逃げる、のは、ニート
「フンガ、フンガ、ハー。フンダ、フンダ、ハー」
暗闇の大聖堂シニーテルで、一人怪しげに呪文を唱える女の後ろ姿。
「オウーラ様」
若い男が、女の名を呼ぶ。
「キャラメル」
後ろ姿のまま、女は名前を呼ぶ。
「このままでは、このシアトロルが私のものにならない。キャラメル!」
「はは!」
「女神だとか言う、キャーオを、亡き者に」
「承りました」
一礼をして、キャラメルが大聖堂シニーテルの扉を開いた。
その頃の女神キャーオは。
「何、このお菓子、めっちゃ美味しーい!」
異世界ライフを満喫していた。
「そりゃそうだ、家のわたわた飴はシアトロル一だからな!」
額に手拭いを巻きつけたおじさんが、大口開けてガハハと笑う。
「しかし、変わった服装だな、お嬢さん」
「そう? パジャマ、って言うのよ」
梨果はわたわた飴を食べ終え、丸太の椅子を立ち上がった。
「さて、硬貨を」
おじさんは、手を差し出した。
「コーカ?」
梨果は昨日使い始めたばかりの頭で、その意味をよく考えた。
「今日が曇りでつくづく良かった」
例の如く、土煙を上げるような速さで、レアルはミンテールの町を駆け抜けていた。
以前と違うのは、レアルが顔を地面に近づけて走っているということ。
自然と、四つ足で走るようになっていた。まるで馬のようだ。
「時々、女神様の涙らしき跡が残っている。これを追いかければ……」
ご苦労様です。
ミンテールの町の住人から、レアルは好奇の眼差しで見られていた。
あの神官、なんかおかしいぞ。
指を差し笑う者もいた。
「アハハハハハハ、あの人可笑しいー! キャハハハハハハ」
流石のレアルにも怒りの感情がわいた。
「誰だ、この神官レアルに無礼を言うのは」
「キャハ、あんた、レアル、馬みたい鹿みたい~!!」
女神キャーオだった。
レアルは一瞬、無表情になる。
そして。
「なぜ、女神様がわたわた飴売りを?!!」
思わず叫んだ。さっきから出ている汗も最高レベルに放出された。
「逃げるな。このコソ泥」
女神の隣には、怖そうなわたわた飴売りのおじさんがいた。
「うふ」
梨果は、愛想笑いをした。
「女神様あああああ……!!」
レアルが飛び跳ねた。
一気に梨果に向かって来る。
「きゃああ!」
梨果は履いていたサンダルを脱ぎ捨て、裸足で逃げ出した。
「待てえい!!!」
わたわた飴売りのおじさんと、神官レアルが梨果を睨んだ。
そのまま、超高速で走ってくる。
「ぎゃあああああああ!」
梨果は立ち並ぶ市場のテントの裏に隠れた。
どおおん、とおじさんとレアルがぶつかり合い、倒れる。
二人は絡まったまま、梨果を見上げた。
「うは」
梨果は後退った。
鋭い獣のような眼光を光らせる二人に、梨果は思った。
逃げるが勝ち。
かくして、女神バーサス獣化した二人による、市場逃走劇が始まった。……迷惑だなあ。
市場のテントというテントがなぎ倒される。
そこは、梨果が二人の攻撃をかわし、物陰に隠れた所だった。
底抜けした樽、肉を焼く巨大な炎、サーカスの獣などを盾に、梨果は逃げ回った。
「いたか!?」
「いない!!」
おじさんとレアルは、奇妙な連帯感を見せていた。
そんな二人に追いかけられて、梨果は震えた。
「どうしようどうしようどうしようどうしよう……」
梨果は、腕をつかまれた。
そのまま、何かの向こうへ、連れて行かれた。
「いない!!」
神官レアルは蒼白になった。
ゴトゴト、幌馬車は揺れた。
「あの……、ありがとうございます」
梨果だった。何だか妙にしおらしい。
「いいんだ。気にしないで」
栗色の髪の毛、すらりと長い手足、真っ白い肌、薔薇のように染まった頬、青い瞳。
隣に座るのは、なるほど、梨果がしおらしくなっても仕方ないほどの、美形青年だった。
「さ、逃げてください」
騒ぎのおさまった所まできて、美形青年は梨果を抱え上げ地面に降ろした。
「あの……」
梨果は口をもごもごとさせる。
「さ、早く逃げて」
青い目で優しく諭され、梨果は頷いた。
そのまま、人が沢山出入りしている建物に、入った。
梨果は悔しかった。
せっかくの美青年に助けてもらったのに、お近づきになれるようなことを何も言えなかった。
でも、それは仕方ない。
きっとニートの性なのだ。
自分は一人寂しく、生きて行くに違いない。
トボトボと、梨果は歩いた。
気付けば慌ただしい所にいた。
「足りないぞ!」
「どうする!」
何だか荒荒しい男達だ。
少し離れた所に、梨果は座り込む。
もう疲れてしまった。
梨果は得意の昼寝をしようとする。
夢の中へ……。
ガクンガクンと、肩を揺らされた。
瞼を開けると、いかつい顔立ちの男。
「お前、歌ってみろ」
よくわからない。
「いいから歌え!」
命令され、梨果は恐怖のどん底に落ちる。
歌う? ナゼニ?
いかつい男の後ろには、数人の目つきの悪い人々。
もう、身ぐるみはがされるのかもしれない。
レアル……は、いない。
梨果はレアルを思い出した。まるで天使のように思えた。
「歌え!!」
「は、はいっ!!!」
緑のー山からー流れる川ー 白ーい氷ーの美ーしさ
思い浮かんだ曲、小学校校歌を精一杯、歌った。
周りが騒めいて、ますます鋭い目に囲まれた。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
梨果は怖そうな女に、パジャマをはぎ取られ、別の服を着せられた。大巫女の服よりも豪勢に見える。まるでドレスのような服だった。
そして再び男達に囲まれ、連行される。
先程のいかつい顔の男が、梨果に囁く。
「いいか、とにかく歌え。大きな声で、笑顔で歌わないと……殺す」
ヒイイイイッ
梨果は、人生の瀬戸際に立たされたことを思い知る。
連行される途中、鏡があった。
「さあ、笑え」
梨果は笑った。ひきつった自分の笑顔。
「もっと笑わないと殺すぞ!」
にやり、笑った。涙は必死に我慢した。
「もういい、さあ行くんだ」
梨果は何か、木の台の上に立たされた。
木の台は男達の手によって、少しずつ上へ上がって行く。
もう駄目だ。死ぬんだ。
木の台は天井を突き抜け、空っぽの空間に梨果を連れて行く。
次に梨果が見たのは別世界だった。