90.運
「1番大切なのは逃げる事。それは分かったわ。でも、どうあがいても逃げられない場合もあるわよね?」
鍛錬場に辿り着くまでに「戦わずに逃げる事が最も安全に自分の身を守る方法」と言うのを口を酸っぱくなる位の勢いで美智子に教えていた賢吾だが、その後に美智子からそうした疑問が出て来た。
それに対して賢吾はこう答える。
「その場合はなるべく手間をかけずに、逃げ出せる状況を作り出すんだ」
「逃げ出せる状況……」
賢吾の言いたい事は美智子にも何となく分かるのだが、問題はその方法だ。
それを美智子が尋ねてみると、賢吾はまず自分で考えてみる様に指示を出す。
「うーん、例えば大声を出して周りに助けを求めるとか……暴れて抵抗するとか……後は防犯ブザーを鳴らすとか催涙スプレーを噴射するとか。私達が小学生の頃に色々と教わった話よね」
「ああ、確かにそれが大事だ。けど例えば口を塞がれたら大きな声は出せないし、防犯ブザーも催涙スプレーも今は手元に無いだろう?」
「確かにね」
そこで美智子がハッとした表情になる。
「要するに賢ちゃんの言いたい事は、そうした状況でどうやって逃げ出すかのトレーニングをすると言う事ね?」
「そうだ」
だからこうやって鍛錬場まで来たんだ、と何人かの騎士団員がトレーニングをしている光景を見ながら言う賢吾だが、そのエスケープテクニックのトレーニングをする前に美智子に伝えておきたい事があった。
「ただ……日頃からトレーニングをしていたとしても、実際にそうした状況になったら的確に身体を動かせるかどうかはまた別なんだ」
「えっ……だからここでトレーニングをして、そうやって危険な状況から逃げる為に身体を慣らすんじゃないの?」
そうで無ければここに来た意味が無いじゃない、と言う美智子の疑問はもっともである。
「確かにそうだ。だがな、人間と言うのは幾ら鍛錬していても咄嗟に身体が動かない事なんて幾らでもある。俺だっていきなり拳銃を目の前に突きつけられたら動けないし、素直にホールドアップして財布を差し出す位の事はするだろうな」
「う……うん」
右の人差し指を立てながら説明する賢吾のその指の数が、今度は中指も増えて2本になる。
「それに日本拳法では体格関係無しに組み手をやるから分かるんだが、相手が例えばプロレスラーみたいにガタイの良い奴だったら俺の小柄な体格の打撃なんて効果が余り無いんだ。それこそ急所でも狙わない限りはな」
そこで一呼吸置いて、薬指も増やして指の数を3つに増やして続ける賢吾。
「でも、その逆もある」
「逆?」
「ああ。幾ら鍛えている……それもプロの格闘家だって集団で向かって来られたら勝ち目は無い。日本だったら例えばボクシングや空手を習っている人間がそう言う連中に絡まれて反撃したら、逆に過剰防衛って事で警察に逮捕された例がある」
それは美智子も聞き覚えがある話だった。
「ああ、確かそう言うボクサーや空手家の人のパンチやキックは凶器と同じって事なのよね?」
「そうだ。だがそれとはまた別の話だ。言ってしまえばブラジルで2013年に起きた事件なんだが……海外の法律までは詳しく知らないから反撃してはいけないかどうかまでは分からないけど、女絡みのトラブルで揉めたプロの総合格闘家2人がガソリンスタンドで集団暴行にあって、1人は重体で1人も重傷を負った。この時の相手はチンピラ10人位。それも相手は鉄パイプを持っていて、抵抗もロクに出来ずにボコボコにされてしまったんだ」
「恐いわね……」
日本の常識が通用しないのが海外だと言うのも良く聞く話だが、これからエスケープのトレーニングを始めるに当たって何でそんな話をわざわざするのか、イマイチ美智子にはピンと来ない。
「それで……私にはエスケープテクニックのトレーニングをさせたいのか、それともトレーニングを止めさせたいのか、どっちでも無い何か別の意図があってその話をしたのかしら?」
やるならやるでさっさと始めましょうよ、と言わんばかりの美智子の問い掛けに、賢吾は冷静な口調で答えを返す。
「2番は絶対に無い。1番と3番のミックスだ。エスケープのテクニック以前に、美智子の方から日本拳法を習いたいと俺に頼みがあったんだから1番はまず当てはまる。重要なのは3番だ。この世界は異世界なんだ。あそこでもやっている様に、鎧を着込んで戦う人間が当たり前に居る世界。魔物だって魔法だって居るし、それは美智子も十分に分かっている筈だ」
「結局何が言いたいのよ?」
もったいぶる様な話し方の賢吾に段々イライラして来た美智子に、ならばと賢吾は結論から話す。
「俺が教えたいのは、戦いは運だと言う事だ」
「運……?」
「そうだ。今まで俺と美智子がこうして生き残って来られたのは運の要素が大きい。俺達2人が奴隷船から脱出する時にあの男が助けに来てくれたのも、俺があのでかい魔物に落とされた所に木があったのも、俺が武器を相手に今までこうして生き残って来られたのも、全ては運が絡んでいると思っている。運が悪かったら今頃俺も、それから美智子もここに居ない可能性があったんだ」
何だか無茶苦茶に聞こえる理論だが、そう考えてみるとそうなのかも知れない……と美智子は強引に自分を納得させた。




