ふわり、と思ったら、くらり
祝福の歓喜に沸く、大神殿イキテールの麓、ミンテールの町の住人は、崖の上の大神殿イキテールにかかる聖なる布が、いつもより大きく羽ばたくのを見た。
「女神様が来たから、布も喜んでいるなあ」
住人達は、呑気だった。
「うわはあああああああ!」
梨果とレアルは、布に捕まって宙に浮かんでいた。
「落ちるううううう!」
叫んだのはレアルだった。
このまま落ちたら、田舎の母にもう会えない。
いつか出世して大神官になったら、迎えに行くと約束したのに……。
約束は反故にされ、母は一生一人寂しく村八分なまま……。
神官とは名ばかりで惨めなものだ。親不孝者の息子がいると後ろ指を指され、ガチガチの、田舎臭い、時代遅れの、古い慣習に縛られた村で母は泣いている……。
おまけに女神様を死なせてしまったら、大神官どころか、罪人だ、罪人。
母は……、母は……、そんなこと、あってたまるかああああああ!
レアルは奮起した。
「女神さまああああ!」
女神を、助けなければ。
梨果は再び、軽く夢の中にいた。
ああ、そよ風。気持ちいいなあ。
窓の風が、きっと入ってきているに違いない。
「女神様!」
上から長く垂れ下がる布につかまって、宙に浮かびながら、レアルは女神を見つけた。
布にからまって、その体はまだ宙にある。
丈夫な神聖なる布の上を、レアルは渾身の力を振り絞って移動した。
女神の下へ。
梨果は温かい腕に抱き抱えられ、目を覚ました。
少年が、汗だくの片腕で梨果を抱き、もう片方の手で布をつかんでいる。
必死になって、ロープのようになりつつある布を揺らす少年を見て、梨果は思った。
ああ、ターザンか。
ターザン呼ばわりされた、神官レアルは、見事、ロープのようになった布を、ブランコに変え、大神殿に着地した。
ヒヤッツ。
冷たく感じたのは、風のせいではなかった。
腕に抱いていた女神がいない。
女神はどこだ!!!!
振り返ると、布に巻かれたままの、女神が、ひっくり返った体勢で、宙に浮かんでいた。
「うああああああ!」
レアルは絶望の淵に立たされた。
梨果はなにか叫び声を聞いた気がした。
ターザンが、梨果の体から、床のある方へ飛び移って行ったが、梨果としては、一緒に助かってしまうのは困るのだ。
そろそろお腹もすいて、へとへとになりそうだから、目覚めよう。
料理好きの父のご飯を食べたい。
多分、部屋の前に何か置いてあるんだと思うんだけれど……。
体に絡まった布を、少しずつ外していく。
さあ、飛ぶんだ。
そして現実世界へ。
レアルは降格覚悟で、部屋に下級神官らを入れた。
「女神様がああ!」
「この世の終わりだあああ!」
大神殿イキテールは阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
そこに、初老の女が悟り顔で現れる。
「ヒビーコ様!!!」
レアルや他の神官達は、初老の女を見た。
「見ていなさい。これが、女神キャーオ様のお力です」
梨果は自分に絡みついた布を、やっとのことで取り外した。
絶叫マシンより早く体が墜落する。
あれ? なんかこれ、やばくない?
「いやあああああああああああああああああああ!」
梨果は絶叫した。
勿論、助けなどあるはずがない。
「きゃあああああああああああああああああああ!」
悲鳴だけが響いた。
神官達は泣き伏した。
「見なさい」と言ったのは初老の女ヒビーコ。
神官達は崖を覗き込んだ。
藍色の光が見えた。
「お」
梨果は呟いた。
目の前の光景に驚くこともなく、やっぱりね、ほら、と落ち着きを取り戻した。
体が宙に浮いている。おまけに、少し、藍色に光っている。
梨果は町にある市場の、テントの上に、ふわり、着地した。
そして、次は隣のテント。
そのまた隣のテントへ、と、次々とふわふわ、体は宙へ舞い上がる。
「あれは何だ? いや、誰だ?」
市場の住人は、何事かが起きて、いつもと違う高揚感で気持ちが一杯になるのを感じた。
「空から落ちて来たよ! きっと、女神キャーオ様だ!」
子供が指でぴょんぴょん飛ぶ女を指しながら言った。
「キャーオ様だ!」
「キャーオ様! キャーオ様! キャーオ様!」
民衆は女神の名前を叫び続けた。
「あれ?」
梨果は市場の中央にある、聖なる女神像の上に、座る体勢で着地した。
民衆は改めて歓喜に浸った。
「キャーオ様! キャーオ様! キャーオ様!」
おかしいな。夢から覚めない。
でも体から発していた、藍色の光は治まった。
周りでは「キャーキャー」言っている。
人前にいるのは苦手なのがニートの性。
けれど、不思議と、いい気持ちになった。
こんなことは、梨果にとって、初めてだった。
胸を張る。
きっと、皆、空を飛んだ私を「奇跡の人」とか思っちゃっているんだろう。夢の中だもの。そんな調子のいいことも起こるもんだ。
事実、その通りなのだった。
「女神様……」
上から女神を見下ろしたレアルは、感動の涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。
「これから始まる、さらに大きな魔法が」
初老の女ヒビーコが意味ありげなことを語るのだった。
大神殿イキテールから、遠く遠く離れた、山の上。
ここは、大聖堂シニーテル。
髪の長い、マントを羽織った、後ろ姿が舞台の上で、炎に燃える薪に向かって何かを喋っている。
「フンガ、フンガ、ハー。フンダ、フンダ、ハー」
その後ろ姿は、細見の女だった。
「オウーラ様」
家来のような小男が最敬礼をとって、舞台の下にいた。
「キャラメルから連絡が。オウーラ様、女神キャーオが現れたのは、本当だったようです」
「ふうむ」
女は口の端を上げた。
「とりあえず、様子を見ましょう」
「オウーラ様。この世界、シアトロルは……」
小男が言葉を切った。
「私の物だ、勿論。ふふふふっふふ!!!」
大聖堂シニーテルに女の声が響き渡る。
とりあえず、ニート梨果には、これ以上ないくらい、面倒臭いことが始まりそうだった。