四つ木坂通りの新怪談の裏話
ELEMENT2020冬号・テーマ創作「夜空」「スマホ」参加作品
なあ、あんた、あんたは怪談って信じるかい? 曰くつきのホテルの一室とか、観光地とか、暗い夜道を歩いているとなんだかイヤな予感がして……なぁんて、そんな話一度や二度は聞いたことがあるだろう?
ああ、俺か? 俺は信じてないねそんなもの。どこかの誰かが怖がるようにうまく作り上げたものだろう?
そんな風に思っていたんだ。
あの夜までは……。
★
「ああ、っくっしょーめ」
冷え込んだ風にあおられ、絵にかいたようなオヤジくしゃみと同時にいつの頃からか板についた意味不明の悪態。
ズズッと鼻をすすって男は厚みのある冷えた手の平をこすりあわせる。
この男、姓は藤岡、名は源之介。
歳の頃は52と厄を踏んだ正真正銘のオヤジでございます。
二十代でこの業界に飛び込み、もうかれこれタクシードライバーを生業として30年。
ベテラン、玄人、職人気質のドライバーでございます。
男はこの30年で結婚をして娘二人を授かり育て、その二人が早々に巣立って今年の春には孫まで生まれる予定という果報者。
人並みの事件トラブルに巻き込まれることはあっても、すべて持ち前の知恵と勇気と運転技術で乗り切ってまいったのでございました。
そんな源之介はドル箱ともいうべき夜のみずほ駅からお客をとり、またみずほ駅に向かう途中のコンビニで車を止めて、熱々すぎる缶コーヒーを開けて一休み。
歳のせいか散漫になりがちな集中力を缶コーヒーのカフェインと糖分で振るい立たせていると、つい辞めると誓ったばかりのタバコが恋しくなる。
ふと気が付けば無意識のうちに一本口にくわえていた。
「源さん。お疲れ」
「お疲れ」
源之介のタクシーの隣によく磨かれえた黒いタクシーが止まり、源之介と同じ歳くらいの痩せた運転手、雅が人懐っこい笑顔で降りてくる。
この雅もタクシードライバー歴は長い。
源之介も雅も、長年の経験でこの時間に休んでおくのが最も効率がいいことをわかっているのでございます。そしてそれにはこのコンビニが最適なのだということも。
「源さん、タバコ辞めたんじゃないのかよ? 孫が生まれるんだろう? できるだけ長生きしたいとか、らしくもないこと言ってたクセに」
「タバコが身体に悪いって? 辞めてみてわかったね、あれは迷信だ」
と言いつつニヤリと笑みを浮かべて、これ見よがしにタバコの先に火をつける。
運動不足の肥えた腹を膨らませ、タバコの先が赤くなる。一気に煙を吐き出し、煙の向こうで旨そうにまた笑う。
コンビニの明りに照らされた煙が夜闇に消えるその向こうで雅もまた笑顔。
「ははっ、迷信か、そうかもな……なあ、源さん。最近スマホで見ていたんだけどよ。知っているか?」
と今度は、雅もタバコを取り出し一服。
タバコの値上がりに銘柄を変えたが、その味が馴染まず顔は渋い。
「最近出るんだってよ」
「何が出るんだ?」
「あれだよ、あれ」
雅が声を潜めて、くわえタバコで両手を胸の前で垂らしてみせるではありませんか。
「おいおい、何のマネだ?」
「だから出るんだってよ、乗客を乗せて走って目的地についたら忽然として消えてしまうっていう“消える乗客”がさ」
“消える乗客”とは、タクシー運転手の間にはよくある怪談の一つ。
あまりに有名すぎて一般人でもお馴染みの怪談にございます。
「俺は30年もドライバーやっているが、噂だけで本物にはあったことがねぇ。まあ、間違いなく迷信の類だろ?」
「いやいや! 最近は出るらしいぜ? 何でもエライ美人の女が、夜中に一人で現れて四つ木坂の方に行けっていうらしい」
「四つ木坂の方へ? ますます聞いたことがねぇや」
四つ木坂と言えば、確かに暗いし夜行くような場所でもございません。
もし仮に行くとしても、四つ木坂はあくまでも通過点。その先に行くというならまだ考えられるというもの。決して目的地となりそうな場所ではないないのでございます。
「四つ木の先まで行ってくれるなら上客じゃないか、俺だったら大歓迎だね」
「でも、目的地についたら消えちまうんだぞ? “消える乗客”なんだから」
「はっ、俺はたぬきには化かされねぇよ、俺だったら無賃乗車を見逃さないね」
「はははっ、源さんだったら確かにそうかもな、だけどよ……」
だけどよ、と確かに雅は申しました。
そして、何故だかどうしてこんな言葉をつづけたのでございます。
「たぬきに化かされなくても、きつねには化かされるかもしれないぜ?」
★
みずほ街を横断するほつま街道は、人通りも交通量も多く、客を待つタクシーもあとを絶たちません。
酒と化粧の匂い。
季節を感じさせない薄着の女が店先に立つ繁華街を離れ、背後に遠ざかりネオンが車内ミラーから姿を消していくと、車内は夜を思い出したかのように暗くなる。
源之介はみずほ街で乗せたほろ酔いの客を降ろして一息つく。
今夜は上々。あとは軽く流してじっくりやるか。
そんないつものペース。疲れのたまった首をグリリと回す。
「孫が生まれる、か……」
結婚をした時には、自分が所帯を持つなんて、と思った。子供が生まれれば、まさか親になるなんて、なんて驚いた。
今度は孫か、俺もジジイか。
人生は何が起きるかわからない。そう思うと思わず頬も緩む。
このままもうひと稼ぎしたい。
「みずほまで戻るか」
少しでも、元気で、現役で、金を稼いで、などを欲も出るお年頃。源之介はちょうどよくUターンできる場所を探すために、四つ木坂方面に走ろうとしたその時でございました。
「うん?」
時はすでに夜中の1時。にも関わらず、こんな街灯も少ない夜道で若い女が小さく手を上げているではございませんか。
歳の頃は二十二、三。
月明りを弾くような薄い白い服が闇夜にぼうっと浮かび上がり、夜に溶けるような長い黒髪をスラリとした細い腰まで垂らしている。
透けるような白い肌は夜の盛り場を生業とする女が放つ雰囲気とはまるで別物。
こんな時間に……?
一瞬の違和感。
いやいや、こんな場所で客を拾えるとはむしろラッキーだ。
源之介は違和感などすぐに忘れ、黒髪の女に車を寄せる。
今日はツイている。こんな場所で客を拾えるなんて、などを思いながらドアを開けると、外のヒヤリとした風と共にスーッと女が音もなく車内のシートに腰かけた。
夜の寒さがしみ込んだ女の身体が、車内の空気と混じったためか、背中からゾクリとするような寒気にブルッと震える。
「お客さん、どこまでいきますか?」
ミラーに写る女に視線を投げると、女の赤い唇から聞こえるか聞こえないかほどの声で「四つ木坂の方へ」という。
四つ木坂……?
源之介はもう一度、車内ミラーで女の顔を確認いたします。
絵にかいたような品のある線の細い美しい女でございます。
タクシー車内だというのに、背もたれに身をあずけることもなく、姿勢よくシートに腰かけ、伏し目がちに窓の外に目を向けている。
ほぅと、思わず源之介も息をつく。
ずっと見ていたくなるような飛びぬけた美女。タクシードライバー歴30年ともなりますと、若手から大物の女優、モデルなんかを乗せた経験も少なくありません。
それでも、これほど目を惹かれる女はなかなか出会わない。
(エライ美人の女が……)
ふと、雅の言葉が蘇る。
すると、数珠繋ぎのように言葉が頭の中で次々と現れていくではありませんか。
……夜中に……一人で現れて……四つ木坂の方へ……? “消える乗客”……?
いや、まさかそんなはずはない。
タクシー転がし30年。雨の日も、風の日も嵐の日だって走ってきた。特に夜道はお手のもの。その30年で一度もなかった。客が消えるようなこと。
源之介、内心舌打ち。
雅のせいだ、あいつが下らねぇ話をするから! “消える乗客”なんてあるはずがねぇ。
あれは迷信だ。
どこかの誰かが、怖がらせるために作った作り話じゃないか。
と、言い聞かせるも、この世のとは思えない女の美しさ、憂いを帯びた寂し気な瞳、その雰囲気と雅の言葉が手伝って、どうにも頭から“消える乗客”が離れていかない。
源之介は車を発進させながら、消える乗客の話を懸命に思い出そうと記憶の糸をたぐり寄せておりました。
“消える乗客”のオチはなんだった?
ドライバーはどうなっちまうんだっけ?
1、夜中に乗客を乗せる
2、客は目的を言う
3、車内ではずっと無言。
4、目的地について振り向いたらお客はいなくなっている。
5、お客が座っていた場所を触ると、じんわりと濡れていた。
そうだ、確かそんな感じだ。
この話の中ではドライバーには何も起きないのでございます。ドライバーはお客の魂を運ぶのに利用されるだけという物語。
何も起きない。俺には何も危害は及ばない。
なんだ、そんなに焦ることもなかったじゃないか。
安心の言葉とは裏腹に早まる動悸。
振り払いきれない不安に、思わずいつもよりも安全運転。
そもそもまだ“消える乗客”だと決まったわけでもない。
俺はタクシードライバー歴30年。
生まれてこの方52年。
人生の大ベテランよ。
雅に言われたからこんなにもドギマギしちまったが、そもそもまだ起きていないことに驚いてどうするよ。
源之介は深く息を吐き出すと、すっかり汗で湿ったハンドルを握りなおし、自分に言い聞かせる。
この客は消えたりしない。
消えるわけない。
幽霊であるはずがない。
そうだ。絶対に。
とはいえ、一度膨らんだ空想と恐怖心はなかなか納得してくれるものではございません。
そこで源之介、確証がほしいと思いたつ。
自分の脳と心臓を納得させる確証があれば安心できる。
できれば、その確証は今すぐにほしい。
普段なら気にも留めない車内の沈黙が今夜はことさら重く感じる。
こんな時に限って信号は赤にもならない。
チラリとミラーでうかがえば、相も変わらず姿勢よくシートに座る女の姿。
その優美な姿に後部座席はまるで別世界。
車は走り揺れるというのに、この客は少しも揺れたりバランスを崩したりしないのです。かと言って、ピシリと姿勢が正されているにも関わらず少しも力みを感じさせない。
流れていく景色、揺れる車内の中で女だけがその場に静止しているかのように座ってる。
改めて見れば、それはまさに異様とも言えなくもない。
月明りのせいかライトのせいか、乗車した時よりも幾分青白くなった女の顔色にゾッする。
☆
するとどうしたことだろう。
不意に、うつろな力のない瞳がミラー越しに向けられ源之介と目があった。
その瞬間女が微笑み、運転席の方に身を寄せ囁くようにこう言った。
「運転手さん、行き場所を変えてもらえる?」
「えっ?」
女の白い腕が背後から伸び、源之介の首に絡む。冷たい腕が首から体温を奪っていく。
「どちらへ……?」
「このまま真っすぐ……」
「ま、真っすぐ?」
「そう、このままずぅっと真っすぐ……」
「いや、真っすぐって、この先は……」
何度も通ったことのある道だ。間違えるはずがないがございません。この先にはカーブがあり直進はできない。
「お客さん、この先は……」
減速をしようとアクセルを緩めようとしたが足が言うことをきかない。
「あ、足が!?」
「そう、このまま真っすぐ」
「真っすぐはダメだ!」
今度はハンドルを切ろうとしたが、ハンドルはロックでもかかったみたいにピクリとも動かない。
「止まれ止まってくれっ!」
女はカッと目見開くと狂ったように笑いだす。源之介の足は自分の意志とは関係なくアクセルを踏み込んでいく。
「うわあぁぁぁっ!?」
悲鳴を上げた源之介の口に女の冷たく細い指がスルリと入ってきた。腐臭が漂う柔らかなその指に心臓を鷲掴みにされる。
息を飲む源之介に、女は物悲し気に訴えた。
「ねぇ、どうしてブレーキを踏んでくれなかったの?」
☆
「はっ……!?」
源之介が気がつくと、女はシートに最初と変わらない姿勢で座ったまま。
すべては源之介の妄想でございます。
雅のせいだ。あいつのせいで変な想像をしちまった。その想像のせいか、女の存在がより不気味に思えて仕方がなくなる。
こうなってくるとどうしてもほしい。この乗客が幽霊じゃない、っていう確証が!
タクシードライバー歴30年ともなれば、お客が黙っている時には無暗に話しかけたりはしないもの。機敏に空気を読むスキルを身に着けているもの。もちろん源之介は職人気質のドライバー、運転技術だけでなく、お客様へのサービスもこだわりも一端のものがございます。
黙りこくっているワケあり女性客に不用意に話しかけたりなどはしないが源之介流。
しかしながら今は普段とは違う。まさに緊急事態。
車はあと十分と立たずに四つ木坂へと到着する。到着すれば、嫌でも結論が出る。
「消えるか」「消えないか」そんな不安を抱えたまま走りたくはありません。
話しかけるんだ。
話しかければ、このお客がごく普通の人間であることがわかるはずだ。
「お客さん、こんな時間に四つ木坂の方へ行かれるなんて珍しいですね」
「えっ? そうですか?」
「ええ、何か特別な用事でも?」
「ふふ、聞いてください運転手さん! 実は彼氏の家にサプライズで訪ねていこうと思っているんです。家の前に車で行ったらバレちゃうでしょう? だから、四つ木坂まで行ったら少し歩いて彼のところに行こうと思っているの」
……なぁんてな、こうなればごく普通のお嬢さんよ、少しも怖くねぇってもんだ。
イメージトレーニングはバッチリだ。
あとはやるだけ、実行あるのみ!
深呼吸を一つで。気合を入れる。
よし、いくぞ!
「おきゃ……」
そう口を開こうとしたまさにその時、後部座席からひどくひんやりとした風が吹き込んできたではございませんか。
ミラーを覗き見れば、女が何やらブツブツと独り言を言っている。
おいおい、何をしゃべっているんだよ!?
しゃべっているのはわかる。けれど、その内容は少しもわからない。
くそっ、ここからじゃ聞こえねぇ!
不気味に独り言をつぶやく女に、源之介は用意したセリフを飲み込む他ありません。
あと少しで、あと少しで四つ木坂についちまう!
完全に機を逃してしまいました。
このタイミングで話しかけるとはなんと不自然にございましょう。
もうこのまま答えを見るしかない。
現実を考えろ“消える乗客”なんてありはしない。乗客が消えるはずがない!
あんなものは迷信なんだ!
不思議なほどに信号は青が続く。まるでこの車を止めないように誰かが仕組んでいるかのよう。
男、源之介はもう後ろを見るのを辞めてただ前を凝視の一択。
ただただ信じる。
この乗客は消えない、と。
ごく普通に料金をもらい、通常業務で仕事を終える。そして、いつも通りタバコで一服して、今日の仕事は終いだ。
あのコンビニで雅に今夜の話をしてやろう。そしてコーヒーをおごらせてやる。
そう決意を固め、タクシーいよいよ、四つ木坂……。
★
「お客さん着きましたよ、四つ木坂で……えっ?」
振り向きわが目を疑った。ゾワリと心臓を跳ね上がる。
ドアはまだ開けていない。
開けた形跡もない。
それなのに今まで乗せていたお客がいない。
いや、そんなはずはない。後部座席でうずくまっているだけかもしれない。
慌てて車を降りると後部座席を調べに行く。
何もない。隠れているわけでもない。
影も形も何もない。
確かにここにいたはずなのに……。
【5、お客が座っていた場所を触ると、じんわりと濡れていた。】
源之介はほぼ無意識に、女が座っていた席に手を伸ばす。
「ぬ、濡れている……!?」
ゾッと寒気。ドッと冷や汗。
思わず後部座席から離れ、震えながら周囲を見渡す
夜道、街灯、四つ木坂。
いない。何もない。
いくら女の足が速くとも、こんなに早く見えなくなるわけもない。
その時、源之介の前を、夜だというのにフワリフワリと黒い蝶が一羽舞うではございませんか。
「う、うわあああっ!?」
タクシードライバー歴30年。
生まれてこの方52年。
こだわり強い職人気質、藤岡源之介の初体験。悲鳴は遠鳴り木霊して、闇夜に走りるは四つ木坂。
☆彡
それからの源之助、この夜の出来事を仲間内にこう話したと申します。
「ある夜、それは綺麗な女性客を乗せたんだが、こんな時間に四つ木坂まで行くという。道中、顔色は青白く、まるで生気を感じないかと思えば、ブツリブツリと聞こえないほどの独り言を呟いたりする。不気味に思いながら四つ木坂に到着したら、忽然と姿がなくなり、座っていた席はじっとり濡れているじゃないか。それに驚いていると、黒い蝶が目の前を飛んでいくんだ……あれは、あの蝶はあの女性客に違いない……」
それを信じる者多数、信じない者もまた多数。それぞれ面白可笑しく噂話をいたします。
噂はやがて、仲間内に留まらずそれぞれのスマホから全国へと拡散し、すっかりその名を売ったのでございました。
あの夜、肝をつぶし冷や汗をかいた渦中の源之助、その心情にもいささか変化が訪れたのだとか。
「源さん、一服しようぜ」
雅にタバコを差し出されるが、手を振り断り、いつもの缶コーヒー傾けては「やっぱりタバコはやめたんだ」と源之介。
「へぇ、どうしたてぇんだ? 身体に悪いは迷信じゃなかったのか?」
すると、源之介こう返す。
「迷信もバカにはできねぇよ。長生きしてぇのさ、少しでもな」
「へぇ、それは孫も喜ぶな」
と、断られたタバコを仕舞いつつ、雅はニヤリと笑うのでございました。
了