた部屋の中でも、あの時の傘を手にしている雨の精へ、女の子は嬉しそうに言う。
雨の精も、くるりと傘を回し、一通りの挨拶を終えて部屋を出た彼女の家族の喧騒を背後に聞いた。
「ありがとう」
なんのありがとうなのか、彼女は分からなかった。
傘を回し続ける雨の精は、女の子がゆっくりと息をついて、またゆっくりと吸うのを眺めた。
「私たちには行き場所が無かったの。荒神の住むと言われるこの土地だけが、戦いに追われた私たちに残された最後の場所だった。アナタが受け入れてくれたから、私たちはここに住み、家族を育ててくることが出来たの」
争いは嫌いだった。
殺し合うのを見るのは嫌だった。
だけど、洪水で押し流された人間が同じように死んでしまうことも知った。
やさしさの音は今、聞こえないけれど。
彼女たちが住み着いてからの日々は、今までこの土地で見てきたすべての変化より多様で、沢山で、賑やかで、楽しかった。
「そう言って貰えると、利用してしまった身としては安心できるわ。傘一つのお返しとしてはあまりにも大きいけれど」
言って、女の子は咳をした。
すきま風のような音が混じった、痛みのある音だった。
「ねえ、最後にもう一つだけ贈り物をさせて頂戴」
雨の精は首をかしげた。
もうあまり時間は残っていない。
彼女の子ども達がまた部屋までやってくる。
もう、終わってしまう。
「ウィンスティアの名前はもう街にあげてしまったから、残っている方をアナタへ」
ドアノブが回る。
おばあちゃん、といつかの女の子に似た子どもがやってくる。
「ウェンディ。今日からアナタは、常雨の街のウェンディよ」
ころり、と部屋の中には広げたままの傘が転がっていた。
満足そうに笑った女の子へ家族らが寄り添い、涙を流す。
その日からしばらく、強い雨が続いた。
部屋にあった傘は街の西門へ掲げられたが、時折それを持ち出す女の子が居るのだと、街の人々は噂する。
※ ※ ※
くるくると傘が回っている。
長靴を履いた少女は、ワンピースの裾が濡れるのも構わずしゃがみ込んで、街角の影から広がる苔を眺めていた。
通りの中心へ向かうほどに苔は石畳の隙間を模っているけれど、壁際にはこんもりと盛り上がるほどの大きさになっていて、石畳を覆い隠してしまっている。苔に根を張っているらしい細長い草があり、その上でナメクジがえんやこらと草を食んでいる。
傘から滴った雨粒がちょうど草を直撃し、大きく揺れる。
すかさず差し出した指の上にナメクジは居た。間一髪。
ただ、この生き物独特のヌメヌメした感触と、目の前に示した草へ戻ろうとする時の動く感触はついついウェンディの表情を珍妙なものにする。
昔のウィンスティアのようなゆっくりさで草の上へ戻ったナメクジがまた食べ始めるのを眺めていると、流れる雨水を蹴立てて嵐がやってきた。
「いたあああああああっ!?」
いきなりコレである。
ぽとりと傘が落ちて、声の主が向こう側を覗き込もうとすると、そこでは街角の苔に根を張った草の上でナメクジが食事中だった。
「もうっ、なんで隠れるのっ。お礼くらいさせてよー、ねーっ、ウェンディーっ!!」
アリシアが叫びながら顔をあげたものだから、こっそり傘を回収したウェンディは赤い屋根の上で再び傘を広げた。
全くあの家の人間には困る。
一度探し始めるられるとどうしてか必ず見付かってしまうのだ。
別に、会うのが嫌だとか、話すこともないだとか、騒がしいのが嫌だなんてことはない。
けれど四百年だ。
追いかけられて、つい逃げ出して、そんなことを四百年も繰り返してしまった。
今更どんな顔をして会えばいいのか分からない。
「あーりがとーねーっ!!」
遠く街に響く声を聞き、口端を広げながら、またくるくると傘を回す。
雨が降っている。
雨粒が傘に触れて弾けると、やさしさの音がする。
まあ、たまには全身で雨を浴びてみたくなるけれど。
くるくる、くるくる。
明日もきっと、雨が降る。
昔から雨が好きでした。
出かける時は困るけど、帰る時ならいいかな、なんて思って傘を閉じます。
長引いた梅雨の後だとうーん、てなる人も居るかもしれませんが、読んだ後にちょっとだけ雨が好きになれる物語を目指してみました。
部屋干しした洗濯物より、お日様の下で干した方が気持ちいいですけど。梅雨明け後に洗濯しまくって干す場所足りなくなったのもまた、雨に纏わる思い出と言えるかもしれませんね。