変化きつね先生一門記・消える乗客~「四つ木坂通りの新怪談」の巻~
霜月透子様主催・ひだまり童話館・開館4周年記念祭「4の話」参加作品
タクシーの中と申しますのは、運転手と乗客だけの特別な場所でございます。
夜中、明かりも少なく、人気もない暗い道を走っていると、突然、一人の乗客が乗ってくる。行先を訪ねると、これまたこんな時間にそんな場所へ? と思うような所を言う。お客が言うなら仕方がない、運転手は、目的地へと車を走らせる。
シンと静まる車内に、たまに入る無線の声。乗客は行先を告げたまま、プツリと口を噤んでしゃべらない。
おや、疲れているのか? それはそうだ、こんな夜更けだものな。などと思いつつ、車は目的地に。
お客さん、着きましたよ。
運転手がふと車内の鏡で後ろに目をやると……。
ええ、左様でございます。オチはすでにご存じのこのありふれた「怪談」が今回のお話……。
壱
ニヤリと笑うような新月の夜のことでございます。
秘密の集会場に、きつね先生に変化の術を学ぶきつねたちが集まりました。
今日は、きつね一門にとって月に一度の重要大事な会議の日。
議題はたぬき一家との「変化勝負」の一件。
どんな演目で勝負をするのかを決める日にございます。
きつねとたぬき、双方にとってこの変化勝負は、お花見、お月見、お茶会、盆暮れ正月の次に大事な出来事。
きつね先生とたぬき師匠、その生徒と弟子は大の仲良し、片方が困れば有無も言わずに助け合う関係ではございますが、この時ばかりはそうではありません。日々鍛え、磨いた術での真剣本気の勝負にございます。
その方法は至って簡単。
先手後手に分かれて、相手の出した変化演目に対してこちらも同じ変化で再現すること。
先手はお題を提示、後手はこれをできるだけ再現する。
勝負の判定はその術で、どれほど人間を驚かせることができるのか?
まずはその噂話が相手側の耳に届くことがまず第一条件。その上で、有名になった方が勝ちという仕組みにございます。
キリリとした切れ者風教師がハイヒールを鳴らしつつ壇上に登場。
変化した司会の女の子きつねにございます。
キリリ教師は壇上の上で開口一番こう申しました。
「はい、皆さん注目!」
キリリ教師は、角ばったメガネをかけてちょっと怖い。みんなすぐに静かになります。
みんなが静かになったのを確認すると、キリリ教師は自慢の指し棒で、一枚の地図を指しました。
集まった子キツネから老キツネは尻尾を揃えて、指し棒の先に目を向けます。
「皆さん、今回の変化勝負は今まであまりきつねの名が広まっていない場所で行いたいと思います!」
「「おおっ!」」
会場がドッと湧きました。
「この地図でいう、この部分。ちょうど四つ木坂あたりになりますが、ここは特別出しものをしたことがありません。そこで、今回はここを舞台にしたいと思います」
「「おおっ!!」」
「なるほど、それはいい!」
「四つ木坂の方か、確かに今まで手付かずだったのが不思議なくらいだ」
「それでそれで! 演目は何をするの!?」
再び司会に注目。
キリリ教師はクイッとメガネの位置を直し、キラリと目を光らせます。
「今回の演目は【消える乗客】です!」
「「ええっ!?」」
会場どよどよ、ざわざわ。
先ほどまでの勢いはどこへやら。
きつねたちはそれぞれ顔を見合わせます。
【消える乗客】とは、儚げな美しい女性客がタクシーに乗り目的地を告げ、その目的の場所でいきなり姿を消すという、過去にきつね一門が作り出した名作演目にございます。タクシーという室内を利用し、物静かな乗客が忽然と消えるという淑やかかつ雅な演出。まさにきつねの美学が詰まった一作。
しかし、実のところこの演目、最近ではめっきり行われることがなくなりました。というのも、
「消える乗客って、あの一人舞台の?」
「そうそう、小道具持ち込みで密室脱出付き」
「その上、長いんだよなぁ」
きつねたちは言い合います。
そうです、実はこの【消える乗客】とても難しいので、みんなやりたくないのです。
キリリ教師はざわつくきつねたちに向かい、パンパンッ! と地図を叩いて言いました。
「確かに難しいけれど、車で走った道は全部、その噂の範囲になる。成功すれば成果も大きい」
キリリ教師はさらに煽り立てます。
「今回のこの道のりは今までの【消える乗客】の中でも特に長いもの。加えて、新たな道の開拓でもあり、久しぶりの演目でもあります。これほどの距離は外が得意のたぬきとてしたことがないでしょう!」
「「むむっ」」
切磋琢磨、仲良し好敵手のたぬきの名前を出されては、尻込みばかりはしていられません。
みんな顔を見つつ、お互いの背中を押しあい譲り合い。
「それを独り舞台、これを一匹で行える機会はそう滅多にあるものではないですよ! さあ我こそは、と思う方、今すぐ挙手を!」
シンと静まり返る会場一同。みんな周りの様子をうかがい、気配を消しては息を潜める。
すると、そこへ
「やれやれ……」
沈黙破る渋い低音。
「こんなチャンスに、誰もやらないのか?」
声の方に集まる視線。
ぴょこんと上がったきつね色の手が一つ。
「お、おい、まさか、金五郎!?」
「と金の金五郎!」
「金五郎さんが!?」
手を挙げていましたのは、やや年を重ね、男として脂の乗り始めた一匹のきつね。幾分尾の太い、通称「尾太の金五郎」あだ名を【と金】と申します。
この金五郎と申しますは、今は若い子きつねたちに変化の術の指導係を担う、人望厚い黄金色のきつね。
老若男女、それぞれ金五郎の姿を目に止めて
「金五郎さんが!」
と子ギツネたち。
「金五郎が?」
と老ギツネたち。
喜憂相混じる声に押されつつ、金五郎は満を持して立ち上がるでございませんか。
「誰もやる奴がいねぇってんなら、こたびの【消える乗客】は、俺がやらせてもらうぜ」
金五郎のこの宣言に、異論を唱える者などございません。満場一致。
こうしてきつね一門が上演「消える乗客」は、尾太の金五郎が主役を務め、開演の運びと相成りました。
弐
みずほ街を横断するほつま街道は、人も車も往来の多い、たいそう立派な道でございます。
繁華、花街を少し離れ、やや闇夜が勝りそうなこの道端が今宵の舞台。
普段は何ということはない道ではございますが、人通りもほどよく減り、賑わいも遠く、揺れる灯りも薄暗い、影に化粧し、月夜の衣をハラリと纏えば、なんとも味わいある道となりましょう。
きつねたちはほつま街道が見える高台の茂みにひそみ、わいのわいのと【消える乗客】開演を待ちます。
何せ、子きつねの中には、名作【消える乗客】を見たことのない子も多い。一度見ておくべき、と親きつねたちに連れられ見に来ているほど。
人の目にこそ見えませんが、観客席は満員御礼。立ち見までいるギュウギュウ状態。
「お、あれは!?」
月下照らされ、舞台袖より女性が一人。
「おいおい、誰だ、あの別嬪さんは!?」
歳の頃は、二十代。薄い白い衣装に長い黒髪。すらりと腰は細く、透けるように肌は白い。夜闇に浮かぶ白月の如く美しい可憐な乙女。
「あれは、金五郎だ」
「あれが金五郎!? 【と金】の金五郎か? あいつ、あんなにうまく化けられるのか!? 嘘だろ!?」
見物若きつね、権の隣で、腹巻をした老きつね、平兵衛がキセルで一服。フッーと煙を吐いて申します。
「若い奴らは知らないかもしれんが、金五郎といえば昔は神童と言われた一匹よ」
「神童だって? あの【と金】が? 確かに下手ではないだろうけどよ。神童ってのは言い過ぎだ」
いや、それにしても上手すぎる。権は何度も目をこすっては美女金五郎を確認する。
金五郎と言えば、子ども相手に術の基本を教える指導役。そもそも、神童と呼ばれるような才のあるきつねがなんで子きつねの指導などしているのか?
金五郎の歳なら、まさに今芸に磨きがかかる頃。一線で活躍していてもおかしくはないはず。
「お前さん、なんであいつが【と金】と呼ばれているか知っているかい?」
「いや? ただ、俺くらいの歳のきつねはみんなそう呼んでいるぜ」
平兵衛の問い、権が答える。それに平兵衛、キセルの灰をポンと落として息をつく。
「【と金】ってぇのは、将棋の歩の裏、最も弱い駒だ。あいつは生来のあがり症で本番に弱く、失敗ばかり。金の名前は背負っていても、中身は弱いってんで、【と金】とあだ名がつけられたってんだ」
昔むかし、神童と呼ばれた金五郎は、大事な場面で緊張し幾度も失敗、挫折を繰り返したのでございました。
そのことが神童金五郎の才に陰を落としたのは言うまでもございません。
金五郎はやがて表舞台から身を引き、隠れるように一門の末席に身を置くようになったのでございます。
その金五郎が、一際プレッシャーのかかる【消える乗客】に手を挙げた時、老きつねたちが驚いたのは、言うまでもありません。
まさかあの金五郎が、進んでこんな大舞台に上がろうとするなんて!? と。
と、そこへ静まり返った夜道に光る二つ目。
今夜のお客様の登場だ。
女はしゃなりと手を挙げわずかに微笑む。
その仕草はきつねも見とれる美しさ。
タクシーは女に吸い寄せられるように停車する。
タクシーのドアが開くと、女はまるで水鳥の羽が落ちるかのようにフワリとシートに腰を下ろし、
「四つ木坂の方へ……」
と、かすかに聞き取れるかどうかの澄んだ声。
淑やかに儚げ。後に姿を消して、運転手に、実は幽霊だったのでは? と思わせるためには充分な演技。老きつねたちは思わず目を見張る。金五郎の一挙手一動は、まさに唸りを上げるほどの完成度。
子きつねたちもみんなうっとりにございます。
こうしてタクシーは、ほつま街道を四つ木坂方向へと向かい走り出したのでございました。
はてさて、この演目の見どころは、終盤目的地で突如として乗客が消えるという部分にございます。しかしながら、ただ消えるだけでは存外驚きは少ないもの。
成功させるためには、いくつかの条件があるのです。
それは以下の四点。
壱・車内での態度。
弐・同じ姿を維持すること。
参・車内からの速やか脱出。
四・去っていったあとの演出。
「車内での態度?」
権が聞きました。すると、平兵衛はキセルに詰めた新しい煙草に火をつけながら申します。
「【消える乗客】の難しいところは、本番中のほとんどを黙って演じ続けるところだ。何せ、この幽霊は、声を上げるでも、怖い顔をするでも、血を流すでもない。ただ、そこにいるだけで、不気味に、不思議に思われなくちゃならない」
「なるほど、確かにそれは大変だ。幽霊を演じているだけで、俺たちは生きているんだからな。二番目の同じ姿勢ってのは?」
「ちょろちょろ動いてみろ、せっかくの雰囲気が台無しだろ」
「なるほど、確かにそれは大変だ。同じ姿勢も大変だが、変化すれば慣れない姿勢になるのが普通だもんな」
「三番目の脱出も忽然と姿を消さなきゃならない、これがこの演目の山場だ。これが難しい……ってのも、それは最後の問題があるせいだ」
「最後の問題?【消える乗客】は消えたあとに、そこにいたかのように自分の居場所を濡らして消えるっていうあれかい?」
ただ消えるだけの驚きだけではなく、席が濡れているという手で確認した感触が驚きと恐怖を何倍にも膨らませるのでございます。
この濡れた席こそ、派手さもないがじわりと肝も冷やすキツネの粋な演出というわけです。
「だが、そのためには水をもって行かなきゃならん。運転手に見つからないように、水筒に入った水をこぼして、それを持ったままタクシーから消えるってわけだ」
「なるほど、確かにそれは大変だ。見えないような小さなものに変化をしたら水筒が丸見え、持って帰ることはできない。かと言って、水筒が車内に残っていたら【消える乗客】そのものも台無しってわけだ」
「まあ、そんなところよ。そこが腕の見せ所ってわけだ」
美女金五郎を乗せたタクシーは暗闇を疾走。
きつねたちは双眼鏡やら望遠鏡を手に、車内の様子を伺います。
「金五郎さんやっぱりすごい! あの青ざめるような顔色! 演じているとは思えない!」
「まるで本物の幽霊みたいだ!」
子キツネたちが歓声を上げます。
これには老きつねや同期のきつねたちも「見事なものだ」と唸るほかありません。
「た、大変だ! 大変だ!」
一匹のきつねが慌てた様子で駆けてきました。
「どうしたどうした、そんなに慌てて!」
「金五郎さんが!」
「金五郎が? 金五郎がどうした?」
「これ! これを!」
「これって何さ?」
「最後に使う水さ! 金五郎さん、水筒を持っていくのを忘れちゃったんだ!」
「「な、なんだって!?」」
きつねたちはみんな幽霊みたいに青ざめました。
【消える乗客】は、乗客が消えて驚き、濡れた席に触れて青ざめるという二段オチ。これが達成されなければ、とても成功とはいえません。
「と、届けるしかねぇな!」
「バカいうな、金五郎は走っているタクシーの中だぞ!」
「信号で止まるだろうよ!」
「この距離だぞ! 今から追いかけたら、四つ木坂まで行っても追いつけるかどうかわからねぇ!」
と、その時、慌てるきつねの手からスルリと水筒が消える。
「えっ!?」
驚くきつねに走る風。
「あたしらに任せな」
月夜に舞うは影四つ。
「お前ら! 来ていたのか!?」
それはきつね先生一門を影で支えるくノ一、人呼んで女狐四姉妹にございます。
「この水筒はあたしらが届ける。双葉、三枝・花輪、あたしに続きな!」
「「「はい、姐さん!」」」
長女、千種の号令で、それぞれ首にスカーフを巻く姉妹きつねは、高台から駆け出し、ムササビに変化して夜の街道を高速滑空。
少しも軸のブレることのない驚異の空中姿勢。
風を裂いて四匹はタクシーに迫ります。
しかしながら、相手はタクシー。二種免保持者はただ者ではございません。
このほつま街道は信号も少ない暗がりの道。
緩やかなカーブは数あれど、減速をするほどのものではないのです。
「姐さん、距離が足らない!」
命知らずの高速滑空は空気抵抗を極限まで減らした超高速でございます。されど、地面が近づけばそれを維持することはできません。
「双葉、花輪を使って、タクシーを捉えるのよ!」
「うん!」
千種の指示に、すぐさま四女、花輪がムササビからフック付きロープに。それを受け取った次女双葉が、前を行くタクシーの後部にひっかける。落下する双葉を支えたのはスケートボードに姿を変えた三枝でございます。
走行するタクシー後方にロープで引っ張られるボードに乗ったきつね双葉の姿。
カーブを着るタクシー後方で、きつねボードが唸りを上げてこれを追走。
ビンッとロープが張り軋む!
そんな双葉の繰るロープの上に千種は見事に着地。そのまま地面の上を走るかのような勢いでロープの上を渡り、唸りを上げるタクシーにたどり着いたのでした。
これで水筒を届けられる。いえ、そう簡単にはいきません。何せタクシーは疾走中。しかも今は本番の真っ最中。中にいる金五郎に何かを伝えるにも、運転手に気づかれるわけにはいきません。それに、水筒を届けには、少しばかり窓を開けてもらはねばならない。
これから消えるという乗客が意味もなく窓を開けてしまっては、洗練された消える乗客にケチがつく。
不自然にならないよう知恵を絞らねばならないと、千種はひとまずタクシーの天井灯に水筒をくくり付け、自分だけが車内に潜り込むことを決めました。
千種は月明かりに溶けるように風に姿を変え、一路車内へ。この影のないものに変化をする【影なし変化】こそ、きつね一門に伝わる秘伝の技。世襲制の四姉妹に代々伝えられる特別な技でございます。
「金五郎、金五郎!」
千種は青白い顔の美女金五郎に小声で呼びかけます。
「ああ? その声、千種か……久しぶりだな」
消え去りそうな小さな声は運転席まで届くことはありません。美女金五郎は忍び込んできた千種と言葉を交わします。
千種は、金五郎の顔を見てすぐに気がつきます。
「あんた……車に酔ったんじゃないのかい?」
「……よくわかったな」
予想的中。実は金五郎の顔色は演技ではなく、乗りなれない車によって体調を崩していたのでございます。
「当たり前だよ、そんな顔色してさ。まったく、乗り物に弱いクセに……変わってやろうか?」
と千種の提案。すると美女金五郎は冷や汗を額に浮かべつつ「なんだ心配してくれんのか?」と強がりを言う。
「そんなんじゃないさ。ただ……」
実は、この千種と金五郎、幼き頃よりお互いを知る旧知の仲。双方ともに神童・天才と言われた二匹でございます。しかし、それは過去のこと。今は、片やエリートコースの最前線。もう片方は一門の末席に身を置く身。
いくら幼き頃より知る仲と言えど、こうして言葉を交わすのも久方ぶりのことでした。
「ただ?」
「今さら、恥をかきたくないだろう?」
それは千種の幼馴染を思うが故に出た言葉でございました。
「……ありがとうよ。だがな、そうじゃねぇんだ」
「そうじゃない?」
問い返す千種。美女金五郎の顔色は今にも吐きそうな様相です。
「千種、俺に歳の離れた妹がいるのを覚えているか? 名前は雪ってんだ」
千種が記憶をたどると、確かに思い当たるものがありました。歳の離れた妹で、白毛の多い可愛らしい子でございます。
「それがどうしたのさ?」
「その雪が、今度嫁に行く。……嫁ぎ先は久蔵のところだ」
「なんだって? それはまた……」
久蔵とはきつね界隈では知らないものはいない名家の若様。変化の術はそれほど得意ではないようですが、器量もよく気性も穏やか。悪い噂の一つも聞こえてこない好青年なんだとか。
「文句のつけようのない相手。そもそも俺たち家族からすれば、もったいない話だ」
と、そこまで言って金五郎は胃酸の混じるため息をもらします。
「嫁に行く兄貴が一門のヘタレじゃあ、嫁いでいった先であいつに肩身の狭い想いをさせちまう。俺のせいで……俺は、このままじゃダメなんだ」
「あんた、それで……」
「すまねぇな、千種。ここは俺のためにも引いてくれ、俺はこの消える乗客をやり遂げなきゃならねぇんだ」
顔面蒼白。目はうつろ。しかし、金五郎の瞳には確かな闘志の炎がありました。
千種はその熱い視線に「変わってやろうか」などと軽々しく口に自分を恥じたのでございます。
「そこまで言われりゃ、引き下がらないわけにはいかないねぇ。私は水筒だけ置いて退散するよ。窓を少しだけ開けてくれないか、そこから受け渡すよ」
しかし、何を思ったか金五郎は首を横に振るではありませんか。
「言っただろう、手助け無用だ」
千種は驚き、
「何言ってるんだい、水がなかったら、どうやって【消える乗客】を閉める気だい?」
それでも金五郎の意思は揺るがない。
「それを受け取っちまったら、俺の独り舞台ではなくなる。それを忘れたのは俺のミスだ。だからこそ、乗り切んなきゃなんねぇ」
金五郎の決意は固い。
これ以上は野暮というもの。千種はスルリと車内をあとにしたのでございました。
この一部始終を見ていた姉妹は千種を問い詰めました。
「姐さん、どうして引き下がったの!?」
と双葉。それに花輪が続きます。
「強引に渡してしまえばよかったのに! 金五郎さん失敗してしまうわ!」
「姐さんの気持ちもわかりますが、失敗しては元も子もないのでは?」
普段は絶対に千種に従う三枝までも、そんなことを申します。しかし、千種は声を荒げ言いました。
「男が立とうとしてんのに、それを邪魔するやつがあるかい!? 私らがここにいるのは、あいつのかわりに立つことじゃない、あいつを立たせることだ!」
千種は続けてこう申しました。
「私らはここで見届けるよ。全員ここで待機だ。消える乗客……成功させるよ」
参
「おいおい、こりゃあどうなるんだ?」
「うるせぇ、黙ってろ」
「だって、水がないんだぜ!?」
「うるせぇ、黙ってろ」
「金五郎は何を考えて……」
「ああ、うっせぇ! 黙ってろって言ってんだろ!」
「爺さん! あんた、心配じゃないかよ!?」
すると平兵衛、
「心配じゃないわけねぇだろ! だから、いいから、黙ってろ」
キセルをくわえ、金五郎に見入った。
ブゥゥゥン! と夜道を進むタクシー。
後部座席には目の覚めるような美女一人。
きつね四匹が後方待機。
持つべき物を持たずして、受け取りを拒否した金五郎。
それを承知で固唾を飲んで見守るきつねたち。
金五郎の車酔いはすでに限界。吐き気が喉までやってくるのを気合いと根性で飲み込みます。
金五郎がふと見上げると月が見えました。
そう言えば、初めて舞台に上がったのもこんな夜のことであったと脳裏を過る。
演目は学園七不思議の一つ。期待されながらも、自分は緊張のあまり出ていくことができなかった。
あの時、失敗したのがすべての始まり。
それから幾度と失敗をして、反省して、後悔して、やがて自信を失い、また逃げた。
しかし、それでも、そうであっても、陰に隠れて、稽古を途絶えさせたことはありませんでした。
四つ木坂が近づく。
もう少し。
できるはずだ。
『できなければ、最悪このまま下車すればいい。単なる乗客になれば、大きな失敗にはならない』
金五郎の中でもう一匹の金五郎が申します。
そんなこと許されるわけがない。
『千種たちが後ろにいるじゃないか。あの姉妹が何とかしてくれる』
ダメだダメだ! それじゃあ、雪に顔向けできねぇ!
俺はここでやらなきゃダメなんだ!
さあ、車はまさに目的地、四つ木坂!
今しかない。金五郎はスルリと手ぐしで髪をわずかにかき上げ、気合を入れる。
タクシーが止まる!
四
「お客さん着きましたよ、四つ木坂で……えっ?」
振り返る運転手はわが目を疑う。
今まで乗せていたはずの女性客の姿がない。
慌てて車を降りて、後部座席を調べに行く。
いない。影も形もない。
そんな馬鹿なと、女の座っていた席に手を伸ばす。
「ぬ、濡れている……!?」
ゾッと寒気。ドッと冷や汗。
震えながら運転手は周囲を見渡す。
夜、闇、月、四つ木坂。
言葉を失う運転手。
いない。何もない。そんなはずは……。
するとその目の前を、夜だというのにフワリフワリと舞う黒い蝶が一羽舞う。
「う、うわあああっ!?」
運転手。悲鳴を上げて、車に飛び乗り、瞬く間に闇夜に走り去る。
シンと静まる四つ木坂。
「よっ! 金五郎!」
誰かが声を上げた。その瞬間。
拍手!
きつねたちの拍手拍手の大喝采!
新月開演。「四つ木坂通りの消える乗客」これにて終幕と相成りました。
☆彡
最後の最後で金五郎が見せたのは、何と自分ですいた髪を水に変えるという離れ技でございました。
その技は一門の内でも、出来るものが何名いるかという高級技。さらに黒き蝶の演出は、観客、仲間一門に衝撃を与えるものでございました。
そう、あれは水筒を持っていては到底できるものではないからです。
〈ある夜、それは綺麗な女性客を乗せたんだが、こんな時間に四つ木坂まで行くという。道中、顔色は青白く、まるで生気を感じないかと思えば、ブツリブツリと聞こえないほどの独り言を呟いたりする。不気味に思いながら四つ木坂に到着したら、忽然と姿がなくなり、座っていた席はじっとり濡れているじゃないか。それに驚いていると、黒い蝶が目の前を飛んでいくんだ……あれは、あの蝶はあの女性客に違いない……〉
この噂話は瞬く間に広がり、やがてたぬきの耳にも入りました。
月夜に黒き蝶を舞わせるとはなんと洒落た演出、さすがきつねだ! とたぬきをうならせることになりました。
この一件ですっかり名を売った金五郎でしたが、妹の嫁入りの席に参加することはありませんでした。
というのも、あまりに名前が売れすぎてしまったのです。そんな自分が参加しては、主役の二人の邪魔をしてしまう。かと言って、出席しないのも角が立つ。
金五郎は少しばかり旅に出ると先生に申し出たのでございました。
まことに不器用なきつねでございます。
さて、一門一家のお月見の会で、一匹のたぬきが平兵衛にこんなことを尋ねました。
「【消える乗客】のと金の金五郎さんって、なんで「と金」ってあだ名なの?」
すると平兵衛はこのように申したのだとか。
「将棋の歩ってのは、将棋の中で、最も弱い駒のことだ。だけれど、ひとたび敵陣に入れば「金」にまで上り詰め、目覚ましい活躍をする。あいつは遅咲きの天才、それで「と金」と呼ばれたのさ」と。
その金五郎、旅先でも何やら活躍したと噂話を耳にします。
えっ? どんな活躍なのかって?
それはまた別の機会に。金五郎の帰りを待って、語ることにいたしましょう。