48.東方と東方・下
ロランとクレハが連れたって町を歩くのは初めての事だった。
そのせいか、変に意識をしてしまう。――大体、周りの視線が変に痛い。
とっくにロランは有名人になっているから、もちろんロラン目当てで視線を向けてくる人も少なくないが、彼らが次に目をするのはクレハの姿である。
クレハはただでさえ人の目を引くスタイルをしている上に、今は明らかに胸を強調するような、ぴちぴちに弾けそうなブラウスを身に着けている。そのせいで、ジロジロと舐めるような視線があちこちから来るのだ。イルヴァとはまた違った視線である。
(こ……これは、まずくないか?)
ロランは自然と足早になっていたため、遅れそうになったクレハがロランの手を引っ張るようになった。
「もう……ロラン、歩くの早いよ?」
そう言って、ムッとした様子で横から顔を覗きこんできたクレハを見て、ロランは慌てて立ち止まっていた。
「あっ――ああ、ごめん。でもだな……」
落ち着きなさそうに周りの視線を気にするロランを見て、クレハはピンと来ていた。
「ロランってもしかして、デリケート? 周りの視線が気になるなら、有名剣闘士の宿命だと思って諦めた方が良いよ」
「いや、そうじゃなくて」と言ってロランは苦笑していた。
「俺が気にしてるのは、どちらかと言うとクレハの方なんだが……」
ロランの言葉を聞いて、やっとクレハは真意を理解していた。
「……ああ」と言って、微笑むようになる。
「まあ、いつもの事だよ」
そう言って歩き出したから、ロランもまたクレハの隣を歩く。
「いつもって」
ロランは困惑していた。
「嫌にならないのか?」
ロランの素朴な疑問に、クレハは苦笑いを浮かべていた。
「慣れっこだよ。まあでも、世の中の人なんて大体がこんなものだし」
クレハは肩が当たるほどロランに体を寄せると、小さな声で話していた。
「みんな探しているんだよ。自分の益になるモノを。それが私のカラダと言うなら、むしろ世の中って簡単に出来てると思わない? だって、欲望は弱味になるんだよ。つまり私は簡単に弱味を掴めるの。特権だよ」
にっこり笑いながらクレハが話したことに、ロランはビックリしていた。
思った以上に彼女は狡猾な性格をしているんだと痛感したせいだ。
「……キミってやつは」
ぼそ、と呟いたロランに、「嫌な女だと思う?」とクレハが聞いてきた。
「いや、その」
ロランは戸惑った後、結局、素直な気持ちを答えていた。
「……本当にそれで良いのかな? って思って」
「そうだね」と、思いの他アッサリとクレハは頷いた。
「嫌になる事の方が多いよ。だから私は、駆け引きが要らないロランが好きなんだよ」
サラッとそう言ったクレハの言葉に、ふうん。とロランは一瞬聞き流した。
そしてすぐに、ぶっと吹き出していた。
「す、好き?!」
ロランの顔は真っ赤になっていたから、それを見てクレハは「あはは」と笑っていた。
「ビックリしすぎだよ、ロラン。大丈夫大丈夫、ちゃーんとイルヴァに返すから」
そう言った後、クレハはロランの腕に自分の腕を絡めていた。
「でも、今日だけは私のロランで居てくれるよね?」
にこっと微笑みかけてきたクレハの胸が、ロランの腕にギュッと押し付けられる。
その豊満な感触に、ロランは思わず、ごくりと唾を飲み込んでいた。
(つ……つまり、この胸が今日だけは俺のモノってことなのか?)
一瞬グラッとなりかけたが、ロランは慌てて首を横に振っていた。
「だ、ダメだ、ダメだ! イルヴァを裏切ることなんて、俺にはできないよ!」
「わかってるよ」とクレハは微笑んでいた。
「でも今日は私に対するお詫びなんだよ。わかってるの?」
「うっ……」
ロランは黙り込んでいた。
彼女に不要な恥をかかせてしまった以上、それを言われると強く出られないのだ。
「――まあ」と、クレハは笑ってロランの腕からするっと手を離していた。
「途中からは冗談なんだけどね?」
「っ……――?!」
ロランは絶句していた。
(ど、どこからが冗談なんだよ?!)と内心で叫んでいた。
クレハがまず最初に訪れた場所は、服屋だった。さすが首都の服屋だけあってかなり広い作りになっており、木製のハンガーラックに吊り下げられる形で所狭しと服が並んでいる。
「ロラン、こっちこっち!」とロランの手をクレハが引っ張っていった先は、民族衣装のコーナーである。
そこでは各種各国の衣装がずらずらと並んでいて、異国情緒を醸し出していた。
「んーっと、東式は……――あ、あった。ここだね」
クレハが見つけた先にあった衣装は、両手をめいっぱい広げた程の範囲にしか無かった。といっても、それでも数十着は並んでいるだろうが。
選び始めたクレハの姿を見て、ロランは疑問を尋ねていた。
「どうして東式にこだわるんだ? ブレイディアで一般的な服を見繕った方が、種類が多いし色んなデザインがあるぞ」
すると振り返ってきたクレハが、やれやれと言いたげに首を横に振った。
「ロランはわかってないなー」
「え?」
「コロッセオ《闘技場》に私の試合を見に来るお客さんは、何を期待してると思うの? 西式かぶれのクレハではなく、“東式の剣闘士クレハ”を期待してるんだよ。つまり、衣装選びから既に“剣闘士”は始まってるんだよっ!」
グッと拳を握るクレハの姿に、ロランは妙に感心してしまった。
「おお……! プロ意識が高いな……」
「……というか、ロランがプロ意識低いんじゃない?」
クレハは唇を尖らせながらも、衣装選びを再開していた。
「プロ意識の低いイルヴァなんかを模範にするからだよ。今のロランの戦い方って、アイアン・ティターニアを意識してるでしょ?」
クレハの指摘に、ロランはギクッとしていた。
「な、なんでわかるんだよ?」
「見れば誰でもわかるよ。まあ確かに、ロランナイズはされてるけどさ」
そう言ってクレハは笑った。
「きっと、他のお客さんだって、ロランの戦い方の後ろにイルヴァの面影を見ていると思うよ。だからみんな、続々とロランのファンになってるんだと思う。……まあ、剣闘士の“意志”を見に来るのもお客さんの楽しみだから、イルヴァやロランのような剣闘士に、ファンがつくのってわからなくもないよね」
話しながらクレハは衣装を選んでいたが、やがて「……あ」と、一着の着衣を手に取るようになった。
「これなんかどうかな?」
そう言ってクレハが体に当てて見せてきたのは、紅葉模様が入った紅い民族衣装だった。
「……――ほう」
ロランは思わず感嘆の声を零していた。
赤い色はクレハに本当によく似合うと思ったからだ。
まさにこれこそが、彼女の二つ名が“スカーレットデーヴァ《東方の紅き女神》”である所以だろう。
「良いんじゃないか?」
そう答えたロランに、クレハは唇を尖らせていた。
「ほんとにもう……ロランは本当に、女心に鈍いよね?」
クレハの言葉に、ロランは戸惑いを覚えていた。
「なっ、なんでそうなるんだよ?」
「だって、もう少し気の効いた言葉が言えないの? 例えばさ、よく似合ってるよ。とか、可愛いよ。とか」
「…………」
ロランは赤面して黙り込むようになった。
そんな恥ずかしいセリフが言えるわけないだろ。と思ったからだ。
ロランの姿に、「ははーん」とクレハはほくそ笑むようになった。
「その調子だと、イルヴァにもそういうこと言ってあげてないんでしょ? あーあ。イルヴァも、こんなのが彼氏で可哀想に」
「こ、こんなのって言うなよ」
ロランはムッとしていた。自分なりに釣り合いが取れるように頑張った上での今があるつもりで居るからだ。
「はいはい」とクレハは笑っていた。
「とにかく、ハッキリとした言葉で褒めてあげないと、女の子は不安になっちゃうんだからね? そこだけ気に留めておいてほしいな」
そう言った後、クレハはロランに背を向けるようになった。
「じゃあ、私試着してくるから、ロランは待っててね」
それからクレハは店員を呼ぶと、試着室へ行ってしまった。
そんな彼女を、ロランはぼんやりと見送っていた。
(ハッキリとした言葉……か)
ロランは腕組みをして、うーんと首を捻っていた。
しばらくして、戻ってきたクレハは真新しい民族衣装を身につけていた。
紅葉模様の紅い衣服に、白い帯が合わせてあり、その帯を深紅の色をした帯紐で留めてある。
「えへへ、お待たせ」
そう言ってクレハはロランの前でくるりと回ってみせた。
「どう? 似合ってる?」
にこにこと笑顔を向けられ、ロランは、良いんじゃないか? と言いかけて言葉を飲み込んだ。しばらく考えたものの、やがて、正直な気持ちをハッキリと伝えることにした。
「よく似合ってるよ。イメージにピッタリだし、クレハの魅力が引き立ってると思う」
「……――」
クレハは一瞬、あっ気に取られた様子で息を飲んだ。
しかしすぐに我に変えると、はにかんだ様子の笑顔を見せた。
「ありがとう、ロラン」
そんなクレハの様子を見て、ロランも思わず赤面していた。
可愛いな。と思ってしまったからだ。
そんなロランの気を知ってか知らずか、クレハが腕を絡めてくるようになる。
「じゃあこれ買ったら、次行こうか?」
クレハの言葉に、ロランは赤面したまま頷いていた。
次にクレハがロランを連れてきた場所は、鍛冶屋だった。
やはり首都の鍛冶屋だけあって規模が大きく、広い石造りの工房に幾つも炉が並び、その前で職人が鎚を振るう姿が見られる。
クレハはロランと腕を組んだまま真っ直ぐカウンターへ行くと、欠けた小太刀を見せていた。
カウンターに居る見習いらしき鍛冶士は、クレハから小太刀を受け取るとうーんと呻るようになった。
「これは……東式のカタナですか。カタナは繊細ですから、修理するにはお金が掛かりますが……」
「やっぱり、そうだよね」
覚悟はしていたものの、クレハは溜息をついていた。
何しろ、衣服も買い換えて、これから鎧も買い直さなければならないのだ。フリーマッチに出ないといけないかなあ。なんて考えながら、頭の中でそろばんを弾いていた。
「――じゃあ」
おもむろにロランの方から提案していた。
「修理代は俺が出すよ」
ロランの言葉に、クレハは驚いていた。
「えっ。良いの?」
「うん」とロランは頷くと、クレハに微笑を向けていた。
「俺がやったことだし、今日はお詫びも兼ねているわけだしな」
「お詫びって」
クレハは苦笑いを浮かべていた。
「冗談だってさっき言ったでしょ? 何しろ、負けは負けなんだよ。舞台で敗北したことは、私が不甲斐なかっただけ。……まあ、それ以前にロランも十分強かったけどね」
「クレハだって強かったよ」と笑ってから、ロランは財布を出していた。
「幾らになる?」
ロランの質問に、鍛治士は傍らにあったそろばんに手を伸ばして計算をし始めるようになる。
その金額をロランは支払うと、クレハと一緒に鍛冶屋を出ていた。
「修理が終わるのは明日らしいな」
ロランが言うと、クレハは頷いた。
「じゃあ、次は鎧を買いに行こうかな。ロランは――」
「もちろん付き合うよ。今日はそういう約束だろ?」
ロランは笑ってそう言った。
無事に朱塗りの東式鎧を手に入れた後、まだ夕刻までには時間があることだし、ロランはクレハに付き合って首都を観光して回ることにした。
「一人ではこういう事ってし辛いんだよね」と言いながら、クレハはロランを評判のケーキ屋さんに連れて行ったり、観劇に連れて行ったり、その他にも他の町では見慣れないような、真新しい様々な店に連れて行ってくれた。
そんな風に遊び歩くのは、ロランにとって剣闘士になる前に母親と行った以来の事だったから、妙な懐かしさを覚えてしまった。
そうしている間にも時間はあっという間に過ぎて行き、そろそろ夕刻も近付いてくる頃になったため、最後に二人は公園に立ち寄っていた。
そこのベンチに隣り合わせに座ると、ロランは改めて隣に居るクレハに話しかけていた。
「今日はありがとう。こんな風に遊んだのは久しぶりだったから、楽しかったよ」
「久しぶり? イルヴァとはこういうことってしないの?」
クレハの質問に、ロランは苦笑していた。
「イルヴァはあんまり、遊び歩いたりしないタイプみたいなんだよな。いっつも一人で本を読んでるし、遊びに誘われたところでチェスをやるぐらいだな」
「えっ……イルヴァってインドアなの?! 意外だ……」
クレハは本気で驚いた様子で、目を丸くしながら口元に手を当てていた。
クレハのリアクションは尤もだと心底思ったから、「そうだよな」と言ってロランは笑っていた。
「剣闘士を辞めて以来、あいつ、本当に体を動かさないんだよ。大体がシャルロッタと書斎に篭ってるみたいだけどな。お陰で俺のお目付け役がライナーっておっかない文官に代わってしまってさ。シャルロッタがついて来てくれるのも、試合がある日ぐらいになってしまったんだ」
ロランの話を聞いて、クレハは笑っていた。
「イルヴァの様子を見ていると、シャルロッタも随分とおっかなそうだけど?」
「なんでもシャルロッタは、友達としては良いけど上司にすると怖いらしいよ」
「へえー、そうなんだ。確かにシャルロッタって物腰は優しいけどお堅そうだもんね」
「俺も前に怒られたことがあるけど、確かにあれはおっかなかったよ」
二人は一緒に笑い合っていた。
それからロランは両足を伸ばすと、空を仰いでいた。
「……明日はとうとう、準決勝戦か」
笑顔を消してボソッと呟いたロランに、クレハもまた真剣な面持ちになって頷いた。
「そうだね。決勝戦はデスマッチだって剣王は話してたけど……――」
クレハはジッとその黒目がちな瞳でロランの事を見つめていた。
ロランはクレハの眼差しを受け止めると、微笑して頷いていた。
「……大丈夫。俺は殺せるよ。相手はあの、残虐非道のジュードなんだ」
「……ロラン」
クレハは尚も真剣な目をロラン向けていた。
「簡単に考えない方が良いよ。人の死を感じて気持ちの良い人なんて居ない。どんな相手であっても、人は人なんだよ。そこに何の感情も過去も持たない人は居ないんだよ。きっとロランは、その状況が目の前にいざ立ちはだかった時――躊躇するよ」
クレハは手を伸ばすと、ぎゅっとロランの手を握り締めていた。
「だってロランは優しい人だから、私にはわかるんだよ。簡単だと思ってしまっていると、躊躇した状況にいざ身を置いた時にすごく心が締め付けられるんだよ。“こんな筈じゃなかった”って思って。“もっと上手くやれる筈だったのに”って思って。それが隙となり、間を与えてしまう」
まるで我が事のようなそんな言葉の数々。きっとそれはクレハが踏んできた道なのだろうと感付いて、ロランは言葉を失くしていた。
「……私の時は降参が許されたけれど、あなたのその戦いに降参は決して許されない。その躊躇が動揺になった時、それはあなたの命を奪う死神となる」
クレハのロランを見つめる瞳には、いつの間にか涙が浮かんでいた。
「……私は嫌だよ。ロランが死ぬなんて……」
「……クレハ」
ロランは気付けば、クレハの体を抱き寄せていた。すると、カツン。という鎧同士がぶつかる音がした。
きっと彼女は本当は優しい心を持った剣闘士なのだ。狡猾で抜け目無く振舞っているというだけで、心根は優しい性質を持っているのだろう。
「大丈夫だよ。俺は死なない」
クレハの髪を撫でながら、そう答えたロランに、クレハは首を横に振った。
「大丈夫なんて言わないでよ! それが心配なのに、私は……。ロランはイルヴァをやっつけて自信が付いたみたいだけど、本当に油断しちゃダメなんだよ? あんまり過信すると、足元をすくわれちゃうよ」
「うん、わかってるよ」
頷いたロランに、「だったら」と言ってクレハがずいっと顔を寄せてきた。
「ちゃんと考えてね、私の言ったことを。もし躊躇しても、それは仕方のない事なんだよ。初めての人の死を躊躇しない人は居ないんだから。あなたが情けないせいじゃないんだよ。でも、それがあなたの選び取った道で、……相手が選び取った道なの」
息の掛かるような距離で囁かれた言葉に、ロランは頷いていた。
きっとそれが彼女の踏み越えてきた道なのだろうと悟ったからだ。
だったら、それはロランにとっても重要なものなのだ。何故なら彼女はロランを“生かそう”としているからだ。
「約束するよ。俺は絶対に――生きる。って」
ロランの言葉に、クレハは頷いていた。
しばらくの間二人は見詰めあっていたが、やがてクレハの顔がゆっくり近付いてきた。
「……っ」
クレハのまつげが長い事に気付いて、ロランはドキリとして息を飲んでいた。
思わず息を止めるロランの唇と、クレハの唇が触れ合いそうになった時……――クレハがギュッと目を閉じるようになった。
「……ごめん、ロラン」
クレハが囁いたかと思うと、ゆっくりと体を離すようになった。
「こんな事しちゃダメだね。イルヴァは私の大切な友達だから……」
クレハは溜息をこぼしてから微笑んでいた。
「だから――ロランも、イルヴァを泣かせるような真似をしたら、絶対に承知しないんだからね」
そう言ってから拳を作ると、クレハはロランの胸を軽くポンと叩いていた。
「あ、ああ、そうだよな」
ロランは頷くと、クレハに微笑を向けていた。
内心残念に思ったが、それと同時にホッと胸を撫で下ろしていた。
このままだったら罪悪感に押しつぶされかねない事になっていたかもしれないからだ。
「ありがとな、クレハ」
そう言ってロランはベンチから立ち上がると、クレハに向けて手を差し出していた。
「さあ、そろそろ夕方になるから帰ろうか。送っていくよ」
「そうだね」
クレハもまた頷くと、ロランの手を取って立ち上がっていた。
そしてクレハは「今日はありがとう、ロラン」と彼に伝えていた。
そして代わりに、喉元まで出掛かっていた自分自身の気持ちを心の奥底へと押し込めるのだった。