9.善意と本意・下
イルヴァが取った部屋は、広い部屋であることは前と同じだったが、二人掛けのダイニングテーブルと、ローチェスト、鎧掛けが二台並んでおり、二人用のソファもある。
そしてベッドが二台設置されている、完全な二人用の部屋だった。
「おお。ベッドが二台ある」
これで寝床問題は解消されるんだな。と思ってロランは呟いた言葉だが、イルヴァは別の意味で受け取っていた。
「嬉しいでしょ? どうしても私と添い寝したくないあなたに配慮してあげたわよ」
「いやいや、嫌かどうか以前に、添い寝はまずいだろ?」
思わず振り返ってイルヴァを見るロランに、イルヴァはジト目を向けていた。
「はいはい。そういう事にしておいてあげましょうか?」
「そういう事って……」
一体どうなっているんだ。と思って、困惑するロランをよそに、イルヴァは鎧を早速脱いでいた。
がちゃん、がちゃん、と金属が床に落ちる音を聞きながら、ロランは疑問をイルヴァに向けていた。
「なんかキミ、やけに機嫌が悪くないか? 一体どうしたんだ?」
「べつに機嫌悪くなんてないわよ。あなたは“ご主人様”なのだから、あなたの好きにすれば良いじゃない」
「…………」
(やっぱり機嫌が悪い)と、ロランは確信していた。
イルヴァは最後にサバトンを取り外してから、精霊刻印の輝きはそのまま、鎧掛けに鎧を掛ける作業を行っていた。
「……さっきの子。クレハ・タチバナだっけ? 随分と気が合うみたいね」
イルヴァがおもむろに言ったのはそれで、ロランはキョトンとしていた。
「気が合うというか……同じ東式剣術を使う剣闘士みたいだったからな。アマツヒ王国といったら本場だから、話がしたいと思ったんだ。でも、話せて良かったよ。ありがとうな、イルヴァ。待っていてくれて」
笑顔でロランはそう言ったから、鎧を掛け終えたイルヴァは刻印の輝きを消した後、振り返っていた。
「……ねえ、ロラン」
イルヴァは急に深刻な顔になって、真っ直ぐ碧い目を向けてきたので、ロランはドキッとしていた。
「な、なんだ?」
「ロランって、ああいう人が好きなの? なんていうの。綺麗で神秘的な黒い髪をしている、エキゾチックなタイプ。それに、人懐っこい印象よね。ああいう人がタイプなの? あ、もしかして、ココが大きい方が好きとか?」
イルヴァは自身の胸をむに。と掴んで、伺うような視線を向けてきたから、ロランの顔は真っ赤になっていた。
「い、いやいや……なんでそういう話になるんだよ?!」
「……ロランが好きなら、応援するわよ」
真面目な顔でイルヴァがそう言ったから、ロランは呆気に取られていた。
「……は?」
「ガルダ族は苦手だけど……でも、仕方ない。あなたは私のことは眼中に無いみたいだし、私のカラダなんかじゃお詫びにもならない。愛人代わりにもならない。じゃあ、こうするしかないじゃない。私はあのガルダを捕まえてくる。あなたはそれを好きにすれば良い。隠蔽は私がする。これで良いわよね?」
「待て……待て待て!」
本気でやりそうな目をしていたイルヴァを、慌ててロランは止めていた。
「なんてことを! 犯罪じゃないか!」
「大丈夫。奴隷がやったと言えば良いのよ。あなたは知らぬ存ぜぬを押し通せば良い」
言いながら、イルヴァは一度は壁に立て掛けたハルバードをカチャ。と掴んだため、ロランは慌ててイルヴァに駆け寄って手を掴んでいた。
「ダメだ! 早まった事を考えるな!」
「…………」
イルヴァは手を掴まれたまま、じっとロランを見た。
その目は、また綺麗事を言っている。と言わんばかりの目をしていた。
だからロランは真剣になって、懇々と伝えていた。
「あのなイルヴァ。俺は好みだからクレハと話していたわけじゃない。……そりゃ、確かに、胸が大きいなーとか。話しやすいなーとか。そういうことは思った。でも、ちょっとだけだぞ、ちょっとだけ」
少しだけ恥ずかしそうに打ち明けるロランを見て、イルヴァの表情は呆れ顔に切り替わっていた。
「……やっぱり思ったんだ」
「うっ……そ、それは男だから仕方ないだろ!」
「うん、決定。じゃあ私、捕まえてくるわね」
笑顔で手を振り払おうとしたイルヴァを取り押さえるため、ロランは彼女の反対側の手もしっかりと掴んでいた。
「っ……な、なによ」
さすがのイルヴァもたじろいでいた。
両方とも手首をつかまれて、イルヴァは真正面からロランに向き合うしかなくなってしまっていた。
そんなイルヴァに、ロランは「あのな」と言った。
「だから早まるなって言ってるだろ? 大体、誰もイルヴァを好みじゃないなんて言ってないだろ」
「言ったわよ。私みたいな気が強くて力も強い、マッスル系女子は好みじゃないって。ほとんどそういうこと、前に言っていたわよね?」
随分と前の話を、イルヴァは不貞腐れた様子で話していた。
「む……」
以前した他愛ない話をよく覚えているな。とロランは思って黙り込んでいた。
とはいえあれは、イルヴァの正体を知らなかった時の話であって。
本当の彼女というのは、力が弱くてどこか子供っぽくて、気丈に振舞っているだけで、脆さや儚さを感じさせる。そんな少女だということを、ロランはもう十分に知っている。
「……キミは強くないよ」
ロランは呟くように言っていた。
「本当は弱い。恐ろしく……弱い。今にも壊れてしまいそうなほどに。だから俺は、キミを……アイアン・ティターニアとしてのキミを、守らなければと思ったんだ」
「なっ……」
次の瞬間、イルヴァはあっ気に取られたような表情を浮かべた後、慌てた様子で顔を背けるようになった。
「なっ……なんで、そんなことを言われなければならないのよ!」
イルヴァのロランに向けられる語気があからさまに強まっていたため、(やっぱりな)と思ってロランは苦笑していた。
「確かに、“腑抜け者”の俺なんかには言われたくない言葉だよな。でも、自分でもわかってるんだろ? こんな俺なんかよりも、キミの心はもっと弱いよ」
「っ……は、離して……」
イルヴァの声はいつの間にか弱弱しくなっていた。そればかりか、声が震えていたためロランは驚いていた。
「……イルヴァ? どうしたんだ?」
顔を覗きこんでみると、イルヴァの目から大粒の涙が溢れ出している事に気づいてロランは大慌てしていた。
「ごっ――ごめん! やりすぎだったかな」
慌てて両手を離したロランのリアクションで、イルヴァは自分が泣いている事にやっと気付いたらしい。
「あ……あれ?」
イルヴァはキョトンとした表情をロランに向けながら、涙が次々と伝って行く頬を両手で抑えるようになる。
そんなイルヴァに対して、ロランはあたふたとしていた。
「本当にごめん、イルヴァ。嫌な事を言ったか? それとも、掴まれるのが嫌だったか?」
目の前で女の子に泣かれるなんて生まれてはじめての事だったから、ロランはどうすれば良いかわからなくなってしまっていたのだ。
そんな風になってしまうロランは、本当に心根から良い人なのだろう。
イルヴァは、そんな彼の様子をしばらく黙って見ていたが、やがて首を横に振った後、短く言った。
「じっとして」
え? と思ううちに、ぎゅっ。と、いきなり胸に抱きついてきたから、ロランは驚いていた。
「い、イルヴァ?!」
ロランの声は裏返っていた。
まさかこんな行動に出られるとは思っていなくて、赤面していた。
(ブリガンダイン《胴当て》をさっさと脱いでおけば良かった!!)と心底後悔した。
おかげで、鎧が邪魔でせっかく密着したイルヴァの胸の感触がわからない。
でも、これほど密着しているだけあって、女の子の甘い匂いだけはわかる。
(や……役得だ)とロランはじーんとしていた。
とはいえ、現状をどうすれば良いのかわからない。じっとしてろと言われてしまったし。
「あ、あの」
やがて結局、恐る恐る声を掛けようとすると。
「黙って」
また短くイルヴァに指示された。
(……なんだこれは)
ロランは突っ立っているしかできなかった。
まるで抱きつく用のぬいぐるみになった気分だ。
抱きしめ返しても良いのかな? と考えたりしたが、じっとしてろと言われた手前、硬直したように動きを止めているしかできない。
(か……肩がこる。良い匂いだ)
なんて思っているうちに、やがて、パッとイルヴァが体を離してくれた。
「……ごめんなさい」
恥ずかしそうに目を合わさないまま謝罪してきたイルヴァは、もう泣き止んでいる様子だった。
「も、もう大丈夫なのか?」
戸惑いながらもロランが聞くと、こくん、と小さくイルヴァが頷いた。
「急に泣いてしまって……見苦しいところを見せて悪かったわね。驚いたでしょう?」
「い、いや。見苦しいなんて思わない。俺が変な事を言ったのが悪かったし」
たじたじと答えるロランに背を見せて、イルヴァは歩いていくと、ぽふ、と椅子に腰掛けた。
そして膝の方を見ながら、イルヴァはゆっくり話し始めた。
「変な事は言っていないわよ。……事実だと思う。私は……強くなりたいのに。強くなり切れない自分が腹立たしくて腹立たしくて……。ジュードへの恐怖を打ち消したいのに……著名な剣闘士になった未だに、打ち消すことができない」
ぎゅっと拳を握り締めながらも、イルヴァは落ち着いた調子で話していた。
聞くなら今しかないとロランは思った。
だからロランはイルヴァの近くにある椅子を引くと、腰掛けて、向き合う形で訊ねた。
「……何があった?」
「…………」
「……十年前。何があったんだ?」
ロランの質問に。
イルヴァは体をびくっとさせる。
「わ……私は」
言葉を吐き出そうとした後、息を大きく吸い込んだ。
その記憶に触れようとしただけで、心が強く乱れてしまうのだ。
何度も口を開いては閉じるを繰り返すイルヴァを見て、ロランは後悔していた。
「……ごめん。聞かない方が良かったかな?」
しかしイルヴァは大きく首を横に振った。
「……聞いても良い。あなたには聞く権利があると思うもの。だって、私は……そのせいで、過去にあなたを殺しかけてしまったのだから」
「…………」
ロランは黙り込んだ。
それにしても彼女は責任感の強い性格をしていると思った。
何しろ、その為に。“相手に権利があるから”と、その理由の為に、これほどに勇気を振り絞ろうと努力する。
彼女のそれは、粗野とか勝気とかではなく、ただただ義務感や責任感や、そういったもので作られている形なのだということがよくわかる。
エルフらしくない振る舞いをする彼女の内側には、潔癖さや高潔さといった典型的なエルフらしさがあって、それらがこんな形で彼女の芯となって現れているのだ。
やがてイルヴァは震えを自ら押しとめると、ロランのことを見て話し出していた。
「十年前。私は今のような剣闘士ではないし、剣闘士になろうとすら思ったこともない。エルフの里に住んで、ごく普通のエルフ族の一員として過ごしていた。それを不満に思った事もないし、そのまま成長してそのまま死んでいくのだと思っていたわ」
「……でも」とイルヴァは続けた。
「何の前触れも無く、あいつは突然やって来た。赤黒い光を放つ漆黒の魔剣を持った、蒼い髪の男。……それがジュード・レムンハルという男だった。部外者のヒューマン族を里に入れて良い掟なんてどこにも無いから、もちろん大人たちはジュードを引き止めようとした。でもあいつは止まらなかった。その剣を使って、一人、また一人と……。何の感情も無く、大人たちを、皆殺しにして行った」
イルヴァの体は再び震えていた。
その時のことを思い出してか、表情を強張らせてじっと床を睨み付けるようになっていた。
「……イルヴァ」
心配になってロランが声を掛けると、イルヴァがハッとした様子になって顔を上げた。
それから一瞬だけ気が抜けた様子で微笑んだ後、ロランの手に手を伸ばしていた。
「あいつはまるで天災のような男で、悪魔の化身そのものだったわ。そのヒューマン族を敵とみなした大人たちが、武器を取り魔法を使って戦おうとするけれど、歯が立たないの。あいつの剣に掛かれば、放たれた全ての魔法が吸い取られてしまうのよ。だから誰も敵わなかった。兄も、姉も、……お父様も、お母様も」
イルヴァの手がロランの手に触れた。それがまるで助けを求めているように思えたから、ロランは彼女の手をぎゅっと握っていた。
イルヴァはそのまま話を続けた。
「村の大人たちだけでなく、屋内に隠れていた幼い弟や妹たちも、あいつの振るう剣が放つ黒い炎の舌に飲まれて死んでしまった。私は……なんとか生きていた残りの弟や妹を逃がすように言われたから、森の中を逃げたの。何もできない自分を歯痒く思いながら。でも、あいつは……追い掛けてきて。そして、私が助けようとした、弟や妹まで……その剣で切り殺してしまった。淡々と、当たり前みたいな顔をして」
ぎゅ。と、イルヴァの手がロランの手を握り返した。
「……私は……震えているしかできなかった。そんな私の顔を見て、あいつは、……笑ったの。ニヤニヤ笑って、言った。『お前は見逃してやっても良い。お前は若くて良い顔をしているから、見逃してやる』……それを聞いたとき、腹が立った! そんなくだらない理由で私の命があいつの思い通りになるんだと思ったら、腹が立って腹が立って……!! 気が付けば飛び掛っていた! でも、簡単に組み伏せられて……」
イルヴァは歯を食いしばると、俯いていた。ロランの手を固く握りながら。
「……あの時ほど力が無いことを嘆いた事は無かった。力が欲しかった! 誰にも負けないような、ヒューマン族なんか簡単に捻り潰せるほどの。泣く事しかできない私に、あいつは言った。『俺の名を覚えておけ。そして会いに来い。俺はジュード・レムンハル。俺こそが最強の剣闘士になる男。俺こそが剣王になる男だ』」
「……それでキミは剣闘士になったのか」
呟いたロランに、こく、とイルヴァは頷いていた。
そして碧い目を真っ直ぐロランに向けて、話した。
「放たれた魔法を吸い取ったヤツの剣に対抗するには、魔導士ではダメだったのよ。剣闘士なら……――身体強化の魔法なら、直に相手に向けて魔法を放つわけじゃないから、対抗する事が出来るハズだと思ったの」
それからイルヴァは左腕に刻まれている紋様に視線を向けていた。
「私は誰よりも強くなるために、この精霊刻印を刻み込んで……アイアン・ティターニアと呼ばれるまでになった。けれど恐ろしいの。たまに見る夢が……里を襲われたあの日の事に、未だに怯えている私がいる。それが悔しくて……悔しくて悔しくて。あいつを殺さない限り、私は救われないのよ。この手で殺して、そして初めて……やっと、きっと、恐怖する日も憎悪する日も来なくなる」
イルヴァは静かにそう言い切っていた。
「うん……そうか。そうだよな」
やがてロランは頷いていた。
これでようやくわかったのだ。彼女が恐れるジュードという存在が何なのか。何故、前に口付けしようとした時に、あれほど彼女が震えてしまったのか。
(……そしてそいつが俺に似ている)
そんな風に簡単に他人の人生を踏みにじってしまえるような男が、自分とそっくりだなんて、ロランはゾッとしていた。
しかもその男が……今のアイアン・ティターニアを創り上げた。その強さも、パワー型に特化した戦闘スタイルも、その悪魔のような男が原因で生み出されたものなのだ。
「…………」
ロランは無意識に唇を噛んでいた。
なんとなく、悔しいと思ってしまったのだ。
どこまでも自由で輝いていて威風堂々としていると思っていたアイアン・ティターニアが、実のところは残虐な男への憎悪によって自分自身を縛り付けている。
(……イルヴァは誰のモノでもないし、誰のモノになるべきでもないのに)
ロランはしばらく考え込んでいたが、やがてずっと自分がイルヴァの手を掴んだままになっている事に気付いて、慌てて離していた。
「ご……ごめん。ずっと触っているのは、やっぱり怖いよな。俺はジュードに似ているんだろ?」
ロランに問いかけられ、イルヴァはまじまじとロランを見た後、苦笑いを浮かべていた。
「似ていないわよ。ちっとも」
「え? でも、前は似てるって……」
「私の勘違いだったみたい。その蒼い髪や顔立ちが似ている気がしていたけれど、気のせいだったみたい。だってロランは、ジュードとは全然違うもの。表情とか、話し方とか、雰囲気とか。むしろ真反対というか……。あなたほど良い人なんて滅多に居ないものね」
そう言ってイルヴァは微笑んでいた。
こんな風に無防備な笑顔を見せるイルヴァを見ることは初めてだと思って、ロランはドキッとしていた。なにしろ彼女は、無垢で可憐な少女に見えたからだ。
「話を聞いてくれてありがとう」
イルヴァは微笑んだまま、そう言った。
「私……少しだけ、楽になれた気がする。こうやって誰かに私自身のことを話したのは初めてだから。黙って受け止めてくれたのは……あなたが初めてだから……」
イルヴァははにかんでいた。
そしてロランが見惚れているうちに、囁くような声で言ったのだ。
「……あなたが私の“ご主人様”で良かった」と。