5 ギュウダの塔へ
ある日の朝、天橋が架かった。
知らせを受けたゲオルグは、里に来た時と同じ旅装を整えた。
ファイがまだ眠る時間。
朝ぼらけ、霧立ち込める静けさの中、ゲオルグは出立した。
見送りに立った長老は、深々と一礼した。
里の外れ。
ギュウダの塔への進入を拒む断崖に、橋が架かっていた。
ゴツゴツとした岩肌の橋は道幅も広く、歩きやすい。
まるで最初からあった道のようであり、ゲオルグは違和感なく、すんなりと天橋を歩き始めた。
虹のような幻想的な架け橋を予想していたゲオルグには、拍子抜けする現実感であった。
そうしてしばらく進んだ。
やにわにゲオルグは大剣を鞘から引き抜いた。
「ふん!」
ゲオルグの大剣が、重さを感じさせぬ速さで回転した。
ギャァ、という絶叫が上がり、ぼたぼたと獣が天橋に落ちた。
中空に突然現れたのは、翼を持つ魔獣たちであった。
翼の生えた獅子は鋭い鉤爪でゲオルグを狙い、次々襲いかかった。
何もない空間から現れ出る魔獣に、ゲオルグはひるまなかった。
ゲオルグは、魔獣たちを斬り伏せながら前進するという離れ業をやってのけた。
ひと太刀で魔獣五匹ばかり仕留める剛力だった。
それほどの胆力をもつゲオルグが、次の瞬間、ギクリとする。
「ゲオルグー」
もはや耳に馴染んだその声。
ゲオルグは振り返り、魔獣の鉤爪に今しも引き裂かれそうになっているファイを認めた。
「ファイ!」
平素、よほどのことでは声を荒げぬゲオルグが叫んだ。
背を見せたゲオルグに、魔獣たちの鉤爪も牙も集中した。
ゲオルグは構わず、ファイに向けて駆け出した。
ゲオルグの放った短刀が、ファイを襲った魔獣に突き刺さった。
魔獣は羽ばたきを止めて、落ちた。
「ゲオルグ」
血相を変えるゲオルグに対して、ファイは花がほころぶような笑顔を向けた。
後頭部にも傷を受け、ゲオルグは額から血を流した。
そのゲオルグを見てなお微笑むファイ。
ゲオルグには、ファイが空恐ろしいほど美しく見えた。
ゲオルグは、素早く左腕でファイをすくい上げた。
ファイはその腕に優雅に腰掛け、ゲオルグの首にしがみついた。
ゲオルグは、血塗れて魔獣を斬りながら言った。
「しっかりとつかまって、目を閉じていろ」
「うん」
ゲオルグは進む速さを上げた。
ゲオルグは、己に受ける傷を厭わず、左腕にファイを抱え、両手で扱うはずの大剣を片手剣の如くに振るいながら、塔を目指すこととなった。
やがて、天橋の端にたどり着いた。
ギュウダの塔はもうすぐそこだ。
魔獣の襲来はここへ来てパタリと止んだ。
ゲオルグは肩で荒い息をしながら、大剣を背の鞘に収めた。
いつの間にか眩しいほどに明るくなっていた。
朝日がさんさんと輝いていた。
ゲオルグの燃え立つ身体からは、だくだくと汗が流れ出た。
身体中の傷口から、血も流れ出た。
ゲオルグの腕の中で目を閉じているファイは、ゲオルグの体温に対してひんやりと感じられた。
「ファイ、もう目を開けてよい」
ファイのまぶたが静かに開かれた。
まぶたの下から現れた涼しげな紫苑色の瞳が、ゲオルグをとらえた。
ゲオルグはファイの眼差しを受けて、どうしたわけか羞恥をおぼえた。
「すまない。ファイを汚してしまう」
ゲオルグは妙に慌てて、右の掌で顔をぬぐった。
血やら汗やらが手に付いた。
ゲオルグは右手を上着に擦り付けた。
ファイは、ふわりと笑った。
「ゲオルグ、遅くなってごめんね」
ゲオルグは、手をぬぐうのを止めた。
ファイに何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
ややあって、ファイの言った意味が分かった。
ファイは、自分はゲオルグと一緒に発つはずだったのに、寝坊して遅れてしまったと言っているのだ。
ゲオルグは困惑した。一瞬のうちに、さまざまな思いが巡った。
なぜここに来た、危険だから来てはならないとファイを叱責すべきなのか。
それにしてもファイは、どうして私を置いて行ったのだ、とゲオルグを責めてくるふうでもない。
そもそも、一緒に里を出る約束はしていない。
そういえばファイは、里の者には行く先を言いおいて出てきたのだろうか。
ところで、血と汗で汚いことはファイには全然気にならないようだ。
ぐるぐる巡る思考の後、ゲオルグの口から出たのは、ああ、という何とも頼りない返事だけであった。
ファイもそれ以上のことは何も言わず、当たり前のようにゲオルグの腕に座り続けていた。
そこで、ゲオルグはファイを抱えたまま前に進む以外になくなってしまった。
ゲオルグはこの時、自分が何用で塔を目指すのかを、すっぽりと忘れた。
ファイに危険は及ばないか、ということだけが気にかかった。
ゲオルグは周囲を警戒し続け、不便はないかとファイの様子に気を配り、そうしてファイと目が合うたびに微笑まれて、複雑な心境になるのであった。
しばらく歩くと、ギュウダの塔に到着した。
ファイを守ることにすっかり気を取られたゲオルグである。念願のギュウダの塔に対面したにも関わらず、古びているが立派な塔だ、という月並みな印象をもつに留まった。
その堅牢な扉がひとりでに開いた。
ゲオルグはそこでようやく、本来の用件を思い出した。
何というか、これは。
ゲオルグは、用件に対して相応しいと言えない己の現状を、やっと省みたのであった。