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8 マナとゲオルグ

 ギュウダの塔における居住空間は、下界と変わらぬ平凡な雰囲気なのであった。

 自分が明かされるような神秘的空間に辟易していたゲオルグは、与えられた居室で大きなため息をついた。




 再会の夜、ゲオルグとマナは、差し向かいで杯を傾けながら、さまざまな話に花を咲かせた。

 ガイアの里やレアの里の話は懐かしく、尽きることがなかった。


「ああ、楽しい。わたくし、こんなに心楽しいのは、本当に久しぶりです」


 マナが幼い笑顔を向けた。

 ゲオルグは、しみじみとうれしい心地がした。




 その日から、ゲオルグは、マナの務めがない時に、マナの話し相手をするようになった。

 また、夜は初日同様に、小部屋で食卓を共にした。



 塔で出会うのは、マナと左右の老婆だけであった。

 他の預言者はどこかと問うと、教えられないと言われるばかり。

 別の階層に行くことも禁じられた。



 これまでどのように生きてきたか、互いに話し合う夜が続いた。

 ゲオルグの旅の話に、マナは目を輝かせた。

 マナの厳しく孤独な修行の日々の話を聞き、ゲオルグはマナの苦労をねぎらった。

 互いに気の置けない相手であると認識できる、心地よい対話が続くのであった。







 すべてを知ってほしいから、とある時、マナが言った。

 マナの務めの一部を見ることが、ゲオルグに許された。




 東の国の使者が、天災についての託宣を求めて、天橋を渡って来た。

 マナは、北の国との境にある里に、竜巻の兆しがあると伝えた。

 すぐに備えますと言って、東の国の使者は、たくさんの金子を置いて帰って行った。




 ゲオルグは尋ねた。


「北と東の境なのだろう。北の国の里の者にも、竜巻の兆しがあると伝えた方がよいのではないか」


 マナは実務者の眼差しで答えた。


「いいえ。そのようにし始めると、きりがないのです。また、天災への備えに対する国の姿勢がなければ、里に余計な混乱を呼び、無駄な犠牲が多く出るのみ。託宣を正しく扱う力のないところには、逆に毒となりますゆえ」


 冷徹に響く声色に、ゲオルグはやや眉をひそめた。


「バカは死ねと?」

「いいえ。国民に責を負うは、国の政の問題かと。北の国は、中央と地方との分断が大きく、国境の里に重きを置いていません。北の国においては、里は里としての知恵で生き抜いていく以外にないのです。こちらが赤子をあやすように、すべての国のすべての里に世話を焼いてやることなど、できはしないのですから」

「災禍があると知りつつ、手を出さないというのか」

「下手を打てば、天災のはずが戦災となる。ヒトの世に安易に手を出すことは、慎むべきこと。大変困難なことなのです」


 ゲオルグは尋ねた。


「竜巻の兆しについて、確度としては如何程のものとマナは読んでいるのか?」

「ほぼ確実かと」


 マナは、冷たい仮面のような表情で言った。

 ゲオルグは、問わずにおられなかった。


「北の国の里を見捨てるのか」

「そのようにお感じになるとしたら、とても残念です」


 マナはゲオルグに背を向けた。

 ゲオルグは追った。


「その里がガイアであっても、レアであっても、同じく見捨てるのか」


 マナは背中で笑ったようであった。

 癇に障ったゲオルグは、厳しい声で言った。


「何もしないのか。助けられる命に対して、災いの兆しを知り、影響力も金もあるギュウダの塔は、ほんのひと滴の情けもかけぬのか」

「なんと了見の狭い!」


 マナは背中で答えた。

 険しい声だった。

 わずかに顎を横向け、マナは言い放った。


「あなた様には、失望いたしました」


 マナは強い足取りで立ち去った。

 ゲオルグは腕組みをして、ひと唸りした。












 その夜、小部屋には張り詰めた空気があった。

 マナが固い顔をしていた。

 向かい合っても視線を上げず、マナは匙を見下ろしていた。


 ゲオルグは言った。


「マナ」

「はい」


 がちがちに固いマナの様子を見ながら、ゲオルグは腕組みをした。



「我慢はしなくてよい」

「はい?」



 マナが視線をやや上向けた。

 探るような色があった。


 ゲオルグは、労わりを込めて言った。



「泣いてよいと言っているのだ」



 マナは目を見張った。

 ゲオルグは、さあ飲めと杯を勧めた。

 マナは、震える手で杯を持って口をつけた。


 こく、こく、とマナの喉が鳴った。

 ゲオルグも杯を傾けながら言った。



「昼はすまない。マナが背負うものに気が回らず、無神経かつ無作法なことを言った。無知ゆえ、許してほしい」



 マナは杯を卓に置き、拳を口に当てて俯いた。

 ゲオルグは猛省した。



「本当にすまなかった。もっと、普通に泣いてよい」



 マナは両手で顔を覆った。

 そして、とうとう大きな声で、わんわんと泣き始めたのだった。


 しばらくそうしてマナが泣くのを、ゲオルグは見ていた。




 嗚咽が鎮まってくると、マナはつぶやいた。


「ゲオルグ様…もっとお側に」


 ゲオルグは立ち上がり、マナの隣に座した。

 マナがゲオルグの胸に飛び込んできた。

 マナは、再びわんわんと泣いた。


 ゲオルグはマナに胸を貸し、時折、その細い背を大きな手でとんとんとした。

 ゲオルグはマナを、気の毒にも健気にも思った。


「泣いてはならぬと、思っていたのです」

「そうか」

「泣いてはならぬと」

「さぞ、つらかったであろう」

「はい」

「マナは、この高い塔にあっても、矛盾と理不尽に満ちたヒトの世にいるのだな」

「はい…」

「傷つけた」

「はい。ひどいです。あんまりです。ゲオルグ様…」


 マナの涙はその夜、ゲオルグの胸を大いに濡らした。









 マナは神々との交信のため、ゲオルグの立ち入ることのできない祭壇で行をしていることが多かった。

 ゲオルグは次第に暇を持て余すようになった。


 腕がなまる。


「マナ様がお呼びです」


 マナの行がひと区切りついて、老婆から声がかかる。

 マナの務めの合間にマナと話すことが、今のゲオルグのすべてであった。


 物足りない。


 そう思うのは、贅沢なのか。











 ある夜、マナが尋ねた。


「ゲオルグ様。ずっとわたくしのお側にいてくれませんか」


 ゲオルグは問い返した。


「なぜ」


 マナは戸惑うように言った。


「ゲオルグ様がいてくださると、とても心が休まります。ゲオルグ様は何もしなくていいのです。ただ、いてくださるだけで、わたくし」


 ゲオルグは問いかけた。


「塔を出て、一緒にガイアの里に帰る気はあるか?」


 マナは即答した。


「いいえ。わたくしのすべてはここにあります」


 ゲオルグは頷いた。


「そうか。俺は、この塔に居続けることはできない」

「そんな」

「マナには、もはや捨てられないものがあるということだろう」

「はい」

「どれほどつらくとも、マナは覚悟をもってここにいると決めたのだな」

「はい」

「俺とともに、マナが塔を出ることはない」

「…はい」

「俺は世界を歩きたい。ゆずれない我がままだ」

「…はい」


 マナは泣いた。

 ゲオルグの胸を再び濡らした。

 幼い泣き顔に、ゲオルグはかつてのマナの面影を見た。

 ゲオルグはマナを抱きしめた。

 温かかった。












 最後の夜、マナが言った。


「わたくしがもし、ゲオルグ様の記憶を手離さなかったらどうなっていたのでしょう」

「さあな」

「わたくしたちが寄り添い歩ける未来も、あったのでしょうか」

「どうだろう」


 ゲオルグの胸に、紫苑色の影がよぎった。


 マナは目尻の涙を拭った。


「わたくし、生きていなかったかもしれませんね。いえ。すべてが愚問。きっと、今この時がすべて」

「泣き虫だな」

「もう、いじわるばかり。…ふふ。わたくし、鉄面皮と影では言われているんです」

「どこが」

「ふふ。いつか、わたくしの仮面をひっぺがすいい男に出会います。どこにも行かず、わたくしの横にいてくださるお方です」

「予言か」

「はい」


 ゲオルグとマナは微笑みあった。

 少しの間の後、陰りを帯びた顔で、マナは続けた。


「ここを訪れるのは、託宣を求める使者ばかり。あの部屋で、ヒトの強欲にさらされて、ヒトを遠ざける気持ちになってしまいました」

「あの部屋は、知らなくてよいことまで、赤裸々にさらす。好きにはなれない場所だ」

「わたくしも嫌いでした。ゲオルグ様が来るまでは」


 マナはひと口、酒を含んだ。



「あの嫌いだった部屋で、わたくしは、偽りのないゲオルグ様のお心に触れました。幼き頃の婚約という頼りない糸を辿り、長く、わたくしを追って来てくださった。預言者ではない、単なるヒトであるわたくしを目指して、まっすぐに」



 マナの黒々と濡れた目が、ゲオルグをみつめた。



「そのような真心が存在することを、ゲオルグ様が思い出させてくれました」



 マナの声が震えた。



「初めての恋のお相手が、ゲオルグ様でよかった」



 ゲオルグは小さく顎を引いた。

 同意とも礼ともつかないその仕草を見て、マナはもうひと雫、涙をこぼした。












 やがて、晴れやかな顔でマナは言った。



「お別れです。ゲオルグ様」



 ゲオルグは静かに頷いた。

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