89.「逃げる」と言う事
レメディオスからはそう言われたものの、元々トレーニングをするのはなるべく毎日だと決めていた賢吾と美智子にとっては余り関係の無いアドバイスだった。
そのアドバイスを受けた次の日からも、今までと同じ様にトレーニングを開始する賢吾と美智子。
ロルフはあの男を捜して王国中を回っているし、レメディオスとクラリッサは事件の後始末と選考会の準備で忙しい為、手の空いている騎士団員が賢吾と美智子のトレーニングに付き合ってくれる事になった。
そのトレーニングを続けて行く中で、賢吾はふと思い出した事がある。
(もしかしたら、あの村長の息子も出て来るかも知れないな)
美智子と合流する前に立ち寄ったあの村で出会った、クラリッサを手合わせで倒した後に自分とも戦った記憶がある、村長の息子イルダー。
騎士団員になりたいと思っていたあの男も、もしかしたら今回の選考会に出て来るかも知れないと言う予感が賢吾にはあったのだ。
(あの南の坑道で俺があの女頭目に美智子と連れて行かれる時に、あの男が女頭目に蹴られて昏倒したのをそばで見たきりだが、クラリッサから聞いた話だと今回の事件を切っ掛けに、今は王都で1人暮らしをしているって話だったな)
あの魔術都市に向かう道のりでふと思い出し、クラリッサに尋ねた所でその答えが返って来た。
そう報告を受けてはいるものの、実際にこの王都であのイルダーに再会した記憶は無い。
(時間が出来たらちょっと様子を見に行ってみるか)
クラリッサに聞けば住んでいる場所も分かるだろうから……と考えながら賢吾は今日も美智子と共にトレーニングに向かう。
1ヶ月云々の話では無く、これからは美智子が望む限りは何時でもそして何時までもトレーニングを続けるつもりだし、武術を極めるのであれば幾ら時間があっても足りない。
それこそ病気や怪我等で運動が出来ない状況にでもならない限り、死ぬまでトレーニングは続くのだ。
それが毎日の積み重ねとなり、やがて「達人」と呼ばれる様になる。
武術に限らず、職人と呼ばれる人間達がその領域に辿り着くまでには長い時間を掛けて知識と技術を蓄え、それを的確に実行して「経験」として積み重ねて行くのが必要である。
プロとして活動するなら、自己満足のレベルでは無く「相手」を納得させなければお金も貰えないし信頼だって得られない。
大学卒業を控えるに当たって卒業まで続ける、と言う契約で賢吾がアルバイトをしているレストランのオーナーシェフに言われた言葉だ。
日本拳法だって、今の自分にはまだまだ足りないものがあると賢吾は実感している。
スポーツと言う枠を超えた、実戦的な武術の戦い方がこの世界で生き抜く為に必要なのだ。
その為には武器を避けたり受け止めたりするトレーニングも必要なのだが、受け止めるのは謎の現象があるが故になかなか出来ない。
それにまだ、賢吾もそれから美智子ももっと慣れておかなければ鳴らない事がある。
それは「逃げる」事だ。
逃げると言う事は、実は武術のテクニックの中で1番大切なテクニックであると言える。
無闇に立ち向かって行くのでは無く、1度引いて相手の攻撃の癖や隙を分析してから再び挑む事で勝てる可能性が高くなる。
別のシチュエーションで言えば、今回のアディラードの様に余りにも強大過ぎて到底勝ち目が無い様な相手から逃げ切るのも立派な戦術だと賢吾は思っている。
(昔の日本の武将の間では、敵に背を向ける事は臆病者のする事だって言われてたって何処かで聞いた事があるけど……臆病な奴こそ生き残る可能性が高いと思う)
だって、無駄なトラブルを避けるのが臆病者の特徴だからだ。
自分の力を過信して相手に挑み、予想以上の実力で返り討ちにされるよりは最初から挑まないのも1つの方法だし、それもまた戦術だ。
(草食系男子がどうのこうの言われてるが、武将が「やあやあ我こそは」と言って戦っていた時代じゃないんだから、別にそう言う戦い方があって悪くは無いだろうからな)
実際の話、この世界に来て賢吾は自分の日本拳法の無力さと弱さに気がついた。
幾ら日本拳法で全国大会に出たとは言え、素手と武器ではリーチが違う。
これはロルフとのあの短い手合わせの中で嫌と言う程に感じたし、それ以降も何度も感じる場面があった。
素手だけでは限界があるからこそ武器を持った。
だが、集団で向かって来られたら武器を持っていても限度がある。
あのウルリーカの魔物集団との戦いの中で、自分1人だけでは絶対に生き残れなかっただろうし騎士団と言う仲間が居たからこそ立ち向かう事が出来た。
戦うと言う事そのものに関しては、自分も日本拳法と言う戦いの中に身を置いていたからこそ全てを否定する訳では無い。
しかし、戦場と言う殺し合いが当たり前のシチュエーションであれば何でもありなのだ。
賢吾も、それから美智子もその戦場を少しだけだが経験して来た。
そしてこれから先も戦場に身を置く可能性が無いとは言い切れないし、むしろその可能性が高いので少しでもそのシチュエーションに慣れるべく美智子にその考えを話しながら賢吾は鍛錬場へと向かった。




