4 天橋がかかるまでの二人
ゲオルグの事情を聞き、長老は唸った。
「ううむ。いかにも、この隠れ里テラこそ、ギュウダの塔への唯一の通り道、天橋の架かる地であります。西の王からの褒美としての情報とは」
ゲオルグは胸元から書状を出して、長老に見せた。
長老はもう一度唸った。
「ううむ。確かに、西の王の花押である。洒脱な王と思ってはいたが、ヨーマにギュウダの塔に隠れ里、第一級の秘匿事項をやすやすと明かすなど」
引きはがされてもめげずにゲオルグの背中から抱きつくファイを、長老はちらりと見た。
「ゲオルグ殿はよほど見込まれたのですな」
ファイがゲオルグに懐く様子を見て、長老は嘆息した。
長老は、ゲオルグがギュウダの塔ヘ渡ることを見逃すことにした。
天橋は、三十かそこらの日ごとに一度という頻度で、里の外れに現れる。
天橋は、その日を過ぎれば消えてなくなる。
人が、渡ることもあれば、渡らないこともある。
ゲオルグがそれを渡ると言うのなら、渡るとよい。
次に天橋が架かるまで、しばらくかかる。心安く滞在できるよう離れを提供する。
「西の王の書状も確かでありますし、腕前も秀でている。ゲオルグ殿が、この里に腰を据えていただくことも望むところではあります」
「いや、俺は」
「里を出るの? ゲオルグが行くとこに私、ついてくから」
「これ、ファイや。ゲオルグ殿の邪魔をするでない」
「行くったら行くから」
「そなた、前にも一度、妙な病にて死にかけたことがあったろう。ヨーマは強い種ではないのだから。妙な気は起こさず大人しくしていなさい」
「やだね」
ファイはゲオルグの肩によじ登って座り、長老にあっかんべーをした。
こうして、天橋が架かる日まで、ゲオルグは里に滞在することとなった。
長老の屋敷の離れにゲオルグは居を得た。
生きて宝石のように美しく、死するとまことの宝玉と化すヨーマのファイを、隠れ里テラは大切に匿ってきた。
無気力で表情も乏しかったファイ。
ゲオルグに出会ってから見せるその笑顔は、実に豊かな輝きを放っていた。
ファイの笑顔に、世話をする屋敷の者たちは、ほこほこと心温まる思いを抱くのであった。
ファイのもともとの住処は、今いる離れの裏手の草原にあった。
小さな小屋だ。
そこには寝るための部屋しかなかった。
ファイが一人で眠れる小さな部屋を望んだのだ。
小屋の横には、大きく枝葉を広げる木があった。
その木陰の柔らかな草の上。
日中ファイはそこで横になり、ぼんやりとどこかを見ているのが常であった。
ゲオルグと出会った翌日、ファイが、眉根を寄せて横になっていた。
そこにゲオルグが訪れた。
「ファイ。俺の生命力は多少のことでは揺るがない」
目を閉じていたファイは、そこにゲオルグを認めて、うれしそうに微笑んだ。
しかし、起き上がらずに横になったままでいた。
ゲオルグは言った。
「ヨーマはヒトのように食事をしない。生きるものから、生命力を分け与えられて糧とする。西の王はヨーマに自らの生命力を与えていた」
ゲオルグは手を差し伸べた。
「体を動かせば腹が減る。しゃべれば腹が減る。考えて物を思えば腹が減る。これまで動かずに来たというのなら、今は腹が減って目が回っている状態なのではないか」
ファイは目を閉じた。
「食べ方が分からない」
ゲオルグはわずかに瞠目した。
「これまで、どうやって生きてきたのか。糧を摂取することは、命を持つものの必然だろう」
「いつもは、ここでこうしてたら、それですんだもの」
「まるで草花だな。大地と日差しと風から命を分け与えられてきたのか」
「分かんない」
ゲオルグは、だるそうに目を閉じて横になるファイの頭に手を置いた。
ゲオルグはあぐらをかいてファイの横に座った。
それから、己の体内を巡る気を整えた。丹田に力を込めた。
ゲオルグは錬成した気を、ファイの頭に置いた手を通して送り込んだ。
ファイの結ばれていた唇がふわりと開いた。
そこから、はあっと息が吐かれた。
ファイの頬に赤みが差し、肩が揺れた。
ファイはゆるゆるとまぶたを上げた。
「何、これ」
細く開いた目でファイはゲオルグを見上げた。
ゲオルグは気遣うように言った。
「自ら取り込めないと言うから、押しこんでみたのだが、食えるか?」
ファイはぱっちりと目を開けた。
そして、体を起こした。
ファイは自分の手を見たり、ヒラヒラと振ってみたりした。
ファイは立ち上がり、ピョンピョンと跳ねて見せた。
「体が軽い」
「そうか」
ファイは続けて跳ねた。
「軽い」
「よかった」
ゲオルグも立ち上がった。
ファイはクルリと回って見せた。
「何これ。すごいね。軽い軽い」
「そうか。俺がいるうちに、食べ方をおぼえるといい」
ファイはピタリと足を止めた。
ファイは、紫苑色の瞳でゲオルグの目の奥を覗き込んで言った。
「私は、ずっとゲオルグからもらう」
ゲオルグは何も言葉を返せなかった。
ゲオルグのことは、隠れ里全体に知れ渡っていた。
ゲオルグは自由に里を歩くことができた。
ゲオルグは誰にでも丁寧に接した。
ゲオルグは里の者たちに好感を与えた。
滞在を始めた数日後の夜から、ゲオルグのいる離れに忍び込む者たちが出始めた。
里の女たちだ。
夜更けにゲオルグの寝所にこっそりと入り込む。
いわゆる夜這いであった。
ゲオルグは丁重にお引き取り願った。
しかし、それはやむことなく続いた。
ゲオルグを里に引き止めようとする工作でもあり、強き種を得ようとする手段でもある。
長老の差し金と読めるのだが、ゲオルグと会っても長老はそ知らぬ顔を決め込む。
話をしようとゲオルグが向かうと、用件を分かっていてか、必ず長老はそそくさとどこぞの用事へと消えて行くのであった。
ある時、ファイは、遅ればせながら夜這いに気がついた。
ファイは早々に、ゲオルグから寝所に入ることを禁じられ、渋々従っていた。
ファイは激怒した。
夜もゲオルグのそばにいられるのなら、誰よりもそうしたいのはファイだ。
それならば、と自分がゲオルグの隣で寝ることに決めた。
ゲオルグはどうしても同衾を許さなかった。仕方がないので、ファイは、ゲオルグの布団の隣に自分の布団を用意させ、そこで寝ることにした。
ファイがそうすると、他の女たちの来訪が止んだ。
面倒事を秤にかけたゲオルグは、それ以上、ファイの行動に、異を唱えることはしなかった。
ゲオルグは、腕がなまることのないようにと鍛錬を続けていた。
しばしば里を出て、魔獣の現れる丘で一人大剣を振るった。
必ず戻ると約束し出立するので、ファイはおとなしくゲオルグの帰りを待っていた。
ゲオルグが戻ると、ファイはゲオルグに飛びついて出迎えるのであった。
「おかえり! ゲオルグ」
「ああ。ただいま」
瞬く間に、ゲオルグは、そのやり取りが当然であるかのように馴染んでしまった。
反射的に返事をして、飛び込んでくる温かなぬくもりを抱きとめてしまう。
ゲオルグの中には、なんとも甘苦いような困惑が住むようになった。
ある時、ゲオルグは気がついた。
ゲオルグだけではない。里の者たちも気がついた。
ファイが変化していた。
もっと言うなら、成長していた。
日ごと変化しているようではあったが、それが閾値を越え、明確な違いとして、ある時現れたのだった。
ファイが少女から女になった。
胸が膨らみ、腰元のくびれから臀部にかけて、柔らかな曲線を描いた。
手足が伸び、着物の着丈が合わなくなった。
紫苑色の大きな瞳を長いまつげがふちどり、いつの間にか大人びた顔になっていた。
「なるほど。これは戦争になるわい」
長老は、新しく身に合った服を着たファイの姿を見て、頭を抱えてしまうのであった。
その夜、寝所でファイがゲオルグを見つめて言った。
「ゲオルグ。私、あなたを見ていると、懐かしくてたまらない」
「会ったばかりだ」
「あなたに会いたかった。会いたかった。胸が苦しいの」
ファイの大きな瞳から、涙がこぼれ落ちた。
平静を常とするはずのゲオルグの眉が、ぴくりと動いた。
ファイは左手を胸に当てながら、ゲオルグににじり寄った。
「ゲオルグ」
布団の上に胡坐をかいているゲオルグの太ももに、ファイは右手で触れた。
ゲオルグの喉仏が動いた。
見上げたファイは、ゲオルグの黒い瞳の中にうねる熱を見た。
「俺も鉄でできているわけではない」
ゲオルグは己の太ももに置かれたファイの手を取った。
ゲオルグの手の熱さにファイが吐息をこぼした。
ゲオルグは、ファイの手を静かに己の太ももから退けた。
ゲオルグは立ち上がり、寝所を出た。
そうせざるを得ない夜が、何度か繰り返された。
ネオンが言った。
「ファイ。ヨーマは外の世界に行けば、災いのもとになる。ヒトは君を奪い合う、争いの種となるんだ」
「知らないし」
「世界を敵に回すのか」
「私は、私とゲオルグだけよければ、それでいいの」
ネオンは息をのんで黙ってしまった。
足にも腕にも包帯を巻く状態にありながら、ネオンはせっせとファイの世話をしに訪れていた。
ファイのつれない言動に、人の良いそばかす顔がへの字眉の困り顔になった。
草原の木陰で横になるファイに風が吹き、紫苑色の長い髪がふわりと舞った。
成長したファイの頬の線の美しさが見えて、ネオンの顔が赤くなった。
ゲオルグはファイの頭の横に座りながら言った。
「初めて会った戦士が俺だったということに過ぎない。広い世界に出て、もっと多くのヒトに会えば、ファイの気持ちも変わる」
「ちっとも誰にも会いたくない。でも、ゲオルグが里を出て行くなら、私も行く」
ネオンの眉尻がよけいに下がった。
ゲオルグは淡々と繰り返した。
「俺より強い戦士も、権力のある王もいる。誰もがファイを望む。なにより、ファイ自身が俺を見向きもしなくなる」
「そんな話、どうでもいい」
ファイは横になったまま、まっすぐにゲオルグを見た。
「私は、ゲオルグがいい。懐かしいあなたの瞳」
ファイはゲオルグの黒い瞳を覗きこんだ。
ゲオルグは息をのんだ。
「あなたの声」
ファイは目を閉じた。
ゲオルグは見えなくなったファイの瞳に引き込まれるように、かすかに前のめりになった。
「あなたのにおい」
ファイは手を伸ばしてゲオルグの右手を探り当て、その手を自分の頬に導いた。
「あなたの温度、呼吸、魂。見えないものもすべて」
ゲオルグはハッとして手を引いた。
ファイの頬の柔らかさが、ゲオルグの手のひらに残った。
ファイは目を開けた。
ネオンがうめくように言った。
「ファイ。ゲオルグ殿を誘惑するな。許嫁がいるお人だ」
「いてもいい」
「ファイ。ヒトの道理は分からないかもしれないが、知ってくれ。ファイがよくても、ゲオルグ殿もお相手の女性も困るのだ」
「へえ」
ファイは大して関心もなさそうに、首をかしげるのであった。
夜の空気が濃密になっていく。
夜の帳はヒトの感情的な部分を刺激する。理性が眠りにつく。
ファイがゲオルグに近づく。
寝所を同じくすることをやめなければならない。
ゲオルグは常にそう思いながら、それを強行しない不義理な己を知った。
ゲオルグからファイに触れることは決してしない。
寝所に隣り合わせで並べられた夜具の頼りない隙間を、ファイは易々と越えて来る。
あまり触れるとゲオルグが去ることを知っているファイは、慎重だ。
夜具の上であぐらをかくゲオルグの隣に座り、じっとゲオルグを見上げる。
ゲオルグはファイの柔らかな気配を傍らに感じ続ける。
こうなると声を発することさえできなくなる。
己の呼吸音がやけに耳につく。
なめらかで潤いのある温度に、ゲオルグの肌が侵食される。
傷だらけで頑丈な肌なのだが、ファイの体温はしっとりと沁み入ってくる。
かつてないその感触は、毎夜、ゲオルグの感情を大いに乱した。
それは、まったく不快ではなかった。
それどころか、あまりに甘美なので、ゲオルグは近づくファイを完全に拒否することもできなかった。
甘く、濃く、ぬるく、刺激的で、張りつめた、危うい均衡。
そして、ファイが痺れを切らしてささやくのだ。
「ゲオルグ」
それを契機にゲオルグはすっくと立ち上がる。
そうしてファイと距離をとる。
限界だ。
「先に寝ていろ」
ゲオルグの視界の裾にファイの姿がひっかかる。
ゲオルグを望む気持ちを隠さないファイのまなざしを残し、ゲオルグは外に出る。
夜気に当たってゲオルグは心身を冷やす。
ゲオルグは星を見上げ、己の心の在り処を探すのだった。