7 ヨーマの秘術
マナが、ゲオルグを知らないと言う。
それを聞いて、最初にゲオルグの頭に閃いたのは、ギュウダの塔の何者かによる仕業、という考えだった。
マナを勝手に召し抱え、マナの記憶を勝手に引き抜いたか!
ゲオルグの目つきは、途端に鋭さを増した。
他に相手もいないため、ゲオルグは左右の老婆を睨みつけて問いかけた。
「あんたらの仕業か? 塔の奴らがマナにしたことか? マナの記憶はどうした」
「下衆の勘繰り」
「塔は、マナ様を大切にお引き受けした」
左右の老婆は、心外とばかりに呆れた口調で答えた。
言い返そうとしたゲオルグに、高座から声がかかった。
「ゲオルグ様。ヒトの記憶をどうこうする技など、人智を超えた神の領域。神との交信者に過ぎない塔のわたくしたちには、到底、力及ばない領域の技です。誰も何もしておりません。どうかご理解ください」
マナの落ち着いた声音に、ゲオルグは従うしかなかった。
しかし、マナにも記憶の食い違いについての説明がつくわけではない様子で、困惑を顔に浮かべていた。
その時、ファイが急にゲオルグの肩から降りた。
ファイは、するりと軽やかにゲオルグに背を向けて立った。
目の前に紫苑色の髪の毛が揺れて、ゲオルグは数回まばたきをした。
ファイの紫苑色の瞳が光る。
唇から息が深く吐き出される。
突然のことに驚きながら、ゲオルグはファイの前に回り込んで尋ねた。
「どうした、ファイ」
ファイはゲオルグの問いには答えずに、マナを見ていた。
ファイの目に感情はなかった。まるで人形のように無機質な目なのであった。
マナはかすかな不安を覆い隠すように、硬い顔をしていた。
次に、ファイは唇を薄く開き、息を長く吸った。
いちど息を止めた。
それから吐かれた息には、歌が乗っていた。不思議な旋律であった。
ゲオルグは思考した。
「呪文」
かつて魔獣討伐の際に、一時的に連帯した魔術師の呪文詠唱によく似ていた。
ふいに、ファイの瞳が意思を取り戻した。
ハッとしたような顔でゲオルグを見た。
ファイは一瞬苦い顔をした。直後、ファイの表情は無に戻り、マナに視線が向き直った。
「鍵が開く。ヨーマの秘術が展開する。マナ」
突然始まったファイの言葉は、驚くほど理知的で穏やかで神聖な威厳を備えていた。
一段高いところに座るマナが、思わず姿勢を正した。
ファイは言った。
「私はかつてあなたの願いを聞いた」
ファイは、ついっと白魚のような手を差し伸べた。
「鍵となりしマナとゲオルグの対面を、しかとこの目で確認した。秘術展開。あなたの願いをあなたに返そう」
ファイの人差し指の先に、紫苑色の火が点った。
それは瞬く間に燃え盛る炎となり、天に伸びた。
炎は天井で渦を巻き、龍の形になった。
紫苑色の炎でできた龍は、螺旋を描きマナを見た。
マナの周囲に張り巡らされた魔法陣が光を放った。
守護魔術が発動したのだ。
マナを守ろうと、光の防御壁が次々現れた。
紫苑色の龍炎は、立ちはだかる光の防御壁をいともたやすく蹴散らした。
龍炎は加速してマナの胸に飛び込んだ。
マナは、小さな悲鳴をあげて、胸を押さえ座り込んだ。
二人の老婆が悲鳴を上げた。
「確かに返した」
ファイはそう言って、手を下ろした。
ゲオルグは眉を寄せ、ファイを見下ろした。
「ファイ、何をした」
「五年前、マナから預かりものをした。それを返した」
言うが早いか、ファイの膝が崩れた。
ゲオルグは素早くファイを抱きとめた。
ゲオルグは焦り、声を荒げた。
「ファイ! おい! ファイ!」
ファイはゲオルグの腕の中で、ゆるく瞬きをして言った。
「疲れただけ」
「気をやろう、食えるか⁉︎」
「無理。眠い」
「いいから!」
「やだ」
ゲオルグは妙に慌てふためき気を送ろうとし、ファイは腕を突っ張って拒否をした。
二人がやいのやいのとする中、高座のマナがゆるゆると立ち上がった。
マナは萌黄色の着物の胸元を押さえたまま、まばたきを数回繰り返した。
マナの目に、ゲオルグとファイが映った。
マナは口を開いた。
「ゲオルグ…来てくれたのね」
ゲオルグは思いのこもった声を耳にして、ハッとマナを見上げた。
高座のマナは涙を浮かべて、ゲオルグを見ていた。
「私の記憶。私の思い」
ゲオルグは目を見張った。
マナは涙を人差し指でぬぐった。
「懐かしいあなたの瞳」
ファイと同じことを言うマナに、ゲオルグは困惑をおぼえた。
しかし、マナが言うならば、その意味はすぐにつながるのだ。
「ゲオルグ。私の恋しいヒト」
半ば寝落ちているファイを腕に抱きながら、ゲオルグはマナと目を見交わした。
今やっと再会できたのだ。
過去と今がつながった感触を、視線の行き来に実感した。
これは一体、何が起きているのだ。
ゲオルグは、整理しきれないすべての事象に混乱をおぼえた。
するとマナは、ゲオルグの惑いに答えるように、話し始めたのである。
さかのぼること五年前、マナがギュウダの塔に登る前夜の話。
テラの里で、天橋が架かる時を待つマナは、いてもたってもいられない人恋しさで泣いていた。
ゲオルグの名を、何度も心で呼んだ。
天命なのだから、務めのためなのだから。
恋しいゲオルグ。
その名をもう口にしてはならない。
心が勝手にゲオルグを呼ぶ。
いけない。その名を呼んではならない。
思えば思うほど、マナは泣けて泣けて止まらないのであった。
その心の嘆きが、ファイに届いた。
「苦しそうだね。預かろうか」
日がなゴロゴロしてばかりの、テラの里のヨーマの申し出だった。
長老の家の客間にて泣き伏していたマナは、突然のファイの訪れに驚いた。
客間の入り口にひょっこり顔を見せたファイは、きらめく紫苑色の瞳をマナに向けた。
ファイの浮世離れした存在感に、マナはすがりつく思いを抱いた。
あたかも道祖神、神棚、お守り…心の窮地にあって、祈りを捧げる対象を、マナは見つけたのだ。
マナはファイの申し出に飛びついた。
ゲオルグとの未来を失った苦しみから救われたかった。
「務めを果たすために、この心はあってはならないものなのです」
マナはゲオルグを思う心を捨てたいと願った。
捨てなくてよい。預かるから。
ファイの淡々とした言い口を聞いて、マナの両眼からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
ああこれで救われるとマナは思った。
「しかし、なぜ」
「何となく」
実に軽いファイの返事なのであった。
のんびりとしたファイの様子を見て、マナは感じ取った。
ファイは、気の毒なマナを救うといった理由で、行動しているわけではない。
同情ではない。かけ引きでもない。施しでもない。
これは、ヨーマであるファイの気まぐれに過ぎないのだ。
マナは妙にホッとした。肩の力が抜けた。
これは、返礼を必要とする申し出ではない。
高いところからのお恵みでもない。
言うなれば、くじが当たったに近いこと。
マナは出会ったばかりのヨーマを信じた。
それを幸運と信じることにした。
マナは、ファイに苦しみを委ねた。
ファイは、秘術によって、ゲオルグへの未練をマナから吸い上げた。
マナはすっかりゲオルグを忘れた。
ゲオルグを忘れたことで、マナは故郷からの自立として、運命を引き受けることができた。
ギュウダの塔にて、己の力を磨いた。
世界の事象に対して、先読みをして、よりよくヒトびとが生きていけるよう、導きを与え続けた。
いまやマナは、ギュウダの塔においてその名を知られる実力者となった。
そうして、マナは己の道を生きてきたのだ。
「お前は、そんな大事なことを、なぜ今まで俺に言わなかった」
ゲオルグは、責めるような口調になることを止められず、ファイに向けて言った。
「こら、寝るな」
「うーん。知らないよ。秘術が展開してどうなるかなんて」
「秘術を展開したこと自体、忘れていたのか」
「うーん。うん」
「何だその返事は。どっちだ」
焦るゲオルグをしり目に、ファイはすうすうと寝息を立て始めるのであった。
腕の中にファイを抱え、呆気にとられるしかないゲオルグである。
そこに、マナの声が降ってきた。
「還ってきたわたくしの思い。今であれば、務めと矛盾することなく、この思いを引き受けることができます」
スヤスヤ眠るファイを腕に、ゲオルグはマナを見上げた。
マナは、黒水晶の瞳を潤ませながらも、しっかりと定まった視線でゲオルグを見て言った。
「今も変わらず、お慕いしております。ゲオルグ様。わたくしの運命とともに生きてはいただけませんか」
ためらいのないマナの申し出であった。
これには、ゲオルグの方がたじろいだ。
「俺がどう生きて、今どんな男になっているのかを知ることもなく、軽々に結論を出してよいのか」
「ゲオルグ様は、ここまでいらして、今のわたくしがお気に召さないのですか?」
凛としていたマナの瞳に、うっすらと涙が浮かんだ。
懐かしささえ感じるその弱々しさに、ゲオルグは大いに慌てた。
「いや、そういうことではなく」
「ゲオルグ様のお望みは」
「俺たちは十四の年に手にしたものを奪われた。それを取り戻したところから、始めたいのだ。何を選びとり生きてゆくのかを決めるのは、俺たち自身でありたい。分かるだろうか?」
マナは着物のたもとで涙を拭いながら、何度か頷いた。
「申し訳ありません。戻ったばかりの心が少々強すぎて、我を忘れてしまいました」
次に顔を上げたマナは、毅然とした表情をしていた。
「お互いを理解し合い、それから、わたくしたちの未来を定めていくのですね」
「できればそうしたい。マナにはマナの今の立場があろう。ここに滞在させてもらい、話しあえると助かるのだが」
「今のわたくしには可能です。部屋をご用意いたします」
マナの視線と頷きひとつで、階段下の左の老婆が動いた。
つつつと滑るような動きで、左の老婆は奥の間へ消えて行った。
マナは華やぐ気持ちをにじませた表情で、ゲオルグに向かった。
「すぐに部屋が整いますので」
「申し訳ないが、ファイを里に戻してやりたい。一度、里に連れ帰ってまたこちらを訪れたいのだが」
「その必要はございません。お迎えの方がお見えです」
ゲオルグは振り返った。
部屋の中央にある光の輪の中に、赤茶色の髪の男が立っていた。
「ネオンか」
「はい」
「わたくしが迎え入れました」
いまだ体に包帯を巻くネオンの登場であった。
ゲオルグのように、魔獣に襲われることもなく、簡単にここに辿り着いたようである。
人の良さそうなそばかす顔を緊張で強張らせながら、ネオンはゲオルグのところまで歩いた。
「長老様の命を受けております。ゲオルグ殿、ファイをこちらへ」
「あ、ああ」
すっかり熟睡するファイを、ゲオルグはネオンに手渡した。
ファイの長い紫苑色の髪の毛が、ゲオルグの腕をなでていった。
ネオンの腕の中にファイがいた。
ゲオルグの流した血が、ファイの顔も髪も服も汚していることにゲオルグは気がついた。
ネオンは安心したように頬を緩め、ファイを抱き直した。
ファイは起きることなく、眠っていた。
ネオンが、ファイ、帰ろう、と小さく呼びかけるのが聞こえた。
ゲオルグの体の奥のどこかが、ギリリと痛んだ。
ゲオルグは、その痛みから目を逸らした。
触れてはならないところにある痛みだと、反射的に察知した。
去っていくネオンとファイを見送りながら、ゲオルグは考えた。
痛むのは、魔獣に受けた傷ゆえであると。