自称案内人カンナ の 誤算
……ハルワタートの刺突は、間違いなくケンタウロスへと命中した。
だが、心の臓を貫くまでは至らなかったらしい。
片手剣は胸板を突き刺した辺りで圧し折れ、刃先だけを残して分かたれてしまった。
力の均衡が崩れ、どす黒い血を浴びながら転倒するハルワタート。
次の瞬間、ケンタウロスはくるりと反転し、彼へと後ろ蹴りをお見舞いする。
怒りを込めた、馬力による一撃――いや、魔物なのだからそれ以上に違いない。
そんな攻撃を少年が耐えられるはずもなく、打撲音と共に後方へと吹き飛ばされた。
続けて再び鈍い音。
勢いのまま樹木へと叩き付けられたのが原因で、それきりハルワタートは動かなくなる。
全身は弛緩し、項垂れてしまっているので表情もわからない。
いや、生きているのかすらも。
人馬の魔人は一度だけ少年へと視線を向け――胸の傷の溜飲収まらぬといった様子で嘶きを上げる。
顔には悪鬼のごとく憤怒が浮かんでいた。
「ひっ……!」
悍ましき形相を前に、私の口から意味のない悲鳴だけが漏れた。
しまった……と考えても後の祭り。
これだけの距離があっても耳に届くのか、ケンタウロスはぴくりと反応し――私を視認するとにたりと歓喜に顔を歪めた。
見ただけで背筋が凍るような、陰惨で醜悪な、笑い。
まさか、傷の怒りを私にぶつけようとでも言うのだろうか。
ケンタウロスはハルワタートから興味を失うと、場違いなほど軽妙なリズムでこちらににじり寄る。
その速度はわざとらしいほどゆっくりであり、あたかも舌なめずりでもしているよう。
――逃げなければ。
頭の中でそう考える自分がいる。
だが、驚くほど私の動作は緩慢で、どれだけ抑えようと全身の震えが止まらない。
それでも無理に動く。
駄目だ。
腰が抜け、足が縺れ、地面に身を投げ出してしまった。
地を這ってでも逃れようともがき、手を伸ばすのだが、ただ空を切るだけ。
怖い。
ただ、ただ怖い。
思考が完全に恐怖に支配されていた。
「きゃっ……!」
それ故に、目と鼻の距離まで近づかれてなお、私にはただただ悲鳴を上げることしかできない。
荒い息遣いを感じ、全身に這い回るような怖気が走る。
例えるなら、蛇に睨まれた蛙。
目尻からは何か冷たいものが伝う。
そして、股の間からは暖かいものが。
魔人は、身動きひとつ取れない私を満足げに見下ろすと、ハルバードを振りかぶり――
「――!?」
落雷を受け、絶叫を上げていた。
◆
突如響き渡った轟音に、一瞬、私には何が起こったのかわからなかった。
当然、目の前のケンタウロスも同じだろう。
ここは『カテドラル』の内部。
疑似的な晴天と宵闇だけが存在する世界であり、まかり間違っても雨などは降らないし雷雲などもっての外。
だというのに、ケンタウロスは天から一筋の雷撃を受け、全身から黒々とした煙を上げていた。
並大抵の魔物であれば致命傷になるほどの一撃であり、正直、立っているだけで驚嘆に値する。
それでもダメージは大きいのか、魔人の震える指先からハルバードが零れ落ちる。
――だが、受難はそれだけに留まらない。
「カンナから離れろよッ!」
いや、奴にとっては最早悪夢だろう。
身動き取れない程度には痛めつけたはずの少年が立ち上がり、それどころか再度戦いを挑んできたのだから。
私に気を取られ、とどめを刺さなかったが故の――致命的なまでの誤算。
魔人の困惑を余所に少年が急襲する。
咆哮を上げ、どこにそんな力が残っていたのか疑問に思うほどの速度で一気に距離を詰めた。
慌てて屈みこみ、得物を拾い上げようとするケンタウロス。
しかし、未だ痺れの残る指先で行われたそれはあまりにも緩慢だ。
私は反射的に柄の部分を蹴り飛ばし、ほんの少しだけでも少年の方へと動かした。
足にじんとした痺れが走るが、それでも魔人の手が届くまで一拍の遅れが生じる。
……地べたに置かれた武器を同時に奪い合うのだとしたら、身長の低い方が有利なのは自明の理である。
先ほどまで優位を形成していたはずの体格差が、今回ばかりはハルワタートの方へと風向きを変えていた。
ケンタウロスより数段早く駆け抜けると、ハルワタートは槍斧を拾い上げ、体勢を整えてから突きつける。
熾烈なまでの睨み合い。
しかし、両者の怒りが交錯するのは一瞬だけのことだった。
今度は自分の退路がない。
ケンタウロスはそう悟ったのか、得物を奪われ圧倒的不利に陥ってなお、怒号を上げて銀髪の少年へと襲いかかる!
堂々と迎え撃つハルワタート。
リーチの差さえ逆転した。
彼の瞳に怯えの色は見受けられない。
例え、自分の背丈よりも長い得物だろうと、正確無比に、ただ貫くのみ。
槍斧の一撃は、未だ傷痕残る胸元へと吸い込まれていき――
◆
ハルバードはいとも容易く胸筋を引き裂き、心臓へと到達した。
崩れ落ちるケンタウロス。
怨嗟の呻きをあげ、せめてでもの抵抗とばかりに四本の足をじたばたさせるのだが、じきにそれも収まりピクリとも動かなくなる。
……この戦いは私の極めて近くで行われており、稲光とそれに伴う轟音は私の鼓膜を大きく揺さぶった。
聴覚は麻痺し続けていて、吐き気が込み上げてくる。
きっと、今の私はげっそりとした表情をしているのだろう。
だが、笑う。
私は――生きている。
銀髪の彼を含め、死んではいない。
どれだけ追い詰められようと、迷宮においては生きていれば勝ちなのだ。
ただそれだけを感謝しながら、膝が笑うのを無視してなんとか起き上がろうとする。
しかし、力が入らない。
中腰になったあたりでまたへなへなと、じゅくじゅくとした地面にへたり込んでしまった。
すると、尻もちをついた私を見かねたのか、ハルワタートが私へと手を指し延ばしてきた。
「大丈夫か!? カンナ!」
「あ、ああ……君は一体」
少年の顔を見た途端、自然とついて出るのは疑問の言葉。
……ハルワタートには、大きな傷を負った痕跡は見受けられない。
あの時、下手すれば致命傷にもなりうる打撃を受けていたというのに、内出血すらしておらず、どちらかといえば疲労の方が色濃いとすら思えた。
「悪い、驚かせたよな」
彼は申し訳なさそうな表情をするのだが……というか、何が起こったのかわからない。
何故彼は無事なのか。
あの落雷といい、一体なんだというのだ?
私にはさっぱり理解が出来なかった。
「あのとき、とっさに魔法で防壁を張ったんだよ。そのおかげで、ダメージは大分軽減できたんだ。……勿論、打ち付けられた背中は痛いけど」
――魔法?
ということは、まさか。
「……ハルワタート、以前聞いたとき、君は魔道士でないと言わなかったか?」
「ん? ああ、だって、魔法使いってちゃんとした魔法を操れる人のことだろ? 俺、此処に来る前に教えてもらった簡単な魔法しか使えないから。それに、慣れてない分、一発だけで無茶苦茶疲れるし、出来たら緊急時にしか使いたくないんだ」
自然と脱力。
そんな言葉遊びのような答えでいいのだろうか。
だが、だとしたら、「武器はなんでもいい」だの「最悪素手でも」と語っていたのも納得がいく。
「つまり、半人前の魔道剣士というわけか? しかし、あれほどの稲妻は……」
「そんな名前で呼ばれたのは初めてだけど……兎も角、立ってくれよ。……そのままじゃ、気持ち悪いだろうし」
「え……」
少年の藍の瞳が私の下半身へと注がれ、すぐさま逸らされた。
私もつられて股間へと。
……そこにあったのは、大きな染み。
ぐっしょりと下着まで――いや、水源がその内側なのだから当たり前なのだが――もが濡れてしまっている。
「本当に怖い思いさせてごめん」
そんなに誠心誠意謝られても、逆に反応に困る。
「は、ははは……」
私は乾いた笑いを上げながら、少年の手を取った。
……消えてしまいたい。
勝利の余韻は打ち消され、今の私に残るのはただただ恥辱だけだった。




