1.始まりの導き
5歳から日本拳法を始めて今年で17年目になる、久井賢吾22歳。
この就職難と言われている2013年の御時世、スポーツ推薦で大学に入学していた事もあってそこそこの規模のメーカーに就職も内定。
そして大学も無事に卒業し、今は新たな生活までの少しの充電期間のスタート合図になる卒業式の帰り道である。
「いーなー、賢ちゃんは日本拳法辞めちゃったと思ったらきちんと就職したんでしょー?」
「別に辞めてねーよ」
そう言う賢吾の視線の先には、大学は元より同じ岩手県で生まれ育った幼馴染の神谷美智子の姿が。
彼女とは幼稚園からずっと一緒であり、わざわざ親を説得してまで岩手から東京の大学にこうして一緒に着いて来た。
「ええっ、そうなの?」
「それは無いって……今は一時戦線離脱中だ。日拳だったら東京に道場も沢山あるし、社会人になって仕事に慣れて来たら時間を作ってまたやり始めるよ」
師範だった祖父の指導の下で始めた日本拳法。
大学でも日本拳法部に所属し、その部長を務める傍ら全国大会への出場経験もある。
最高位はベスト8の中の6位だったので、もしまた全国大会への切符を手にする事があればその時はリベンジを果たしたいと思っている。
そんな賢吾もいよいよ社会人として、学生と言う一種の守られた立場から旅立つ事になる。
その前にひと時の休息を味わうべく美智子と一緒にカラオケに行く事にしたのだが、この時まだ賢吾は自分の身に降りかかる予期せぬ事態を想像出来る筈も無かった。
カラオケへと向かう途中の道には、かつて大きな工場が稼働していた敷地がある。
今はもう使われていない廃墟になっている場所であるものの、その工場の周りを通っている道は路地裏から表通りに抜ける近道が出来るルートとして知られている。
賢吾も美智子もこの道は良く利用していた為、今回も同じ様にこの抜け道を通って市街地部分に出る予定であった。
しかしその予定に従って抜け道を歩いていると、美智子の耳が不可解な音をキャッチした。
「……?」
それが全ての始まりだった。
「どうした?」
「何か聞こえない? 工場の中から……ほら」
「え?」
いきなり何を言い出すのかと思いつつ賢吾も耳を澄ませてみると、美智子と同じく彼の耳にも確かに何か聞こえる。
「……ああ、聞こえるな」
美智子の言っている事が本当だとしたら、この場からすぐに立ち去るかもしくは中に入って何が起こっているのかを確かめてみるのかの2択だろう。
聞こえて来るのは何かのうめき声みたいな物だが、この2人の答えは既に決まっている。
「調べるのは俺達じゃ危険だ。警察に連絡してさっさとカラオケ行こうぜ」
「そうね。変な事に巻き込まれたら嫌だし」
戦うのは決められたルールの中で、決められた場所で。
日本拳法に限らず、どんな格闘技でも大体そうだ。
もし無差別に戦いたいのであれば格闘家ではなく軍隊に入り、その軍人として戦場で戦えば良い。
その上、この日本では例え正当防衛だったとしてもプロボクサーだったり空手の師範と言う様な格闘家がその拳を振るって傷害事件に発展してしまったら過剰防衛になってしまう、と言うのが良く知られている事だからだ。
だからここは自分達2人でむやみに首を突っ込む事はしない。
然るべき機関に対処して貰うのが1番良いので、警察に電話をしておこうとスマートフォンを取り出す。
こう言うのは個人で判断出来る事態では無い。
だがその時、通常であれば一生に一度のレベルであるか無いかと言う事が起こった。
バサバサと羽ばたいて飛んで来た1羽のカラスが突然闇の中から現れたかと思うと、賢吾のスマートフォンをその手から奪い去って行ったのだ!!
「なっ!?」
「え、嘘っ!?」
賢吾も美智子もまさかの事態に一瞬唖然としたが、すぐに我に返ってスマートフォンを奪い去って行ったそのカラスを追いかけ始める。
カラスは闇に紛れる様な黒いボディを持っているので、この夜の時間帯だと目ではなかなか確認し難い。
ましてや廃墟となった工場周辺には街灯の数も少ないので、更に追跡の難しさをアップさせていた。
それでもスマートフォンが無ければ殆ど何も出来ない様な現代人の賢吾にとって、その大事なスマートフォンを持って行かれてしまうのはかなりまずい。
なので勿論カラスを追い掛けて行くが、そのカラスは賢吾と美智子を挑発するかの様に低空飛行で時折りスピードを落としたりする。
「あのカラス、私達をおちょくってるんじゃ無いかしら!?」
「どうもそうらしいな。だったら尚更腹が立つ!!」
そのムカつくカラスを追いかけて走る賢吾と美智子。
(今時のカラスは頭が良いと言われているが、ここまで進化したのか?)
賢吾はそう思いつつ、段々と自分達が工場の方に誘い込まれている事に気が付いた。
「ねぇ賢ちゃん、もう諦めようよ!!」
「……ああ、そうだな」
確かにスマートフォンを持って行かれるのは惜しいが、怪しい場所に誘い込まれているのでは無いかと感づいたのは隣でそう叫んでいる美智子もそうだ、と賢吾は理解した。