迷宮案内人カミナギ の 変貌
下から響く喧噪に促され、私は覚醒した。
ふかふかとした柔らかいものに包まれている。
私が叩き付けられた石畳とは明らかに異なる感触である。
これは、毛布か?
名残惜しいと思いつつも、目を開け身を起こすと辺りを窺う。
「……ここは?」
目覚めたばかりのせいか視界が霞む。
だがそう時間はかからずに鮮明になり、ここが宿屋の一室であることが理解できた。
どうやら、呪符の起動に成功したらしい。
しかし、意識を失ってしまい、そんな私を親切な誰かが連れだしてくれたようだ。
それにしても――
「んっ?」
なんだろう、この違和感は。
首を傾げたがすぐに原因に思い至る。
たった今漏らした独り言もそうだが、やけに声が高い。
少なくとも男の声ではない。
何処か聞き覚えのある、懐かしい響き。
「……そうか、あのガスの影響か」
しかし、冷静になればなんてことはない。
あの甘い香りを思いきり吸い込んだせいで、呼吸器が変調を来しているのだろう。
むしろ、意識を失う直前の激痛が消えている方が恐ろしい。
起き上がる際、特に意識せずに腕を使ったのだが一切の痛みはなかった。
……恐る恐る、顔の前に左腕をやる。
「なっ……」
それなりに日焼けしていたはずの肌は、病的なほど白かった。
少し力を入れてしまえば折れてしまいそう。
そんな懸念が湧くぐらいやせ細っている。
私は成人男性にしてはやせぎすなほうだが、ここまで酷くない。
このように肉体を衰弱させてしまう毒など聞いたことがなかった。
念のため右腕も。
……左腕と変わらない。
兎に角状況を確認しようとベッドから立ち上がろうとして――焦る。
確か、私の片足はへし折れていたはず。
全く気にせず力を入れてしまったが、激痛が走るのは必至。
だというのに
「どうなってるんだ……」
腕同様にほっそりとしてしまっているものの、私の右足には傷一つなかった。
暗闇の中、動転して取り違えたのだろうか?
なら、逆の足か?
そう考え左足に手をやるが、何の問題もない。
というか、四肢だけではない。
胴体までもが以前より細身になっている。
錯乱しながらも姿見を探そうとした瞬間のことである。
「あれぇ、起きたのかい!?」
扉を開け、見覚えのある恰幅のいい女が現れたのは。
◆
「良かった、良かった。親切な冒険者があんたを拾ってきてくれたんだよ」
彼女は私に駆け寄ると肩をバンバンと叩く。
衰弱しているせいか、かなり痛い。
「……ありがとう、グレーテル。助かった」
涙を堪えつつ礼を言う。
彼女はグレーテルといい、この宿屋の女将だ。
歳は大分上で、四十か五十ほどだったはず。
ここ数年は疎遠になっていたが、駆け出しの頃はよく世話になっていた。
「え? あら、あたし名前なんて言ったかねえ」
だというのに彼女は怪訝な顔。
まさか、私のことを忘れてしまったのだろうか?
流石に唖然とする。
いや、職業柄、人の出入りは多いかもしれないが……。
「まあいいや、それにしても心配したんだよ?」
「それは……すまない」
「元気そうなのに三日も寝こけてるなんて、不気味だったからねえ」
「……え?」
ちょっと待て。
どう考えてもおかしいだろう。
今の私は成人男性では有り得ないほど衰弱しきっている。
確かに外傷はないかもしれないが、健康とは言い難いはず。
それに三日も?
いや、だとしたらこの衰弱も納得がいくか……?
私の困惑を無視してグレーテルは窘めるように続ける。
「嬢ちゃん、一人で迷宮に入るなんて自殺行為だよ」
「ま、待ってくれ。嬢ちゃん!? 私は女ではない!」
聞き捨てならない台詞だった。
私は線が細いとよく言われるが、それでも紛れもなく男だ。
それを嬢ちゃんなどと、無礼にもほどがある。
すると、グレーテルは複雑そうな顔をした。
「……まだ若い身空だろうに女であることが嫌になるなんて、よほど酷い目にでもあったのかい?」
私は頭を抱えてしまう。
「意味不明な邪推はやめてくれ。私は男で三十歳を超えているのだが」
冗談にもほどがあるだろう。
どこからどう見ても私は三十路過ぎ。いわばおっさんだ。
勘違いされる様な見た目ではないと理解している。見当はずれに見せかけた嫌味なのか?
だというのに彼女はきょとんとする。
「あははっ、あんた面白い子だねえ。ちょっと鏡を持ってきてやるから見てごらん」
そして、何がおかしいのかグレーテルはけらけら笑うと部屋を出て行った。
◆
「……これは、魔道具かなにかか?」
ベッドに腰掛けて呆然と呟く私に、グレーテルは首を横にする。
無論、そんなことはわかりきっていた。
だが、直視しがたい現実が鏡の中には存在している。
――鏡の中にいたのは、背中にかかるほどの長髪のうら若き少女だった。
鼻筋の通った端正な顔立ちに、男ではありえないふっくらとした頬。
ルビーのような赤い眼が困ったように揺れる。
興奮したせいか、病的だった白い肌にはうっすらと赤みが差していて、艶やかな黒髪とコントラストを醸し出していた。
ただし、胸元は殆ど平坦だ。
触れば若干の柔らかい弾力を感じるものの、主張というにはかなり慎ましい。
それ故に私は鏡を見るまで気づかなかった。
数刻前とは似ても似つかない姿。
誰が見ても私のことを『カミナギ』だとは思わないだろう。
ともすれば発狂しかねないこの事態。
しかし、私の胸には、困惑を打ち消すほど強く郷愁の念が渦巻いていた。
……鏡に映っていたのは、十五年以上前に死に別れた妹の姿なのだから。