Michael's journey・~五代目座敷わらしの願い事~
ひだまり童話館「5周年記念」参加作品
その襖を開けば、閉じ込められていたイグサの香りとひんやりとした空気が雪崩のようにこぼれ出す。
足元にまとわりつく猫のように冷気が足にまとわりつくのがコタツから出たばかりの火照った足に心地よい。
寸分違わずピチリとハマり込んだ緑の畳と白い障子。静謐の中に寒気がちょこんと座るこんな空間を目にすれば、おそらくあなたは思わず背筋を正し、何やらゾクリと感じるかもしれません。
そして、ほぼ直感的に思うことでしょう。
「この部屋、何かいる……」とね。
壱
「ううぅ、寒い……」
暦で言えば二月初旬のことでございます。
今年の冬はいつもよりも寒いなどと毎年言うセリフを鼻で笑い「冬の寒さなんて関係ねぇや、だったら俺は南に行くぜ」と風の向くまま気の向くまま旅に出たのが運の尽き。
今は北風吹雪に埋もれて遭難中。
「南国で雪?」
長治ことマイケルと申すこのたぬき、残念なことに極度の方向音痴でございました。
南、南、温かい常夏の地を目指しているつもりは本当に「つもり」で真逆の北の地に身を置いていたのでございます。
ガタガタ震えるたぬきに雪は吹き付け降り積り、中身在住たぬき型雪ダルマが今まさに出来上がろうとしておりました。
「おいおい、いきなりお日さまサンサンじゃねえか、少し暑すぎやしねぇかい?」
北国の寒さに幸せ妄想。永久の眠りまであと一歩。そんな昇天間近のマイケルの耳に届くパシリパシリという謎の音。
「なんだ奇妙な音がしやがる……。うん? 誰かを呼んでいるのか?」
やけに遠くから聞こえる声は、徐々に徐々に近くなる。近くはなれど姿は見えず。
「不思議なこともあるもんだ。一体、何言っているんだろう?」
耳をすませば、謎の声も音も急に明瞭はっきり聞こえ始める。
「おい! こんなところで寝たら死ぬぞ!」
パシリパシリどころかバチンバチンの平手の往復。マイケル、昇りかけた階段を転げ落ち、目を覚ませば寒さ全開冬の空。
「はっ!? う、さぶいぃ」
と腫れた頬を震わせて、身を縮めるマイケルにホッと安堵の息をついたのは、冬毛も立派な若たぬきでございました。
弐
「ヘっぶっしゅん!」
囲炉裏の前で毛布をかぶってくしゃみを一つ。冷たい鼻水をズズリと吸うが、芯まで冷えた身体はそう簡単に温まるものではございません。
「マイケルさんとか言ったか、あんた無茶だぞ、そんな身なりでいるなんて。下手をしたらたぬきの氷漬けになるところだ」
やや背の曲がった老たぬきの松吉が呆れたように申します。
「ああ、すまねぇ、南に向かって旅をしたはずなのに気が付いたら寒くて動けなくなっちまってよ」
「やれやれ、あんた変化たぬきだろう? 術の一つで何とかできたんじゃないのかい?」
と、言ったのは御梅という名の気風のいい感じの若いきつねの女子。
「なんで俺が変化たぬきのわかったんだ?」
「なんでって、そんな奇妙な格好をしたたぬきが他にいるかい?」
頭はリーゼント、尻尾はアフロ、冬の寒さを防ぐには心もとない青と赤のストライプのベスト。背中にはきらめく星が大きく一つ。
どうみてもただのたぬきではございません。
御梅は囲炉裏にかけられた鍋から何やらお玉で掬い上げるとそれをお椀によそってマイケルの前に差し出します。
お椀から立ち上る湯気は比内地鶏の出汁と濃い口醤油が効いたいい香り。そこにほんのり茶色に染まった野菜と鳥ときりたんぽ。
「さあ、お食べよ。特製のきりたんぽ鍋さ。温まるよ」
「おお、こいつはありがてぇ」
お椀を持つと温かさが手に伝わりホッとする。
「しかし、きつねとたぬきが囲炉裏囲んできりたんぽ鍋って……ってことは、あんたらも変化の?」
「まあな、ワシらは簡単な術しか使えないが、お前さんと同類ってわけさ」
と答えて、松吉は
「秋田の冬は厳しい。マイケルさん、急がねぇならゆっくりしていくといい」
「いいのかい?」
「ああ、構わぬよ。それに今あんたを追い出したんじゃ、いくらも経たないうちに雪の中だ。そいつはこっちも寝ざめが悪い」
「すまねぇな、たく、たぬきやきつね(なかま)ってのはどこにでもいやがるもんだ」
松吉の厚意に感謝をしつつ、ズズッと温かいきりたんぽ汁に口をつけると、喉を熱い汁が降りていく。温かいのがありがたい。
「しかし、冬だってのにどうしてこんな食料が? 普通なら冬は食べ物が少なくなって大変なはずじゃ?」
きつね先生一門やたぬき師匠一家の変化きつねやたぬき達は人に紛れて生活を送っていいますから、冬とて食べもの居場所に困ることはありません。
しかし、変化之術もそこそことなると彼らは野生と人里の間で生きるはず。どうやってこれほどの食べ物を手にしているのでございましょう。
「ああ、実はワシらはな……」
参
鍋ですっかり身体を温まると、マイケルは松吉の案内で、松吉らの隠れ家のすぐ隣にあるお屋敷の屋根裏に案内をされました。
もちろん、たぬきやきつねの姿のままとはいきません。松吉もマイケルもネズミに姿を変えてのことにございます。
「ほれ、マイケルさん見てみな」
「ほうこれは……」
天井裏から覗き見れば、そこには驚くほど壮麗な日本間。
道中見えた他の部屋はごく一般的な作りの部屋であるにも関わらず、この部屋だけは畳も障子も特に別。まるで何かを祀っているかのよう。
「なんだいこの部屋は?」
「見ての通り座敷さ」
「確かに見事な座敷だが、それが何か関係があるのかい?
「ああ、ワシらはこの家の座敷童なんだ」
座敷童と申しますのは、東北地方に伝えられる精霊のようなものでございます。
座敷童の名の通り、綺麗なお座敷や立派な蔵などに住んでは、子供の姿でその家の人と時折戯れ、悪戯などでして楽しませ、家に富みをもたらすものと言われております。
「あんたらが座敷童?」
「そう、ここ松山家のな」
「ってことは、あの食料なんかは?」
「この家から頂くのさ。そのかわりにワシらはこの家が幸せになるために働く。寒さの厳しいこの土地じゃあ、やれ人間だとか、やれきつねたぬきだなんて言ってられない。お互い助け合いの関係で冬を越す。もっともワシらはあくまで世にも不思議な座敷童というわけだがな。ちなみにお前さんを雪の中から助けたのはうちの五代目だ」
「五代目? ってことは代々この家の座敷童をしているってことか」
「そういうことだ。ほれ、あそこにいるのがその五代目だ」
先ほどの日本間から少し離れた部屋の上でジッとしているたぬきが二匹、きつねが一匹、何やら集まっているではありませんか。
そのうちの一匹は昇天間近のマイケルを叩き起こしてくれたあの若たぬき。
「おう、もう大丈夫なのかい?」
「ああ、さっきは世話になっちまったな。えっと、俺はマイケルってんだが、あんたは?」
「俺は平次、こっちは妹の牡丹。そしてこっちのきつねは勘吉だ。よろしくな」
紹介された内気そうな女の子たぬきの牡丹はお行儀よくペコリとお辞儀をしたので、マイケルもお辞儀を。
勘吉は年頃の男の子らしい生意気な感じで「よろしく」と申したので、マイケルもアフロ尻尾を振りながら、詩でもうたうかのように「四呂詩口」と格好をつけて返しましたが、どうやら勘吉には届かなかったようでございます。
「ところでここで何をしているんだ? 座敷童の部屋ってのはあっちじゃないのか?」
その部屋は先ほどの壮麗な日本間とは打って変わりごく普通の部屋でございます。
雪のような白いカーテン、ゴロリと伸びたくなる暖色系のカーペット、はちみつを舐めながら時折哲学的な問いかけでもしてきそうなクマのぬいぐるみが置かれたベッド。
部屋の隅に置かれた年頃の人間の子が使いそうな勉強机はキチンと整理され、その隣の本棚には何やら難しそうな参考書がズラリと並ぶ。
「この部屋は?」
「ここはさつきちゃんの部屋さ」
「さつきちゃん?」
「松山さつき。この家の一人娘さ」
平次の話に寄りますと、この部屋の主である松山さつきは、この松山家の一人娘にして今年大学受験を控える高校生。
「この家は、さつきちゃんしか子供がいないんだ。だから彼女を幸せにするのが座敷童である俺達の仕事ってわけさ」
「なるほどな、それでここで待機を?」
「まあな……おっと、さつきちゃんが戻ってきた!」
部屋に入ってきたのは、長い黒髪に色白、高校三年生というにはいささかあどけなさを残す小柄で可愛らしい女の子でございました。
さつきちゃんは、迷うことなく真っすぐ勉強机に向かうと、何やら難しそうな参考書を広げて勉強を始めるではありませんか。
学のないマイケルにはとんと見当もつきませんが、このさつきちゃんという少女、相当に勉強ができるに違いありません。
「お前さんら、さつきちゃんがやっている勉強がわかるのかい?」
「いや」
「全然」
「全くお手上げだ」
平次も牡丹も勘吉も声を揃えます。その横では松吉も首を振る。
「おいおい、じゃあどうやって彼女を助けるんだよ」
「なあに、勉強を見ることはできないが、勉強を助けることはできるさ」
そういうと平次達はさっそく取り掛かり始めました。
勘吉はひょこんと耳を立てると音もなくどこかに走っていきました。
「どうしたんだ?」
「おそらくケンカだな」
「ケンカ?」
「たぶん、近所の犬や猫だろう。近くでやられたらうるさくなっちまう。だから場所を変えてもらうように頼みにいったんだ」
そういう平次の隣で、牡丹がたぬきサイズの横笛を取り出します。牡丹が笛を吹くと心地よい音色があたりを包みこみました。
ノリノリウキウキミュージックではございませんが、その技量はかなりのもの。マイケルも思わず舌を巻きます。とはいえ……
「なかなかイカしているが、その音は人間の耳には聞こえねぇんじゃ?」
すると平次、事も無げにうなずき
「この音は人間が自覚するほどには聞こえない。けど、この音が鳴っていると人間は集中力しやすくなるんだ」
代々受け継がれる座敷童の知恵は、同じたぬきであるマイケルも知らないものでした。
「ほぅ」
なるほど、とマイケルは合点がいきました。平次ら座敷童はさつきちゃんのために勉強を教えてやることはできませんが、そのかわりに勉強をしやすい場所を用意しているのです。
よく見れば、勘吉や牡丹の他にも仲間のたぬきやきつねたちが、それぞれに見回りなどをしています。
勉強の妨げになる音や身体を冷やすであろう隙間風を未然に防ぎ、集中力が高まる笛の音を流しつつも、さつきちゃんに疲れの色が見え始めたらそれとなくさつきちゃんのお母さんが気づくように仕向けます。
さすがは座敷童。たぬきやきつね、実に鮮やかな手並みでございます。
そして、その指揮をとるのが五代目座敷童の平次というわけなのです。
「なるほどな、それぞれ役割を持ってみんなでさつきちゃんを守っているんだな」
変化のできる子もいれば、できない子もおりますが、それぞれがそれぞれのできることをしています。
「よし、俺もしばらく世話になるんだ。何か手伝わせてもらうぜ」
一宿一飯の恩を忘れず。
こうしてマイケルは、松山家が五代目座敷童一家に身を寄せ、その手伝いをすることに相成りました。
四
平次らの活躍によりさつきちゃんの勉強は順調そのものでございました。
それもそのはず、さつきちゃんが家にいる時はもちろん、地元の学校、塾に行くときや友達と図書館に行く時にだって、陰に隠れ潜んでついていく。
帰りが遅くなるようなことがあれば、あぶなくないよう集団護衛。
その様相に、近所の犬も猫もさつきちゃんには道をゆずるほどでございました。
そんな月日が流れ、試験当日まであと一週間と日が近づいてきた時のこと。
さつきちゃんの様子がおかしいことにはじめに気が付いたのは平次の妹、牡丹でした。
「おかしいわ。さつきちゃん、何だか全然勉強に集中できていないみたい」
人間ですから、いつ如何なるどんな時でも同じように集中できるはずがございません。
調子のいい日もあれば、悪い日もある。その日はさつきちゃんにとって、そんな日だったに違いない。平次らもそう思いました。
しかし、牡丹がそんな異変を感じた日を境に、さつきちゃんは瞬く間に体調を崩していってしまったのでございます。
はじめに異変を感じた次の日には、頭痛、寒気、喉に違和感。
さらに次の日には咳に鼻水。
さらにさらに次の日は起きているのもしんどい有様。
「どうしよう、試験まであと三日しかないのに熱が上がり続けているよ」
牡丹は泣きそうな声で言いました。
「薬は飲んでいるんだ、様子を見るしかないだろう」と勘吉。
薬を飲んで温かくして安静に。
そしてあとは天に祈るだけ。
でも、もしも熱が下がらなかったら?
長年座敷童をして、さつきちゃんを見てきた全員にはわかるのです。さつきちゃんの今の状態から考えて、今日明日に治るとは思えません。
だとしたら、試験には行けない……。
そんな思いが松山家座敷童一家を包みます。
さつきちゃんはあんなに一生懸命勉強していたじゃないか。
そのためにみんなでさつきちゃんを応援してきたんじゃないか。
「本当に天に祈るだけなのか? 本当にできることをやりつくしたのか?」
平次はみんなを集め言いました。
しかし皆黙るばかり。
「松吉さん、こんな時に何か知恵は持ち合わせていないのか? きつねやたぬきにできる何かをさ」
と、マイケルが申すと腕組唸る松吉は重い口を開きこう言いました。
「人間の病のことは長年座敷童をしているワシらでも専門外だ。だからこそ、ワシらは病気にならないように仕向けるよう苦心する」
「では、手はないと……?」
ズズズイとみんなの視線が集まり、身を乗り出す。きつねもたぬきもギュウギュウでございます。
「もし、可能性があるとすれば……」
「あるとすれば!?」
「あやつならばもしかしたら……」
「あやつ? それは一体誰なんだ?」
五
季節は二月。寒風荒れる雪盛り(ゆきざか)。
こんな日に外に出ようなんて正気じゃない。誰もが思うであろうそんな日に、平次、牡丹、勘吉、御梅、松吉、マイケルはまさかまさかの雪山登山。
それもこれも玄弥と申す老ぎつねに会いにいくため。
「どうして玄弥ってじいさんは、こんな山に住んでいるんだ?」
凍える風に声を散らされながらマイケルが問うと、少し前を歩く松吉は大きな声で「詳しいことはわからん」と断ってから「ただ古いきつねでな、この辺のもんは困ったことがあれば最後は玄弥を頼る」という。
「じゃあ、なぜすぐに玄弥のじいさんを訪ねなかったんだ?」
とマイケル。すると、今度は御梅が答える。
「玄弥老は確かに知恵者かもしれないけどね、偏屈で有名なのさ。こちらが困っていてもお構いないし。無理難題を吹っ掛けたりするんだよ。結果、解決まで至らず無駄足を踏む、なんてこともあるのさ」
それは松吉はもちろん、若い平次らも重々承知。松山家座敷童一家の中でも意見は別れ賛否両論。
しかし、五代目である平次の気持ちはすでに決まっておりました。
「さつきちゃんのためにやれることはすべてやる!」と。
山を登りしばらくすると、小さな洞窟を発見。うまく草木で隠されたその場所は、まさにたぬきやきつねでなければ見つけらないような場所にございます。
「こんなところにいるのか?」
「ああ、間違いない。わかるか? 人の家のような匂いがするだろう?」
「人の家の? そう言われてみれば、そんな気がしないでもないが……?」
マイケルが洞窟の中をうかがうと、奥は深いにも関わらずほのかに温かく、弱々しく明かりが零れてきているではありませんか。
確かにここに何かがいるのは間違いないようです。
「玄弥殿! いるのだろう? 以前世話になった松山家の松吉だ!」
洞窟に向かい松吉が呼びかけるもの無反応。
「どうか知恵を貸してほしい!」
灯りもあれば気配もある。いないはずがございません。しかし返事はありません。
「留守なんじゃないのか?」
「いや、外はこんな雪だよ、留守なんてことがあるかね?」
勘吉と御梅が首を傾げます。
「酒も持ってきたし、一杯やりながら話を聞いてくれるだけでいい!」
すると洞窟の方でピクリと影が動く。ほのかな灯りがユラリと揺れる。
現れましたのは、杖つき、メガネをかけた気難しそうな黒きつね。
「……うるさいと思えば、なんだこんなに大人数で……」
「あなたが玄弥さんですか、初めてお目にかかります。俺は松山家五代目座敷童平次と申します。この度は……」
「ああ、やめてくれ。お前さんがどこの誰だかということには興味がない。ところで、酒があるというのは本当なのか?」
「は、はい、こちらに……」
それはマイケルが今まで背負ってきた荷物の中、中身は日本酒「天猫」の一升瓶。
「ほう、天猫か。これはなかなか珍しいものを」
「玄弥殿、少しだけ知恵を貸してはもらえないだろうか? 松山家のご息女が病に倒れているのだ。明後日には大事な試験がある。どうしてもそれまでに身体をよくしてやりたい」
と松吉が申すと、玄弥は「ふむ」とうなづきこう申しました。
「肴がいるな」
「肴?」
「これほどの酒だ、旨い肴がほしい。お前さんら、ちと魚を一匹獲って来てはくれんか? そうだな、この先の川で鰍一匹で構わんぞ」
「魚だって!? しかもこんな時期に、鰍なんか釣れるわけないわ!」
御梅が思わず声を上げました。
牡丹も勘吉も顔を見合わせます。
外はひらひらと雪が舞い、寒風吹き荒れる二月の真冬。
魚を一匹獲ってこいと言われて、簡単に「わかりました」と言える状況ではないのです。
これには松吉も肩を落とし、平次も言葉を失います。すると、後ろで聞いていたマイケルが
「確かに酒には肴が必要だ。それは道理ってもんだ。鰍、用意しようじゃねぇか」
「ほう?」
「おい、マイケル!」
と勘吉。
「他に手段はねぇんだろ? だったら迷う必要がどこにあるよ? 俺達には時間はねぇんだ、やるしかねぇだろ?」
「面白いたぬきだ、名は何という?」
「マイケルだ。玄弥のじいさん、待ってろよ、魚は獲ってくる。それまで酒に手をつけんじゃねぇぞ。肴がないんじゃ、せっかくの酒も台無しだ」
こうして一行は一路、玄弥の隠れ家をあとにして近くの川へと降りていく。
その道中、平次がマイケルに話しかけます。
「マイケル、さっきは……」
「ああ、すまねぇ。勝手なことを言っちまってよ、ただ俺は……」
「いや、いいんだ。あれは俺が言うべきセリフだった。雪が降って、寒くて、こんな中で魚を獲るなんて無理だなんて思っちまった。でも、今はそんなもの関係ないんだってことを忘れていた。感謝している」
「そうか、だったら早く鰍を獲って、あのジジイの鼻を明かしてやろうぜ」
たどり着いた川はかなりの清流。
小鳥さえずる春ならば、のんびり釣り糸垂らしてタバコをふかし、釣果も気にせず時を過ごすも悪くない。
「魚の影はなし、か……」
寒さでつるつるに凍ってことそいないものの魚の姿どころか、影の一つもありません。
「こんだけ寒いんだ、岩陰に隠れてしまっているんじゃないのか? ほら、薄っすらだけど岩陰にいるのが見えるよ」
勘吉は川を覗き込みつつ、冷たい水にビクリと身体を震わせます。
「魚を獲るなら釣り竿が必要だろうけど、そんなもの持ってきていないよ?」
と御梅が申すとマイケルはチッチッと指を振る。
「ちと水は冷てぇが、俺が釣り竿に変化する。それで平次、お前が釣るってんでどうだ?」
近代の釣り竿のように仕掛けもあり、形も複雑な変化は変化の中でも高等変化の一つ。座敷童一家には難しくとも、たぬき師匠一家のマイケルなら造作もないこと。ですが、この提案に平次は首を振ります。
「いや、鰍を釣るには時期も外れているし、岩陰に隠れて出てこない可能性も高い。それに何より、釣りだと時間がかかりすぎる。試験は明後日、今日中には戻らなきゃならない」
「それじゃあどうする気だ?」と松吉。
「魚はいる。俺が潜って獲ってくる」
「「なんだって!?」」
平次を除いた全員が声を上げました。
「俺は泳ぎも達者だし、川で魚を捕まえるのだって得意な方だ」
「でも、こんな冬の川で泳ぐなんて!」
「わかってるさ、牡丹。だけどな、今は寒いとか冷たいとか言ってられねぇんだ」
平次はみんなが止めようと声を発するその前に一気に川に飛び込みました。
「平次!」
名を呼んだ時にはすでに水中、姿もない。
平次の影が流れの中でユラリと揺れる。
「本当に行ったぞ!」
「火を起こしておくんだよ! 上がってきてこの寒さじゃ、凍えちまう!」
「そんな時間はないぞ!」
たぬきである平次が水に潜っていられるのもごくわずか。魚を獲るために動けるのはさらに短い。一発勝負の大勝負。
次の瞬間、バシャリと川から何かが飛び出した。
「お、おい!」
見れば体長十五センチはある見事な鰍。それに遅れて平次が息を切らせて川から上がる。
「平次!」
マイケルはすぐにダウンジャケットに姿を変えて平次を包む。
「すまねぇ、さ、魚は……!?」
「よくやった! 立派な鰍だ。玄弥のところへ急ぐぞ! ここじゃあ身体が冷えすぎる!」
松吉と勘吉が平次を抱き上げ、牡丹と御梅が鰍を担ぎ、玄弥のもとへと走り出す。
六
「驚いたたぬきどもだ。本当に肴を用意しおった!」
玄弥はそういうとすぐさま平次達を隠れ家の奥へと案内しました。奥は温かい灯りに囲炉裏があり、寒さを防ぐには充分な作り。
何よりマイケル達が驚いたのが、部屋のあらゆるところに積まれた和綴じの古い本の数々でございました。
「人間の家のような匂いの正体はこれか」
和紙に墨で書かれた漢字ばかりの古い本。
紙の匂いに、墨の匂い、何より人の手を渡ってきた本そのものの匂いが、たぬきやきつねらしからぬ匂いと最初感じさせたに違いありません。
「おい、そこの娘、その鰍で何か温かいものを作り、平次とやらに食わせてやれ。そっちのきつね坊主と小娘は、平次をこちらに運べ、そしたら奥の部屋から薪を持ってきて部屋の温度を上げるんだ」
玄弥は、御梅には料理を、勘吉と御梅には平次の世話を命じます。御梅も勘吉も牡丹も不満気な顔をしましたが、そんなことを言っている余裕はありません。
やがて鰍が鍋になりできあがると、玄弥はまず初めに平次に食べさせてやりました。
平次の震えがやっと落ち着ついた頃、松吉はあらためて手をつき申したのです。
「玄弥殿、約束通り肴は用意しました。お知恵を拝借させていただきたく思います」
すると玄弥は「急ぎの用、それも冬の川に飛び込むほどのことなのだろう? この玄弥の知恵が役に立つというなら何なりと貸してやろう」というではないですか。
平次は喜び、さつきちゃんのここのところの容態、それに大事な試験が迫っているということを伝えました。
玄弥は黙ってそれに耳を傾け、時折二、三、質問を返します。
「咳、熱、寒気……寒気はかなり強いのか?」
寒気がかなり強いのか? それはさつきちゃんしかわからないのでは? と平次が答えに困ると、牡丹が
「布団と毛布を掛けているけど、寒そうにしているんです! たぶん寒気が強いはず」
「なるほど、それほど温かくして汗はかいてはいないのか?」
「汗はかいていませんでした」
牡丹はしっかりさつきちゃんの様子をメモしていました。おかげで玄弥の質問にすべて答えることができたのです。
「試験まであとわずか。残り、今から帰れば残り一日と言ったところか。今夜が勝負だな」
「なんとかできないか、玄弥殿」
「何とかしよう、と言いたいが人間の病だ。治る治らないもその人間次第……」
「じゃあ、さつきちゃんは……」
一同暗く沈みかける。
「慌てるな。方法がないわけじゃない。その病に対する薬はある」
「本当に!?」
「昔の人間が考えた人間の薬だ。今の症状ならば適応するだろう」
「じゃあ、これでさつきちゃんは?」
「だから慌てるな。薬は用意しよう。この薬で病も癒えよう。だが、それが今日明日とうまく結果を出すと約束はできん。うまくやれば、あるいは……と言ったところだ」
「その薬はどのようなものなのですか?」
「身体の中から熱を出し寒気を払う薬だ。うまくやれば今の人の薬よりも状態をよくすることができるだろう。ただ、下手をすれば現状とさほどかわらん。人間が使う解熱剤を使えば完全にはならんだろうが、多少の改善は期待できよう」
つまりは完全に治るか、もしくは変わらない玄弥の薬と完全には治らないが、多少良くなる今の薬のどちらを選ぶか?
「どうする五代目座敷童平次とやら」
「俺が決めるのか?」
「そうだ、冬の川に飛び込むほどの決意があるのだろう? お前が決めろ」
「俺は……」
七
山を駆け下りるたぬきときつね。
平次の背には玄弥の薬。
松山家に戻れば、さつきちゃんは相変わらず苦しそう。顔色は玄弥のところに向かう時よりも悪くなっているように見えました。
さつきちゃんと一緒に暮らしてきた座敷童達です。これがすぐによくなるものではないことくらい容易にわかります。
やはり、このままでは試験の日までに間に合わない。玄弥の薬に賭けるしかない。
「みんな俺の指示にしたがってくれ!」
「「おおっ」」
平次の帰還を待ちわびてたぬきやきつね達が沸き立ちます。
玄弥の言葉によれば、薬はこれから時間を空けつつ三回の服用を必要とする。
その間にすることは大きく三つ。
一、部屋を温めて身体を冷やさないようにする。
二、この薬は熱を上げて汗をかかせるものであるため、身体を冷やさないようにこまめに汗を拭く、
三、必要があれば着替えも行う。
「牡丹、眠り笛を」
牡丹はたぬきの笛で人間の眠りが深くなる曲を演奏し始めました。すると、一気にさつきちゃんの寝息が深くなる。平次が眠るさつきちゃんに慎重に薬を飲ませたら、変化のできるたぬきときつねが毛布や布団になって被さり出しました。
眠るさつきちゃんの部屋にも、天井、廊下にも、平次やマイケルをはじめ、牡丹、勘吉、御梅、松吉……その他の座敷童一家のたぬきやきつねがぎっしり詰めかけ必死の看病。
やがて薬が効き始め、玄弥が言ったとおりに汗をかくとそれを丁寧に拭き、頃合いを見て御梅たちがさつきちゃんを着替えさせます。
するとどうでしょう。
二度目の薬、三度目の薬となる頃には、さつきちゃんの顔色はすっかりよくなっていったのでございます。
「熱が下がってるよ!」
着替えを手伝っていた御梅が言うと、そこにいた全員が「「「やった!」」」と声を潜めつつ歓喜しました。
「よし、明け方までに全員撤収だ」
役割を終えた座敷童達が少しづつ部屋をあとにしていく中、平次とマイケルは一緒に試験の当日の忘れ物がないかの確認作業。
朝、どんな状態であっても、これは必要に違いありません。さつきちゃんが困らないよう先手を打っておくのです。
ハンカチ、ティッシュ、見直し用のノート、時計に、学生証、筆記用具……。
「あとは受験票か、これを忘れたら大変だ」
マイケルはさつきちゃんの受験票を見て驚きました。
「これは……!?」
「どうしたんだ、マイケル?」
「お、おい平次、さつきちゃんが受験しようとしている大学ってのはここなのか?」
「ああ、そうらしいな」
平次は特に気にしている様子もありません。しかし、マイケルは黙っていられませんでした。それもそのはず、その大学は学に疎いマイケルでも知っているような一流の東京の大学だったのですから。
「この試験に合格すれば、さつきちゃんは東京に行っちまうんじゃないのか?」
いくらなんでもここから通うなど考えられることではありません。
「ああ、きっとそうだ」
「きっとそうって、お前、さつきちゃんのためにこんなに頑張ったのに、もしさつきちゃんが大学に合格したら、離れ離れになっちまうかもしれないんだぞ?」
マイケルの問いかけに平次は少し寂しそうに肩を落として言いました。
「うまいこと東京の大学へ行って、就職して、そして向こうで嫁に行っちまうかもしれねぇよな。そしたら、もうこの家にだって住まないかもしれねぇ」
「わかっていたのか?」
「さつきちゃんはな、優しい子なんだ。小さな頃はきつねやたぬきの俺達ともよく遊んでくれた。俺達にとって、さつきちゃんは特別なのさ。そんなさつきちゃんの夢がエライお医者さんになることだっていうなら、その夢を叶える手伝いをするのは当然だろ?」
ふと、平次は幼い頃のことを思い出しました。まだ小さいさつきちゃんに座敷の中で見つかったことを、そして、頭を撫でてもらったこと。その手の感触を。
「へっ、野暮なことを聞いちまったな」
「俺がお前なら同じように聞いていたさ」
こうして最後のたぬき二匹がさつきちゃんの部屋をあとにした午前四時を回った頃のこと。座敷童の去った部屋には、驚くほど静かで澄み切っておりました。
それからわずかばかりの時が経ち、松山さつきは実に晴れやかな気分で目を覚ましたのでございます。自分の体調がよくなったことに驚きつつも安堵して、運命の大学受験へと向かうのでございました。もちろん、座敷童の応援があったことなど少しも知る由もなく。
八
それから松山さつきがどうしたのかと申しますと、大学受験には見事に合格。東京で一人暮らしを始めることになったそう。
座敷童のいる地元の家を離れ、都会で学を修めんと意気揚々と旅立ちました。
その松山さつき、後に教授に将来の夢を聞かれ、こんな話をしたのだとか。
「将来は医師になって、地元に帰りたいと思っています。私の地元は医師不足の地域だし……それに……」
「それに?」
「私、地元が大好きなものですから」
笑顔で話す松山さつきのそんな想いを座敷童が知るのは、まだまだ先の出来事でございます。そう、今は知る由もなく。
その言葉を聞いた教授は何やら微笑み。
「そうか、君ならきっと立派な医師になれるだろう。がんばりなさい」
そう言って、彼は自分の研究室に還っていったのでございます。
「やれやれ、いきなり手紙が来たからどんな子かと思えば、いい子じゃない」
教授は引き出しにしまっておいた封筒を取り出します。中には手紙、古風に折りたたまれ、上質の和紙に墨と筆で書かれた達筆の字で【松山さつきをよろしく頼む 長治】との文言。
「長治さんの頼みだ、念のため仲間内にも広めておくとするか」
本当に仲間というものはどこにでもいるものでございます。
了