10 結論から始まる
好天。
ファイは草原に寝転がっていた。
隠れ里テラ、長老の家の離れの裏手にある草原、ファイのいつもの定位置だ。
先日まで生死をさまよっていたファイは、ゲオルグに気を与えられた。
ファイはあっという間に回復し、テラの里に日常が戻った。
日常。
それは、ゲオルグが訪れる前と同じような日々。
怠惰なファイが戻ってきた。
意識を取り戻して数日経った。
ファイがゲオルグにまとわりつくことは、もうなかった。
ゲオルグは長老の家の離れに滞在を続けていた。ファイは草原の小屋へ戻った。ゲオルグとファイは、互いに会おうとはしなかった。
ファイは、ぼんやりと空に目を投げていた。
ファイに木漏れ日が差していたが、大きな影がそれを遮った。
ファイを上から覗き込む影が言った。
「ファイ。ただいま」
魔獣討伐から戻ったゲオルグであった。
ついこの間までは、ゲオルグの帰りには飛びついて歓迎していたファイである。
それが夢であったかのように、ファイは淡々としていた。
「ん」
とだけ。
紫苑色の瞳は、すぐに空に戻ってしまった。
ゲオルグがファイを訪ねるのは、ファイが命をつなぎとめた夜以来。すでに十の夜は越えていた。
ゲオルグは寝転ぶファイの横に腰掛けた。
担いでいた大剣を下ろしながら、ゲオルグは言った。
「マナとは別れた」
唐突な話題であった。
ゲオルグの言葉に対して、ファイは無反応で空を見ていた。
ゲオルグは続けた。
「俺とマナの運命は、すでに別の方角を向いていた」
ゲオルグは、ファイの見ている空に目を向けた。
それから、もう一度ファイを見た。
ファイはゆっくりまばたきをしていた。
紫苑の瞳が、不意にゲオルグの目を覗いた。
「マナはゲオルグを愛していたよ」
ファイの言葉を受けて、ゲオルグは胸にこぶしを当てた。
「そうか」
ゲオルグは苦笑いをした。
ファイは空に視線を戻した。
白い雲の切れ端が、空を流れていた。
小さな沈黙があった。
ゲオルグはファイを見て言った。
「ファイ。俺と行かないか」
ファイは、空を見上げたままであった。
ゲオルグはもう一度呼んだ。
「ファイ」
ファイは今気がついたとばかりに、ゲオルグに目を向けた。
紫苑の瞳がじっとゲオルグの黒い目を見つめた。
ゲオルグはこぶしを開いて、胸を押さえた。
「行きたいところはないか? 欲しいものはないか?」
ファイは答えずに、ゲオルグを見つめた。
ゲオルグは、焦れた口調で続けた。
「望みは?」
ファイは、ゆっくりとまばたきをした。
それから、仰向けていた体を横にした。ファイは片肘ついて頬杖をしながら、ゲオルグに言った。
「ゲオルグ、王様みたい」
ファイは、いたずらな顔をして笑った。
ゲオルグの頬も緩んだ。
「王がいいのか?」
「別に」
「強き王がよいのだろう」
「よくないったら」
「いいから望め」
「えー」
ゲオルグは、ファイの顔にかかる髪の毛を優しく払いながら言った。
「ファイが望むなら、俺は王にでもなろう」
ファイは目をパチクリとした。
ゲオルグは見下ろして、ファイに問うた。
「俺が王になるのなら、ともに行くか」
ファイはじっとゲオルグを見つめ返した。
柔らかな風が2人の間を吹き過ぎていった。
ややあって、ファイが答えた。
「ゲオルグはゲオルグでしょう」
ゲオルグは、その答えを聞いて視線を地に落とした。
「ファイ」
「うん?」
「ファイは知ったのだろう? ヒトが想う気持ちの強さを」
ファイは、少しばかり眉間にしわを寄せた。
「…うん?」
「知ったような知らないような顔だな」
「うーん」
「わずかでも胸に残るものがあるのなら、その激しさも苦しさも分からなくはないだろう」
絞り出すようなゲオルグの声に、ファイは少々たじろいだ様子で、頬杖を外して腕に顔をうずめた。
ゲオルグは、顔を伏せたまま目を閉じて言った。
「胸が、痛む。手に入らないという怒りで何もかもぶち壊したくなる。失う恐怖によって、身も心も凍りつく」
寝転がっていたファイは、腕をついて、ゆるゆると上半身を起こした。
そして、困った顔でゲオルグを見た。
ゲオルグは、両こぶしを地に突き立て、俯いたまま目を開いた。
「知らぬものではないだろう。身を焼き尽くすがごとき想いを」
「…想い」
「ヒトの心を預かり、その身に宿した時だけ、俺を求めるのか」
ゲオルグは自嘲した。
体を起こしたファイは、無意識に両膝を引き寄せた。
ゲオルグの視線が、ファイの動きを追った。
「それでは足りぬ。かりそめの心など」
ゲオルグの燃える目が、ファイの紫苑の瞳を追いつめて、とらえた。
物騒な光。
ファイの体が、思わずひゅっと縦に伸びた。
ゲオルグは剣呑な光を湛えたまま問う。
「俺と行くのは、いやか?」
固い筋肉に鎧われたゲオルグの迫力ときたら。
ファイは、気押されるようにううむと考えこんだ。
やがてファイは、首をかしげて言った。
「だって、私の宝玉は、ゲオルグにあげるから」
ゲオルグはハッとした。
「その答えは一体。いや、それよりも、宝玉は…今でもそうなのか」
息を詰めて問いかけるゲオルグに、ファイは頷いた。
「うん」
「俺とともにあり、宝玉を与えると」
「大げさ。落としたら、拾って」
「何を」
「私が命を落として、宝玉になったら、すぐにゲオルグが拾ったらいいよ」
ファイは、ためらいもなく、そのように言うのだった。
ゲオルグは、痛みを感じたかのように、眉間にしわを寄せた。
ファイはゲオルグを見て、困った顔をした。
ゲオルグは、額に手を当てて言った。
「結論として、ファイは俺と行くのだな」
「うん」
「宝玉を与える約束をしたから」
「うん」
ゲオルグは大きな手で顎をこすり、何事かを考えていた。
それから、口を開いた。
「そうか」
「うん」
ファイはおずおずとゲオルグの顔を見た。
ゲオルグが、深い声で呼んだ。
「ファイ」
「…うん?」
小首をかしげて見せたファイであるが、妙に背筋が伸びていた。
猛禽類の迫力で笑みを浮かべたゲオルグが言った。
「俺の側にいろ。宝玉になどさせない」
ファイは数回まばたきをした。
ファイはそれから、ちらっとわきを見て、自分が何を言われたのかを考えた。
「宝玉は、いいの?」
「俺のだ」
「そうだよねえ。秘術が発動したら、たぶんもう次は」
「するな。秘術は二度と使わせない」
「あれ? 宝玉いらない? あれ?」
「いる。俺のだ。粗末にするな」
「うん?」
膝を抱えたファイのつま先が、ぴょこぴょこと動いた。
「どういうこと?」
「ファイは俺と行く。俺はファイに世界を見せて、たくさん笑わせてやろう」
「うん?」
「この世界の楽しさを感じて、ファイは笑う」
「そうなの?」
「俺の横にいて、心から笑ってくれ。その顔が見たい」
ファイは小首をかしげながら、ゲオルグの黒い目を覗いた。
なぜだか、ファイは小さく震えた。
そのような自分を訝るように、ファイは膝を抱いた。
「ゲオルグ。よく分からない」
「今はそれで良い。すべて俺が引き受ける。決して俺の側を離れるな」
ゲオルグは不敵に笑った。
強靭で温かな笑みであった。
ファイは、震える体を抱き続けた。
なぜ震えるのか自分でも分からなかった。