9 触れて深く落ちる
マナと別れたゲオルグは、天橋を渡り、隠れ里テラに戻った。
マナが知らせていたのか。天橋の端にてネオンがゲオルグの帰りを待ち構えていた。
ネオンはすっかり怪我から回復しており、もはや包帯姿ではなかった。
「長老様から仰せつかっております。お迎えにあがりました」
相変わらず人の良さそうなそばかす顔ではあるが、ネオンの表情は曇っていた。
ゲオルグは黙ってネオンの案内に従った。
朝日が昇りきる前の霧の中を、ゲオルグは歩いた。
ゲオルグは、長老の家の離れに案内された。
ネオンは下がった。
離れの一室にて、長老とゲオルグは向かい合った。
長老は、ゲオルグの労をねぎらった後に、マナについて尋ねた。
「マナとの婚約は双方の合意の元、解消された」
ゲオルグの答えを聞くと、さようでしたか、と長老は短く言った。
さて、と長老は立ち上がった。
「ゲオルグ殿、ファイに会ってもらえませぬか」
驚きのあまり、ゲオルグの胸がドンっと鳴った。
唐突すぎて、ゲオルグが何一つ備えることのできない内に、長老は襖へと手をかけた。
音もなく襖が開いた。
ふわりと花の香が広がった。
隣の部屋には、色とりどり、たくさんの花々が敷きつめられていた。
「これは」
ゲオルグは絶句した。
花々に囲まれた部屋の真ん中に、ファイが真っ青な顔で横たわっていた。
ゲオルグは己の口を手でふさいだ。
背筋に冷たい汗が伝った。
長老が言った。
「生きております」
ゲオルグは、少々たってから、長老の言った意味を理解した。
「生きて、いる」
「はい。しかし、どうにも。よくないのです」
長老は話し始めた。
ギュウダの塔から帰ってきたファイは、ネオンの腕の中で深く眠っていた。
実は、それから今まで一度も目を覚ましてはいない。
「目を覚ましていないだと?」
「はい。呼吸もあるのだかないのだか、分からないほどわずかな調子なのです。…ファイは、以前にも一度、このように死にかけたことがございまして」
それは、五年ほど前のこと。
ファイは突然にこんこんと眠りこんでしまった。
まったく原因不明の状態であった。
誰も何も手出しができず、今回と同じように長老の家の離れに、ファイの身はおかれた。
ある時、ファイの枕元に飾った花が常よりも早送りで枯れることに長老は気がついた。
もしかしたら、ヨーマのファイは、花の気を好むのかもしれないと、たくさんの花々でファイを囲んだ。
それが功を奏したか定かではない。
しかし、それからファイは、いくつもの夜を越えて、何とか目を覚ましたのであった。
「そこで、今も、同じように花々でファイを取り囲み、見守っておるのです」
「ファイが眠ってしまったのは、ヨーマの秘術のせいかもしれない」
「何ですと」
ゲオルグは、マナから聞いた話と自分が遭遇した内容を織り交ぜて、ヨーマの秘術について長老に説明をした。
「なんと。マナ様の記憶、しかもゲオルグ殿についての記憶とは! ファイが五年前に死にかけたのは、マナ様の記憶を預かる術を展開したため。そして、此度は…なるほど、合点がいきました」
長老は白く長いひげをしごきながら頷いた。
ゲオルグは、眠るファイを見ながら言った。
「ファイは、ヨーマが生きるために必要とする気の摂取が、死ぬほど下手だ」
「はい。どうも抜けたところがありまして」
「ヨーマの秘術は、おそらく最大級に気を消費するのだろう」
「そうに違いありません。いや、ファイのことです。秘術でも何でも、後先、考えなしにやったのでしょう」
「俺は、ヨーマが生命力として摂取する気を、体内から送ることができる」
「はい。存じております」
「今の状態のファイにとって、命を助けることにつながるかは分からない」
「そうであっても試みていただきたいと望み、ネオンを遣いにやりました」
「死なせたくない」
「ゲオルグ殿には塔からお戻りいただき、まことのところ、本当にありがたく」
身勝手ながら、と恥じいるように長老は付け加えた。
ゲオルグはかぶりを振って、すべては俺自身の意思で動いている中でのこと、と話した。
長老はゲオルグにファイを委ねた。
長老は、人払いをして、立ち去った。
ゲオルグは、花々の中で眠るファイに歩み寄った。
枕元に座して、ゲオルグはファイを見た。
紫苑色の長い髪は艶を失い、乾いていた。
頬はこけて、影があった。
呼気は弱かった。
水色の着物に覆われた体は、やせ細っていた。
ゲオルグは寒気を感じた。
恐怖。
ゲオルグの頭は混乱した。
やつれたファイを美しいと思った。
このまま死して、美しい宝玉になってしまうと恐れた。
そうなったら、混乱ゆえにそれを握りつぶしてしまいそうで、また恐れた。
ゲオルグは正気を取り戻そうと、自らの短い黒髪をなで上げた。
それから次に、血の気を取り戻すように、両の腕をこすった。
己の焼けた肌との対比で、ファイの肌があまりにも白く儚く見えた。
一度、自分の頬を両手でパンと叩いた。
宝玉などいらない。
ゲオルグは、体内で気を練り上げた。
ゲオルグは、ファイの額にそっと手を当てた。
ひやりと手にくる感触があった。
慎重に少しずつ、ファイの中に己の気を送り始めた。
気がゆっくりと、ゲオルグの腕を伝い、ファイに流れていった。
ゲオルグの中に、突如として血潮がたぎる感触が起こった。
ファイに触れたせいなのか。
ゲオルグは、燃えるような衝動に突き動かされた。
ゲオルグの視線は、色を失っているファイの唇に吸い寄せられた。
ファイの額に当てた手を、後頭部に滑らせた。
そしてゲオルグは、ファイに口づけた。
ファイの冷えた唇に触れた。
ゲオルグの後頭部が冷たくて熱い感触に打たれた。
訳も分からず、ガツンときた。
ファイファイファイ
ゲオルグの胸の中に、ファイを呼ぶ声があふれた。
ファイを生かしたいという思いが、いくつも小爆発を起こして弾けた。
制御しなければならない。
気を無理やり押し込んでは、器を壊してしまう。
摂取しやすいように、ゆるく一定のリズムで、与え続けるのだ。
唇から唇へと気を送る。
いくつもの戦火を超えてきたゲオルグの理性が、制御をきかせようと手綱を引く。
しかし、同じくいくつもの戦火を超えてきたゲオルグの野性が、爆発的な放熱を望む。
ゲオルグの身の内に渦巻く熱情によって、気が曇る。
それを類稀なる理性が精錬し、ファイを生かす気と成す。
ファイの唇に気を滴らせ、呼び続ける。
ファイファイファイ
ゲオルグは、小山のような己の体躯を呪う気持ちになる。
ぐにゃりと力の抜けたファイは、容易に壊れてしまいそう。
花にもその役目はさせぬとばかりに、ゲオルグは花々を払いのける。
ファイを腕に囲い込み、唇を重ね続ける。
決して、手綱を放してはならない。
冷たくも甘く脳髄を麻痺させるファイの唇に、陥落してはならない。
柔く、ほの甘い、痺れるようなファイの唇。
どこにあったのか分からない、ゲオルグの焼けるような熱が、与えながら求めている。
やがて、力を失っていたファイの体が温かくなる。
裾を割って、ファイの膝が立ち上がる。
滑らかなファイの脚が、ゲオルグの太ももを撫ぜる。
ゲオルグの腰にぴりぴりと甘い電撃が走る。
ファイの反応すべてが、ゲオルグの呼びかけに対するこたえ。
欲しかった反応を得て、ゲオルグの身の内に歓喜が走る。
もっと拾い上げようと、必死に手を伸ばす。
ファイの頬に赤みが差し、呼気が強くなる。
ゲオルグの唇の動きに、ファイの唇がわずかに付き添う。
次第に増すファイの反応を受け、ゲオルグの頭は真っ白になっていく。
ファイを求めている。
明確に明白にファイを望んでいる。
最後の砦、決して崩してはならぬとばかりに、気を送る質と量と間隔について、ゲオルグは死守する。
制御を残すその営みが、ゲオルグの体感を尖らせる。
ぐにゃりと力を失っていたファイの体は、いまやゲオルグの懐で、確固たる輪郭を持ち、くねるのだ。
着物から伸びるファイの素肌が、しっとりとゲオルグに触れてくる。
ファイファイファイ
ゲオルグの頭の中が、ファイを呼ぶ声で埋め尽くされる。
ファイのまぶたが揺れる。
ハッとして、ゲオルグは唇を離し、ファイを見つめる。
ファイのまぶたがゆっくりと持ち上がる。
紫苑色の瞳が現れて、ゲオルグを認める。
「ゲオルグ…」
呼気に混ざるファイのささやき。
目が合って、名を呼ばれ、ゲオルグの鼓動は未体験の激しさで、どどどと鳴る。
「会いたかった、ファイ」
「ん」
「会いたかったのだ」
言葉にしてみると、思いは妙にくっきりとした輪郭をもった。
それはゲオルグにとって、想像以上に大きく深い気持ちなのであった。
ファイがゆっくりとまばたきをするので、また眠りに落ちてしまうのではないかと、ゲオルグに焦りが湧いた。
ゲオルグは、焦燥にかられるままに、再びファイに口づけをする。
気を慎重に注ぎこみながら、その唇は、幾分、奪うような激しさも孕み。
ファイの腰に回したゲオルグの腕に、ファイの手が触れてくる。
膝をつくゲオルグの曲げた脚。それを、ファイの脚が添わせるように撫で上げる。
ファイのそれは無意識の所作なのか。
ゲオルグには、求めに対する返答と思えてならず。
「ファイ」
低く呼ぶと、ファイは潤んだ目で見返してきた。
ファイの頬に張り付く紫苑色の髪の毛を、ゲオルグは大きな手で器用に取り払った。
「ファイ」
渦巻く気持ちに整理などつかず、ゲオルグは、ファイを呼ぶ以外に言葉が出てこなかった。
ファイにも自分の名を呼ばれたかった。
ファイの唇が薄く開いて、また閉じた。
何かを言おうとしたのだと感じた。
夢うつつ、まだ声を出すのもつらいのだろうと、ファイの状態を察した。しかし、ゲオルグは何も聞き落としたくはなく、ファイの口元に耳を寄せた。
ゲオルグの耳にファイの吐息が触れて、ゲオルグは震えた。
ファイは言った。
「きもちいい…」
耳から吹き込まれたその言葉に、ゲオルグの軸がぐらりと揺れた。
心臓が恐ろしいほど跳ねた。
ゲオルグは慌てて顔を離し、ファイの真意を知りたくて、ファイの顔を見た。
ファイは、ゆっくりとまばたきをしていた。
うっとりとまどろむ顔だ。
ゲオルグの口内は、からからに乾いてしまった。
ゲオルグは絞り出すように尋ねた。
「何だ? どうした? 何が言いたい?」
妙におどおどした自分の声に、舌打ちをしたくなる。
しかし、ゲオルグは、ファイを少しも脅かしたくはなかった。
ファイが、まるで甘えるように、頭をゲオルグの胸に擦り付けた。
「も、苦しくない」
ファイが、ほうっと吐息をもらした。
ゲオルグの胸が鋭く痛んだ。
そうか。
苦しかったか。
そうだったのか。
もう、苦しくはないのか。
よかった。
本当によかった。
「きもちいーよ…、ゲオルグ」
「そうか」
ゲオルグの胸の痛みが、甘苦くなった。
安堵と切なさと歓喜、訳のわからない混合物が、胸を締め上げた。
それほどに苦しみ、死にかける秘術など、使わなければよい。
いや、使ってはならないだろう。
二度と使わせるものか。
ゲオルグは、ファイの唇に己の唇を寄せて尋ねた。
「もう少し、いるか」
互いの唇が、触れるか触れないかの距離にある。
吐息を感じあう近さで、ファイの唇が動いた。
「分かんない」
「何だそれは。自分のことだろう」
「できないから…自分で」
「食べ方がまだ、分からないのか」
「うん」
互いの唇がすれ違う時に触れるかすかな感触を、ゲオルグは鋭敏に拾っていた。
自分の唇が、これほど敏感であるとは、ゲオルグは知らなかった。
他愛ない会話の甘さを味わいながら、高ぶる体を持て余した。
「ファイ、もう少し、食えるか」
「分かんない」
「気持ちよいのだろう?」
「うん」
「それならば」
「でも、いつも、ちょっぴり、きつい」
ゲオルグは、ハッとして、ファイを見た。
ファイは、穏やかな顔をしていた。
ゲオルグはまた胸を痛めた。
「そうか。すまない」
「うん」
ファイの紫苑色の瞳が、ゲオルグの目を覗き込んだ。
なぜ、こんなに見つめてくるのか。
ゲオルグは戸惑った。
その眼差しだけで、ゲオルグの体はどんどん熱を持っていくのだ。
「ファイ、どうした?」
「うん」
「何かして欲しいことはあるか?」
「ん」
ファイは何も答えない。
ただ、潤んだ瞳を向けてくる。
ゲオルグの心臓が早鐘を打つ。
ファイと触れている体が燃え立つ。
会話して、少し冷めたはずの意識が混濁する。
ファイファイファイ
ゲオルグの中は、ファイを呼ぶ声であふれ返る。
揺れる。
ぐらりと地が揺れる。
否。
揺れたのはファイの瞳か。
ゲオルグの体か。
ゲオルグは、ただ一度、ファイに口づけをした。
気を送ることなく、ただ。
しっとりとした、泣きたくなるような柔らかさが応じる感触。
ゲオルグは恐れるようにファイから体を離し、立ち上がった。
「ゆっくり休め」
それ以上、ファイを見ることなく、ゲオルグは背を向けた。
ファイの視線を感じながら、ゲオルグは襖を開け閉めして素早く立ち去った。
ファイはしばらく、ゲオルグの消えた襖に視線を投げていた。
やがてファイは、ゆるゆると目を閉じた。
それからファイは、散り散りに乱れた花々の中で、穏やかな呼吸で眠ったのであった。