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6.理想と現実・下

『本日、四回目のフリーマッチに挑戦する剣闘士は――あの、昨日コロッセオを騒がせてくれたダークホース! ラッキーソードのロラン・ノールドです!』


 昼一番の高々と上がった日差しの下、審査人のアナウンスに従って、ロランは舞台の上に上がっていた。

 すると客席がドヨッとどよめきの声を上げた。


「おいおい! なんで勝者様がフリーマッチなんかに出てんだよ?!」


「アイアン・ティターニアはどうした?!」


「まさか逃げられたって言うんじゃないだろうな! どうすんだよ、軟弱野郎!」


(ああ……やっぱり、そうなるわよね)


 客席に紛れながら、イルヴァは頭を抱えたくなっていた。

 わかってくれるなんて思っているのはロラン一人だけで、実際にはこの通りである。


(思ったとおりよ。この世界は野蛮と熱狂で出来ているのだから。けれどどうして……どうしてロランは、こんな世界の中で善人で在ろうとしているのよ)


 そんな志の剣闘士が。

 どんな戦いを見せてくれるのか、イルヴァは気になった。

 だからイルヴァは舞台へと目を向ける。対戦者としてではなく、観衆の一人として。


 ロランは腰の剣を引き抜くと、両手に持って真正面に構えていた。

 これから戦いが始まるというのに、野次は一向に止まる気配を見せない。


「無視決め込んでねえで答えろぉ! 鋼鉄女王はどうした!」


「怖気付いたんだろうがよ、臆病者!」


 彼らは罵る事に夢中であるようで、ロランを嘲笑う声が客席のあちこちから聞こえる。

 これではゆっくりと観戦するどころではなくて、イルヴァはだんだんと苛々してきた。


(ロランは少なくとも臆病者なんかじゃないわよ。ただ、おかしな所で意固地ってだけ。そう、ヤツは腹の立つことに、剣闘士らしさを拒否する剣闘士なのよ)


 無責任な彼らの言い草が、無性にカンに障って仕方が無い。

 そんな客席の様子お構い無しに、審査人は進行を進める。


『対する、フリーマッチの討伐対象は――猛進の牙! 《グランドボアー》です!』


 審査人の声が終わると、ガシャンと舞台の端にある鉄格子が跳ね上がるように開く。

 そこから姿を現したのは、ヒグマのように大きく、ごつごつとした角を持つ猪型の野獣『グランドボアー』だった。


 猪はぶほっ、ぶほっ、と鼻息を吹き鳴らすと、蹄で土を掻く。

 ロランは剣を握り締めたまま、目の前の野獣を見据えていた。

 次の瞬間、猪がロラン目掛けて一直線に突進してくる。


(……直線的な動きだ。捌きやすい!)


 ロランは息を細く吐くと、最小限の動きでスッと横へ重心を移動させることによって、紙一重でかわしていた。

 そのまま振り返ると、少し行った先でUターンする野獣を見ながら、腰を低く落とす。

 再び突進してきた猪をさっきと同じように横へ避けながら、ヒュ!と剣を横薙ぎに振るっていた。

 ずぶずぶと、剣身が鼻面を抉った。


「ガッ……ハ!」


 野獣は呻きながらゴロゴロと転がった後、四つ足を踏ん張って立ち上がる。

 鼻面からだくだくと血が流れ出している。


「グアアァー!」


 怒り狂ったように吼えた後、再び野獣は突進してくる。

 そんな局面にあっても、客席の野次は止まらなかった。


「なんとか言えよ! 腰抜け野郎!」


「昨日の決闘は何だったんだ?! 遊びか?! アァ?!」


「俺達の熱狂を返せッッ弱虫め!!」


(ああ……うるさい)


 イルヴァは苛立って仕方なかった。

 結局観衆たちは戦いを見る事よりも、目の前の“腰抜け野郎”が興醒めの原因を作る事の方が大事なのだろう。


「おい、聞いてんのかぁー!!」


「奴隷を出せ! あの元・女王様を見せやがれ!」


「俺たちはオメーなんかより、落ちぶれた女王様が見たいんだよ!!」


(くっ……下劣な連中め!!)


 プチッ。と、イルヴァはいよいよキレていた。


「うるっっさいわねぇ!!!!」


 とうとう我慢ならなくなって、イルヴァは大声を出すと立ち上がっていた。

 そのよく通る透き通った声に、一瞬客席が静まり返った。


「え、エルフ……?」


 どよめく観衆に、イルヴァは苛々を抑えられなかった。


「さっきから聞いていたら言いたい放題して!! 少しは静かに観戦できないの?! あんたらがどこ行ったどこ行ったって気にしてるアイアン・ティターニアはここに居るわよ!!」


「ハァ?! 何やってんだよ!!」


 目の前に居るエルフがアイアン・ティターニアと認めたら認めたで、観衆の不満はもはや止め様が無かった。


「いいご身分だな! 女王様がご主人様をこき使って、高みの見物か?!」


「力にモノ言わせて抑え付けやがって! 慣例に従えよ! 剣闘士のクズめ!」


 今度は観衆のブーイングは、イルヴァに向けられることになった。


(イルヴァ、何やってるんだよ!)


 さすがのロランも、客席の方へ思わず目を向けていた。

 その隙に野獣が突っ込んできて、ロランは咄嗟に剣で受け止めていた。が。


「うわっ?!」


 想像以上に掛かったパワーに、後ろへ吹き飛んでいた。

 背中から地面へと落ちるロランの元へ、血をだらだら垂らしながら野獣が突進してくる。


(クソッ……気が逸れた!)


 そんなロランの姿が視界の端に入り、危ないと思って、イルヴァは思わず石の手すりから身を乗り出すと叫んでいた。


「ロランっ、集中して!!」


 だが次の瞬間、客席から伸びてきた何者かの手がイルヴァの腕を掴む。

 そして観衆の山の中へと、イルヴァが引きずり込まれる様をロランは見てしまった。


「な……!」


 絶句するが、ロランは迫って来る野獣の気配に気付くと、脇へ転がってなんとか避けていた。

 そしてすぐに立ち上がると剣を構え直す。


(なんでだよ……なんでだよ!!)


 ロランは焦りを苛立ちを覚えながら、目の前の野獣を睨み付けていた。


(なんだって言うんだ……剣闘士の慣例がなんだっていうんだよ!!)


 ロランは地を蹴ると、野獣へ切り掛かっていた。





 イルヴァは冷たい石の床に背中を打ちつけたが、痛みを無視して自らを引き倒した見知らぬ男を睨み付けていた。


「なにするのよ!」


 だが観客の方も腹を立てている様子で、イルヴァを上から睨み返してくる。ぐるりとイルヴァを取り囲む彼らの数は、何十人も居る様子だ。


「見損なったぞ……アイアン・ティターニア!」


「知っているか? 奴隷階級者には人権の保障が無いんだぜ」


「増してやお前は、ヒューマン族ですらないエルフ族。俺たちがみっちりと、奴隷の振る舞いってモノを叩き込んでやろうじゃないか」


 彼らは興奮した様子で目をギラつかせている。


 普段手出しをしてこない観衆だが、今の彼女は鎧を着ていない上に武器も無い。その上、たった一人しかいない。更には裁かれる法律も無い。

 いや、実際には、所有者であるロランが声を上げれば犯罪にはなるだろう。しかし今の我々は教育という大義名分があるのだ。腰抜けに変わって、不良の奴隷の根性を叩きなおしてやるのだ。それなら所有者も怒りはしまい。

 その事がまるで錦の御旗のようになって、彼らの罪悪感を奪っていた。


「くっ……」


 イルヴァは、自らの左手へ目を向けていた。

 その白い腕には、刻印が幾重にも折り重なるように刻まれている。


魔力マナは……半ばほど戻ってる。この精霊刻印スティグマにマナを通せば、一般人なんて何人束になろうが雑魚でしかない。でも……)


 イルヴァを躊躇させる理由があった。

 剣闘士が一般人に対して暴力行為を働くと、重罪として扱われてしまうのだ。


 その時、耳に審査人の声が届く。


『決着が付きました! 勝者――ロラン・ノールドです!』


 それを聞いた時、イルヴァはホッとした。


(……良かった。生き残ったみたいね)


 イルヴァは左手をぎゅっと握り締めていた。


(後の問題は……こっち)


 精霊刻印スティグマを使う? 使わない? と自問自答しながら、イルヴァはふっと笑っていた。現状が無性に馬鹿げているように思えたからだ。


「それにしても滑稽ね。だって普段ならビクビクして近付いてすら来ないような連中が、今になってこうして私を取り囲む。……勝てると思っている? 鎧が無いから? 武器が無いから? ……ハッ。臆病者の能無し連中が。お笑い種よ」


 イルヴァは本気で嘲笑うような表情を向けていたから、観衆たちの半分は尻込みした様子を見せ、もう半分は頭に血が上った様子になった。


「なっ、なに言ってるんだ! 大体、慣例の一つにも従えやしない、能無しの剣闘士にゃ言われたくないな!」


 観衆の一人に言い返されて、イルヴァはムッとしていた。


(誰のせいだと思っているの)そんな不条理を感じたせいだ。


 その時だった。


「何してるの、あんた達!」


 空を吹き抜けるような清涼の声が、天から降ってきた。

 文字通りそれは天空から掛けられたものだった。


 どよめく観衆を飛び越えて、羽ばたき一つ空中からイルヴァの前に降り立ったのは、ガルダ族の少女だった。

 赤色の紐でポニーテールに結われた黒い髪と、黒目がちな瞳。そして鳶のような翼を背に持ったその少女は、風変わりな格好をしている。白と赤のグラデーションをした、東方の民族衣装を身にまとい、細かな板が折り重なって出来ている赤塗りの東方の肩当てを身につけている。

 特筆すべきはその胸のスケールだろう。ガルダ族は元々胸元が発達しやすいと言うが、彼女に至ってはメロンでも押し込まれているのではないかと思えるほどのサイズである。


 そのため、さっきまでいきり立っていた男連中が急に黙り込むようになって、ガルダ族の少女を注視するようになっていた。


 しかし彼らが少女に手を出そうとしなかった理由は、彼女の腰元にあるだろう。

 腰の帯には湾曲した東式と直線的な西式、二つの短い剣が差し込まれていた。恐らく、彼女も剣闘士なのだろう。


 そのガルダ族は、腰に手を当てて小さく首を傾げると、見下ろすような視線をイルヴァへ向けた。


「奴隷が一人きりで居るからって、さすがにルール違反でしょ。大の大人が寄ってタカってさ。こんな“か弱い女の子”を集団で暴行しようとするのは、大人がヤる事じゃないよね」


 ガルダ族の少女は腕組みをして、なんとも言えない“何か含んだような”微笑をイルヴァに向けてくる。


(げっ……ガルダ族)


 嫌な種族に出会ってしまった。と思って、イルヴァは眉をひそめていた。


「なによその目は。せっかく、私が助けてやろうってのにさ」


 少女は肩を竦めた後、観衆をぐるりと見回してから手の平を叩いた。


「ほらほら、止め止め! 客席で舞台そっちのけの行動しちゃってさ。度が過ぎたら出禁になっちゃうけど、それでも良いの?!」


 少女の言い分は尤もだと思ったのだろう。やがてばつが悪そうな表情になって、どうする?と相談している様子で彼らは互いに顔を見合わせるようになる。


 そんな彼らをよそに、少女は何かに気付いた様子で遠くの方を見て「あ」と呟いた。


「そろそろ来るみたいね。あんたの“ご主人様”が。そういうことだから、私は退散しようかな」


 そう言って少女は再びばさりと翼を広げると、さっさと飛び立って行ってしまった。

 まるで風のような少女だった。


(何、あいつ)


 イルヴァが上体を起こしてポカンと見送るうちに、“主”のために人ごみが左右へ広がって道を作るようになる。

 彼らはこの口の減らない奴隷を叱咤する主人を期待して、ロランを通したのだ。


 しかし駆け付けたロランはというと、観衆を綺麗さっぱり裏切る行動に出た。


「大丈夫か、イルヴァ?!」


 ロランは膝を折るとイルヴァの目の前まで視線の高さを落としてきたから、イルヴァは腹が立っていた。


(な、なにやってるのよコイツは……!!)


 イルヴァが苛々するのと同様、案の定観衆たちの間から不穏な空気が漏れ始める。

 あからさまにヒソヒソとされる目線を痛く感じながら、イルヴァは視線を漂わせていた。


「あ、あのねえ、ロラン? こういう時は、あなたは私をぶん殴るのよ! それで、叱咤するのよ! 多少手加減できてなくても文句言わないから!」


 ひそひそと話しかけてきたイルヴァの言葉を聞いて、ロランは怪訝そうな表情を浮かべていた。

 何言ってるんだ? みたいな顔をしていたが、間もなくハッとした表情に変わる。


「まさか、イルヴァ……」


 ……変態? みたいな目を向けられて、イルヴァはかあぁと耳の先まで真っ赤になっていた。


「っっ――そりゃ私だって、積極的にぶん殴られたいワケじゃないわよ!」


 思わず怒鳴りつけた後、しまった! とイルヴァは慌てて口を噤んだ。

 だが時既に遅く、観衆たちは苛立った目を向けてくるようになっている。


(や……やば)


 イルヴァは余計に視線を漂わせていた。

 そんな彼女の落ち着かない目線によって、やっと観衆たちが怒っている事に気付いたから、ロランは立ち上がっていた。


「あの、みなさん」とロランが声を発した事で、イルヴァは益々血の気が引く思いをしていた。


(ばっ、馬鹿! 馬鹿!)


 焦るイルヴァをよそに、ロランは観衆を見回すと言う。


「いつまでも古臭い慣例に囚われるのはどうかと思うんです。今の時代で奴隷扱いなんてあんまりだと思うし、そもそも俺はイルヴァの事が大事なんです。大切にしたいんです!」


 ロランの宣言は全く別のものとして観衆たちに伝わっていた。


(ああ……頭痛い)


 俯くイルヴァの耳に、どっという観衆たちの笑い声が刺さる。


「なに言ってんだ、ラッキーソード!」


「そうかそうか、アレか。お前、このクソエルフにホの字ってやつか!」


「なんだよーそれなら最初から言ってくれよ! “こいつは俺の女だ”って!」


「……あれ?」


 なんかヘンだな。という表情をロランは浮かべていた。


「……馬鹿ロラン」

 イルヴァはゆっくり立ち上がると、ロランの手を掴んでいた。

 そして顔を真っ赤にしたまま、ロランをぐいぐいと引っ張ると立ち去ろうとする。


「い、イルヴァ? どうしたんだ?」


 キョトンとしながらも、引っ張られるがままついて来るロランに、イルヴァは潜めた声で答えていた。苛立ちを隠そうとしないまま。


「あなたが居ると状況が悪化するのよ! 説教は後でするから、良いから帰るわよ!」


「は……はぁ」


 俺、何か怒らせるような事したっけな? なんて疑問に思いながら、ロランはイルヴァに従うことにした。





 イルヴァは部屋に着くなり、はあぁ~……とお腹の底から溜息を吐き出しながら、ベッドに腰掛けて頭を抱えていた。


「ああ……もう。どうするの……。益々面倒臭い状況になってるじゃないの」


「……ごめん」


 ロランは謝っていた。

 少なくとも、今回の件でイルヴァに負担を掛けまくってしまった自覚ならあったからだ。


「危ない目に合わせてしまった。まさかあそこまで観衆が怒るなんて思わなかった」


 ロランの反省の言葉を聞いて、イルヴァは気が抜けた表情になった。


「もう……良いわよ。あなたらしいと言うか……悪気が無いことはわかってるから」


 本当に? とロランは思った。

 イルヴァならもっと大激怒すると予想したのだが。

 だというのにイルヴァは、思いの外怒った様子が無い。


「こうなってしまった以上、これからの事を考えなくちゃ。益々、町中を歩き辛くなってしまったけど……」


 イルヴァの苦々しい表情を見て、そういえば、観衆に何か変な事を言われたよな。と思い出していた。


「……なんであの人たちは、イルヴァのことを俺の女だなんて言ったんだろう?」


 途端、イルヴァは呆れ返った表情になってロランのことをじっと見てくるようになった。


「……馬鹿ね、あなた」


 端的にそれだけ言われ、ロランはキョトンとしていた。


「俺が何かしたのか?」


「したっていうか、九割九分! あなたの発言のせいよ、馬鹿ロラン! あの場であんなことを言ってしまったら、誤解を与えるに決まっているでしょ?」


 語気を強めるイルヴァの言葉の意味が、ロランにはわからない。


「どんな誤解だ?」


 首を傾げるロランに、イルヴァはやれやれといった様子で首を横に振った後、わかりやすいように説明していた。


「あのねロラン? そもそも、彼らにとって慣例に従うことは当たり前の事なのよ。そんな中であなたは、私を“奴隷扱いしない”と宣言した。増してや、“大切にしたい”とまで言い切ってしまった。それってどういう意味かわかっているの?」


「んん……?」


 不思議そうな顔をするロランを見て、まあ、そりゃそうよね。とイルヴァは思った。

 そもそも理解できるなら、端から理解しているだろう。


「私には拒否権が無い。あなたは私を“手込め”にしたいと考えている。……という形に、観衆には映っているのよ。だから……つまり、その」


 イルヴァは頬を赤らめると咳払いしていた。


「あなたはあの場で、私のことを“愛人だ”って宣言したも同然なのよ」


「……んん?!」


 ロランは赤面していた。


「そ、そんなつもりは……!」


 慌てて両手を振るロランに、イルヴァは溜息をついていた。


「……わかっているわよ。でも、まあ、そんな風に映ってしまった以上、その通りにしなければ嘘になってしまうわよ。そもそも、今日のフリーマッチだって彼らが怒りを収めてくれた原因は、あなたのその宣言にあるのだから」


「俺、もう一度行ってくるよ。そして誤解を解いてくる!」


 そう言ってくるりと背を向けたロランを、慌ててイルヴァは引き止めていた。


「待ちなさいよ! あなたが行くと益々話がややこしくなっちゃうでしょうが!」


 イルヴァはロランに駆け寄ると、ぐいと腕を引っ張ったので、ロランは振り返っていた。


「じゃあどうすればいいんだよ……」


 しょんぼりするロランに、イルヴァは強く腕を掴むと言っていた。


「……良いから、黙っているしかないでしょう? これ以上誤解を広げられても困るし。このまま行くとお仕舞いには結婚しなくちゃいけなくなるわよ、私たち! そんなの、まっぴらごめんよ。奴隷契約は一回月が変わった後は再決闘で終わりにできるのに、結婚なんて羽目になってしまうと永遠に終わらなくなってしまうでしょう?!」


「む……困ったな」


 呟いたロランに、「でしょう」とイルヴァは何度も頷いていた。


「少なくとも愛人扱いのうちは、奴隷契約の範囲で済むのだから。これ以上傷を広げてはいけないわ。わかった?」


「あ……ああ」


 ロランは頷いていた。

 大丈夫なのかそれで? と思いながら。


(とは言え、俺のせいなんだよな)


 良かれと思ってした事が裏目に出てしまった気分で、ロランは落ち込んでしまった。


「はーあ……なんでかな。誰かを守りたくて剣闘士になったというのに、誰も守れやしないな」


 ぼやきながらダイニングチェアの方へ歩いていってロランは腰掛けていた。


「は?」と思わずイルヴァは訊ねていた。

 今のはとてもじゃないけどスルーできない発言だった。


「なにそれ? 守りたくて剣闘士って……え、正気?」


 イルヴァの怪訝そうな目を見て、そこまで言うことはないじゃないか。とロランは思った。


「なんだよ。俺、何か変な事でも言ってるか?」


「言ってる!」


 即答だったため、ロランはガックリときていた。


「なにそれ。なんなのよそれ。最初から変な剣闘士だとは思っていたのよ。あなた、剣闘士をなんだと思ってるの?!」


 ギョッとした表情のままイルヴァに聞かれたのはそれで、ロランは戸惑いを覚えていた。


(そこまで言われるようなことかな)


 そう思いながらも、ロランは答えていた。


「そりゃあ、……そうだな」


 ロランの脳裏に浮かんだのは、父の姿だった。

 今朝夢で見た父。大きくて逞しくて……そして優しい。

 幼い自分に夢を与えてくれて、母を大切にしてくれて、誰よりも暖かかった父。

 自分も彼のようになりたいと、そう思ったから。


 ただ……父は居なくなってしまったけど。そもそも年に一度会えるかどうかという関係だったから、詳しく父の事を知っているかと聞かれたら、そうでもないのだ。


 ――馬鹿な子供だ。


 そう言われた記憶が、胸に刺さる。


「…………」


 ロランは黙り込んでいた。


 剣闘士をなんだと思ってるの?

 改めてそんな風に聞かれると――曖昧な回答しかできそうにない自分に気が付いた。

 しかしやがてロランは、自分の持っているぼやけたものを探り探り言葉にしていく。


「……強くて優しいヒーローみたいなものかな。剣闘士は、俺にとって……そんな存在だよ」


「なによそれ」とイルヴァが言った。


 彼女は納得していない様子だったので、ロランは続けた。


「父がそんな剣闘士だったんだよ。強くて優しい剣闘士で、俺に剣を教えてくれたのも父なんだ。まあ……父は俺に、衛兵になった方が良い。なんて言ってたけどな」


 そう言って笑うロランの姿に、イルヴァは呆れ返っていた。


「……でしょうね。私も同意よ。あなたのお父様に、心底同意するわ。大体あなた、剣闘士のなにを見ているの? 強くて優しい? そんな剣闘士がこの世の中にいるわけないでしょ?」


「でも父はそうだったよ」


「そう見えていたのだとしたら、あなたの目はとんだ節穴よ!」


 イルヴァは腰に手を当てて、キッパリとハッキリと言っていた。

 そんなイルヴァに、ロランは首を横に振っていた。


「でも、キミだってそうじゃないか」


「はぁ?」とイルヴァは眉間にしわを寄せていた。


 こいつの目はとんだ節穴に違いない。と思ったから、思わず語気を強めていた。


「剣闘士である段階で、優しい者なんて居るものですか! 優しいならね、武器なんて抜く道は決して選ばないわよ。だってそうじゃない。剣闘士である以上、誰かを殺さなければ舞台に上がり続けることはできない。罪も何も無い相手を殺す事と剣闘士という職業は、イコールなのよ」


「……でも俺は!」


 ロランは思わずイルヴァのことを睨み付けていた。


「俺は誰も殺さない剣闘士を目指しているんだ」


 ロランはそう言っていた。

 イルヴァは心の底から溜息を吐き出していた。


「はあぁ……なにそれ。馬鹿。ホンモノの馬鹿よ……ロランは」


 イルヴァは諦めた様子で首を横に振った後、元通りベッドの所へ行くと、ぽふ。と腰掛けていた。そうやって、気が抜けた様子で肩を落とすようになった。


「本当に……馬鹿な人」


 呆れ返った様子の、そんなイルヴァの呟きは、きっと。


(……きっと、父と同じことを言っているんだろうな)


 ロランはそのニュアンスに気付いていた。


 でもだとしたら、何故。


 何故、イルヴァも父も同じことを言うのか。

 二人ともロランにとって、一番憧れているヒーローみたいな存在なのに。

 その一番の憧れが、二人してロランの意見を否定する。


「…………」


 考え込んだ表情になるロランの姿を、イルヴァは黙って見つめていた。


(……ホンモノの夢想家なのね。ロランという人間は)


 イルヴァにとって、これほどに呆れ果てた剣闘士と出会うのは生まれて初めてだった。

 それに……これほどに純粋で善良な剣闘士と出会うのも。


 ロランはずっと悩むのだろう。悩みながら剣を振るい続けるのだろう。

 彼のその憧れと、実際の剣闘士というものは相成れない存在だから、自己矛盾を抱え続ける必要があるだろう。


(でも……このまま彼が剣闘士を続けたら、どんな風になるのかしら?)


 イルヴァはそれが気になっていた。

 野心も貪欲さも無い剣闘士が、舞台に立ち続けるなんて普通なら不可能だろう。

 前に彼はイルヴァのことをファンだと言っていたけど、それは違うと思った。


(……私こそ。私の方こそ、ロランの存在を眩しく思う。彼は私のように……世の中を憎んでいないし、歪んでも、汚れてもいないのだから)


 イルヴァは俯くと、溜息をついていた。

 そして今は彼をそっとしておくことを選んだ。

 だってその悩みは、彼自身が結論を出すべきだからだ。


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