105.夜の特訓(性的な意味では無い)の誘い
「へっ?」
たった今フォークで差して食べようとしていた天ぷらを外し、フォークが皿にヒットしてカンと高い音を立てる。
「そ、それってどう言う意味ですか?」
「心配するな。別に取って食おうとかそう言う意味では無い。今の話を聞いていて、私達にも出来そうな事を考え付いたんだが聞いて貰えるか?」
「え、あ、はい……」
まさかこの食堂の従業員達にはそんな趣味があるのかと一瞬不安になった賢吾だが、そう言う訳では無いらしいので一安心。
夜の特訓と言うフレーズでいかがわしい内容をイメージしてしまった自分も自分なのだが、美智子はどうなのかとチラリと横目で彼女を見てみる。
(……特に変化無しか)
異世界に来てしまった事で色々と地球との常識の違いに驚かされて来た自分だが、まさかこんなジャンルまで何か自分の考えに変化が生まれたのかと賢吾は悶々とした感情を抱えつつも、コック長の提案とやらを聞く事にする。
「私達も騎士団に関わっている者として、たまに騎士団の連中が食堂でケンカをする事があるんだ。それを止める為に腕っ節の強いのもこの中には何人か居る。どうだ、戦ってみる気は無いか?」
「……まぁ、トレーニングになるならそれはそれで良いんですけど、まさか騎士団の人間以外からこうして手合わせを申し込まれるとは思っていなかったのでちょっとリアクションに困りますね」
隣では賢吾に美智子も同意する。
「私もまさか食堂の人からそう言われるとはね。いや、トレーニングするのは良いんだけど……これから鍛錬場に行くの?」
別にそれならそれで構わないんだけどと美智子は言うが、コック長から返って来たのは予想もしない答えであった。
「いいや、やるのはこの建物の中全てだ」
「はい?」
言っている意味がまるで呑み込めない賢吾と美智子。
「ここでやるの? この建物の中で? この人達と?」
美智子の1つ1つの質問が投げ掛けられる度、コック長の首が縦に振られる。
「え、あ、あの……それってどう言ったやり方なんです?」
「まずその前に色々説明をしよう。私達が働いている王国騎士団の食堂はかなり広いから、その従業員の人数も比例する様に多い。ここに居るのはまだまだほんの一部だ。そしてこの宿舎も広いので、戦う場所としてはかなり良いだろう」
「う、うん……それは良いんだけど、結局だからどう言う意図があって?」
「それはこれから説明する。さっきこの男が、多人数相手の戦いには慣れていないと言っていただろう? だからそのトレーニングをこれからするんだ。それに……確か洞窟の中で戦った事があると言っていたが、こういった建物の中で戦った事はあるか?」
「建物の中……そう言えば無い様な気がするな」
洞窟の中はほぼ建物の中みたいなものだが、この宿舎の中は完全なクローズドの空間なのでまた戦い方が違うのもあるだろうと賢吾は考える。
「ふむ、だったら尚更だ。この先でもし建物の中で戦う様な事があれば良いトレーニングになるだろう。私達も御前達が使う武術には非常に興味があるし、多人数相手の戦いにも慣れる事が出来る。それから奇襲や待ち伏せにもな」
そのコック長のセリフを聞き、美智子が彼の言わんとしている事を予想出来た。
「ねえ、もしかしてなんだけど……食堂の全ての従業員が相手になるの?」
「そのつもりだが?」
「いやいやちょっと待ってよ。それってさっきと話が違わないかしら? だって腕っ節が強い相手とだけ戦うんでしょ?」
美智子の怒り交じりの疑問にコック長はキョトンとした顔になる。
「誰もここに居る者とだけ戦うとは言ってないがな。それに……全ての敵が武術の使い手じゃ無いと言うのも良いトレーニングになるぞ」
「へ?」
ますます訳が分からない。それはどう言う話なのだろうか?
「俺達が納得行く様に説明して下さい」
まさか武術の使い手でも無い従業員まで参加させるとなれば、賢吾としても手は出しづらくなってしまうのが実情だ。
だがそれにはコック長なりの理由があるらしい。
「一般人だからこそ、お前達が考えも付かない様な戦い方で向かって来る事もあるとは思わないか?」
「……普通は逃げると思いますけどね」
「まぁ、それならそれで良しとしよう。しかし……この王国の騎士団の入団試験には、実際に一般人と戦う試験内容があるんだ」
「えっ?」
コック長のこの考えはそれに基づいたものらしい。
「同じ騎士団員と戦い、馬に乗って戦い、そして一般人と戦う。この一般人と戦うのが意外に難しいと騎士団の新人団員から私達は良く聞くんだ。例えば噛み付いて来たり、容赦無しに急所を蹴って来たり、地面の土を投げつけて目潰しをして来たりな。そう言う予想外の戦い方をする相手と戦うのも、悪くない特訓だと思うがな」
「う……わ、分かりました……」
「良し、それじゃ食事をして1時間の休憩後に早速始めるとしよう。従業員達には私から直々に話を通しておくから」
何だか物凄く上手い具合に丸め込まれてしまった気がするのだが、こうしてOKの返事を出してしまった以上はやるしか無いだろう。