45.対極の子・下
それから七日ほどの月日が経ち――とうとうその日は訪れたのだ。
『剣王主催・タナトス杯開幕です!!』
ワアァーっという歓声に包まれる中、審査人が声を張り上げる。
『本大会は前回に引き続き、剣王主催による、クラス無制限マッチとなります! そう――前大会で剣王が宣告した、真の息子を選ぶという言葉が今ここで現実のものとなるのです! とはいえ――剣闘士は、ブレイディア王国全員のもの! 剣王ファミリーだけが栄光を受け取るものではない!! そんな皆様の思い、わかります! よって――今ここに、皆様も納得できるよう、誰もが参加できるトーナメントが実現したのです! 息子と言えど、勝ち上がらなければ決戦の場に立つことはできません! 剣闘士の申し子らしく、正々堂々と、観衆が見守るこの舞台で戦って頂こうではありませんか!!』
そんな審査人の声を、今はただ静かに闘志を隠しながら、観衆に紛れながら聞く者の姿があった。それは――ロランである。
今日はロランは試合が無いので、衣服だけに剣を吊るしただけの格好で観客席に来ていた。
ロランの右隣にはイルヴァが、更にその隣にシャルロッタが、観客席に腰掛けている。
この席に来るまでの間に、「アブソリュート、頑張れよ!」なんて観衆にあちこちから声を掛けられたものの、腰を下ろした辺りで落ち着くようになった。
「あ、ロランたちじゃない」
空からそんな風に声を掛けてきたのは、東式の民族衣装を身につけたガルダ族の少女――クレハだった。
クレハはロランの前に降り立っていた。
「やっぱり参加するんだよね?」
クレハの質問に、ロランは頷いていた。
「――ああ、もちろん」
するとクレハはにっこり笑った。
「じゃあ、今回はライバルだね。よろしくね、ロラン」
そう言って手を差し出すクレハの姿に、ロランはあっ気に取られていた。
「……え?」
「ちょっ――ちょっと、クレハ。まさかあなたも参加したの?!」
慌ててガバッと立ち上がったイルヴァの姿を目にして、クレハは目を丸くしていた。
「って、イルヴァ……何その格好?!」
クレハがあっ気に取られるには理由があった。
それは、イルヴァがシャルロッタと同じような、文官の服を着ていたせいだ。
「……魔導士になったのよ、私」
照れ隠しにムッとしながら答えた後、「それより」とクレハに詰め寄った。
「剣王主催の大会に参加するなんて……無鉄砲すぎるわよ! 剣王が今度はどんな特別ルールを差し込んでくるか、わかったものじゃないわよ?!」
「良いの、良いの」とクレハはケラケラと笑っていた。
「どうせ、私は無関係な“雑多な剣闘士”だし。剣王主催の大会って賞金が良いんだよね。――それに」
クレハはロランのことを見ると、目を細めていた。
「一度あなたと手合わせしてみたかったんだよね。ザンテツを使うあなたの強さを――舞台の上で確かめてみたかった」
「そうか、クレハ」
ロランは微笑んでいた。
一度は師として教えてくれた人と戦うことは、ロランとしても嬉しいことだったせいだ。
「ちょっと……二人とも?」
イルヴァは困り果てた表情を浮かべていたから、クレハが振り向いてきた。
「なになに? 剣闘士を止めた途端、随分と保守的になったんだねーイルヴァは。でも、剣闘士であるからにはやっぱり、危険に立ち向かってこそだと思わない? ま、“剣闘士じゃない”イルヴァにはわからない世界だろうけど」
そう言って笑顔を向けてくるクレハの姿は、あからさまに挑発しているように見えたため、イルヴァは腹立たしくて仕方なくなっていた。
「あっ、あのねえクレハ!! 私だって……!!」
思わず噛み付こうとして身を乗り出したイルヴァを、「まあまあ」と引き止めたのはシャルロッタだった。
「文官が声を荒げて喧嘩をするものではありません。みっともないですよ?」
シャルロッタは穏やかな笑顔を湛えてそう言ったが、イルヴァには穏やかそうには見えなかったらしい。
「は……はい」と引きつった笑顔と共に頷いた後、イルヴァは元通り椅子に座るようになった。
「宜しい」と微笑むシャルロッタの姿に、クレハは思わず苦笑いを浮かべていた。
「あらら……イルヴァ、少し見ない間に随分と調教されたんだね……シャルロッタに」
「……そういう言い方しないでくれる?」と、イルヴァは恨めしそうな目をクレハに向けたが、どうやら怒鳴り返すような事はしない様子だ。
そのことをつまらなく思いながらも、クレハもまたロランの左隣に着席していた。
その時丁度、『それでは、まずは主催者である剣王の挨拶です!』と審査人が言った。
マティアスが門をくぐり舞台の上に上がると共に、客席のざわめきが徐々に静まって行く。
マティアスは舞台の中央で、両手を広げると「諸君!!」と叫んでいた。
「今日はお待ちかね、真の頂を極める者を明かすべく行われる大会――タナトス杯だ!! そしてこれは、真の俺の後継者を見極めるべき大会でもある!! その大会が何故、死という名前を冠しているか? ――それは決勝戦まで勝ち進んだ者に適応される、この大会独自のルールにある! それこそが――」
マティアスはニヤリと笑うと、告げていた。
「デスマッチだ!!」
次の瞬間、観客席がざわめき立つようになる。
そんな彼らをぐるりと見渡した後、マティアスは腕組みをしていた。
「デスマッチ――それは降参が許されない試合!! 文字通り、どちらかが死に至るまで続けられる、己が命を賭した真剣勝負だ! そんな激戦を乗り越えてこそ――頂に立つに相応しい!!」
マティアスの言葉の後、会場はしんと静まり返ったが――間もなく、大きな拍手の音と歓声が響き渡るようになる。
「剣王――やるじゃないか!!」
「この大会、楽しくなりそうだぜ!!」
そんな観衆たちの賞賛の声を浴びながら、マティアスは満足げな笑みを浮かべていた。
「この大会に参加する勇士たちは、決勝戦以外であるからといって降参などと軟弱な負け方をするような、腑抜け者ではないことを祈っている! 是非とも、俺を失望させない戦いを繰り広げてくれ!!」
それから、「……以上、健闘を祈る」と言い残してマティアスは舞台を後にした。
『以上――剣王からの挨拶でした!』
そんな審査人の声を聞きながら、「ほー」とクレハが感嘆の声を漏らした。
「今回はこんなルールにするんだね。……意外と豪胆じゃない」
「……これって……」と、イルヴァがシャルロッタの方を見ていた。
「はい」とシャルロッタは頷いた後、イルヴァに答えた。
「大会参加者全般へのメッセージを装った、ジュード宛てのメッセージでしょうね。“降参するような腑抜け者は失望するぞ”という。……いずれにせよ、これで退路は絶たれましたね」
それに対して頷いたのは、ロランだった。
「そうだろうな。ジュードは……ヤツは、父親に認められることに執心した様子だった。死んでも失望されるような真似はしないだろうな」
シャルロッタは「はい」と答えていた。
「一応、剣王も我々との約束を守る気があるようなので……まあ、我々の目があるとわかっているせいかもしれませんが。しかしひとまずは、安心でしょうか」
「……クレハ」と、イルヴァがクレハの方に視線を向けるようになった。
「無理をしてはいけないわよ。剣王が何を言ったところで、あなたには関係の無い話なのだから」
イルヴァの瞳は真剣な様子だったから、クレハは笑っていた。
「言われなくても、わかってるよ。私は単純馬鹿なアイアン・ティターニアと違って“狡猾”なんだよね」
「…………」
ムッとしながらも沈黙したイルヴァの様子に、クレハは「ごめんごめん」と慌てて謝っていた。
「とにかく、安心して。頼まれたって無茶な事はしないから」
そこまで言ってから、「――あ、でも」と、思い出したようにクレハが言い足した。
「もしも私がロランよりも先にジュードとかいう人に当たったら、私が殺しちゃっても良いんだよね?」
クレハの飄々とした質問に、イルヴァは思わず笑みを零していた。
「……そうね」と、イルヴァは頷いていた。
その時、『――それでは!』という、審査人の声が聞こえた。
『注目のタナトス杯第一戦を飾る、勇ましき剣闘士たちの入場です!』
そして東西の格子門が跳ね上がった。
最初に東から舞台へと姿を現したのは、蒼い髪の男。黒色のコートの上から軽鉄製の胸当てを取り付けている軽装の剣士は、パッと見てロランと見間違うため、客席が一瞬だけどよめいた。
『東の剣闘士は――今回大会初参加です! ルーキークラス、蛮勇の申し子ジュード・レムンハル! 彼こそが剣王の正式な実子で、剣王がこれまで暖めてきた秘蔵っ子でもあります! その実力は未知数ですが、剣王が自信を持って送り込むに相応しい力を秘めている筈! 観衆の見守る前で、いかん無く発揮されることが期待されています!! そのプレッシャーを押し退けて、見事に頂へと上り詰めることができるのか?!』
『そして――』と、審査人が続ける。
それに合わせて左から舞台へと姿を現したのは、こちらはオーガ族の男だった。
その灰色の大男はオーガ族に一般的な軽装で、むき出しの上半身にズボンを履いただけの格好をしている。
手に持った鋼鉄製の長く巨大な棍をズドン! と床の上に突くと、ジュードをその赤い目で睨み付けるようになった。
『西の剣闘士は――ハイクラス、レッド・アイズ・ガーディアン《赤き目の守護者》のマントール! 東式の棍を用いた棒術の技を組み込んだ、独自の技の使い手です! その重厚な鋼鉄を使いこなす事ができるのは世界中を見渡しても彼だけでしょう! 初陣に挑む王子の目の前に、見た目に反さないであろう“格上”の高い壁が聳え立ちます!』
ジュードはマントールを見上げると、ニヤついた笑みを口元に浮かべていた。
『両者――構え!!』
審査人の声に合わせて、ジュードはその赤黒い光を放つ黒い剣身の魔剣をするりと抜き取り、両手を使って正中線上に構える。そのロランと瓜二つの構え方に、客席がどよめきの声を漏らす。
一方で、マントールは棍を両手に持ち直すと真っ直ぐにジュードへと先端を向けた。
「ヒヨッコめ」と、マントールが呟いた。
「舐めて掛かると痛い目を見るぞ?」
それはジュードのニヤついた笑みに向けられた言葉だった。
しかしジュードは笑みを深めると、「ほざけ」と一言だけ返した。
『――始め!!』
審査人の声と同時に、鐘の音が試合開始の合図を鳴り響かせる。
「フッ!」
真っ先に飛び出したのはジュードだった。
闘争心を剥き出しにしたギラついた目をマントールに向けながら、一直線に駆け寄る。
「ふんっ!」
マントールは棍を横薙ぎにブルンブルンと振り回した。
それをジャンプしたりしゃがんだりと避けながら、まるで獣のような俊敏さで一気にジュードが間合いを詰める!
「グッ……――?!」
(これが“申し子”か……!!)
マントールは棍を体に引き寄せると、ジュードの切り込んできた剣をガキン! と受け止めていた。
「――ムンッ!」
大降りに棍を振ってジュードが後ろへ飛び退いたのを見ると、すぐさまマントールは上段からジュード目掛けて棍を振り下ろす!
「のろまなデカブツだな!」
そう言いながら、ジュードは横に転がることで落ちてきた棍をかわしていた。
ゴッ! と棍が床を叩きつけ鈍い音を上げた後、マントールはジュードを睨み付けていた。
「生意気な口を利きやがって……!!」
マントールは棍を振り回していた。
「その傲慢な口を叩き潰してくれる!!」
そして、ブンッ! と大振りに再びジュード目掛けて棍を叩き込んだ!
ガキィン!
ジュードは剣を立てて胸の前で棍を受け止めるが、その衝撃でジュードの体は後方へと吹き飛んで行く。
「このまま砕け散れッ!!」
マントールは吹っ飛ぶジュードを追いかけるために前へ出た。
その時、ジュードがニヤッと笑ったかと思うと、剣を両手で持ち上げ――そして振り下ろしたのだ。
次の瞬間、ゴオッ! と漆黒の炎が剣から伸びて行きマントールの体に絡みつく。
「ウグッ?! ガガッ……なんだ、これは……!!」
マントールはその場に膝から崩れ落ちていた。
黒い炎に絡みつかれた全身が、まるで毒でも行き渡らせるかのように、焼けるように痺れて全身の自由を奪う。
その場にひれ伏して動かなくなったマントールの元に、壁を蹴ってストンと着地したジュードが、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「――悪魔の炎。ヘルファイアと俺は呼んでいるが……――」
ジュードは剣を正中線上に構え直していた。
「ジ・エンドだ」
そして次の瞬間、ヒュッ! と剣が振り下ろされる。
「ガッ?! あ……――」
後にはコーコーという風が喉を通る音だけが残された。
あ然とした表情を浮かべたままのマントールの顔が、ごろりと床に転がって血の染みを広げて行く。
――そう。ジュードは、鋼鉄のように固いオーガ族の頭を切り落としたのだ。
『しょ、勝者――蛮勇の申し子! 蛮勇の申し子、ジュード・レムンハルです! なんと、本日舞台に上がったばかりのルーキークラスが!! ハイクラスの剣闘士をアッサリと――打ち負かしてしまいました!!』
次の瞬間、ワアァァッ!! と会場中に歓声が広がって行く。
「さすが剣王の息子だ!!」
「やるじゃないか、ジュード!!」
そんな賞賛の声の中、イルヴァは眉を潜めていた。
「ジュード、あいつッ……!!」
イルヴァが歯軋りするには理由があった。
ジュードは事切れたマントールを見下ろし、笑っていたのだ。
ただ誇らしげに、嬉しそうに、満足げな笑みを浮かべていた……。
「……殺しを愉しんでいるね」
クレハもまた険しい表情を浮かべながら呟いていた。
「でも、どうしてイルヴァがそこまで嫌悪するのか……とてもよくわかる試合だったよ」
溜息をつくクレハに、シャルロッタが疑問を投げ掛けていた。
「ですが……剣闘士は誰でも試合相手を殺す事はありますよね?」
「確かにね」とクレハは頷いた後、「――でも」と続けた。
「剣闘士なら誰だって敗者には敬意を持っているんだよ。もちろん、そうじゃない人も居ないわけではないけれど……」
「――そうよ」
イルヴァはクレハに同意するようにして頷いていた。
「確かに剣闘士の舞台というものは、人の死の上に成り立っているわ。けれどもそこには信念があって、覚悟があるものなのよ。あんな快楽殺人者とは同じにしないでほしいわね」
そう言った後、「……それにしても」とイルヴァはギリッと歯を噛んでいた。
「剣王は随分なモンスターを育て上げたじゃないの……ああいうヤツって、案外難敵になるのよね……」
イルヴァが不安げな視線を向ける先には、ロランの姿があった。
ロランは黙り込んだまま、既にジュードが退場した後の舞台をじっと睨み付けるように見据えていた。
「……ロラン?」
イルヴァが声を掛けると、ロランはハッとした様子でイルヴァの方を見るようになった。
「あ……ああ、ごめん。何か言ったか?」
「いいえ。何か考え事?」
イルヴァの問い掛けに、ロランは再び真剣な表情になると頷いていた。
「……一半だった」
「……え?」
「ジュード。あいつがザンテツの太刀を振るうまでに掛かった秒数だよ」
ロランの言葉によって、イルヴァもクレハもシャルロッタも全員が黙り込んだ。
――何故なら。
「俺は……およそ二秒掛かる。あいつは……――格上だ」
ロランのその言葉が全てを物語っていた。
そう。ジュードが今しがた舞台で見せた動き、技、パワー……どれもがロランの上を行っているように見えた。
「……ロラン」
気付けば、イルヴァがぎゅっとロランの手を握っていた。
イルヴァの碧眼を受け止めて、ロランは小さく微笑んでいた。
「うん……。とりあえず、ここを出ようか」
ロランは背中を伸ばした後、やっと立ち上がっていた。
「これから対策を考えなければなりませんね」
歩きながらシャルロッタがそう言った。
「それなら、私も協力するよ。私にとっても他人事じゃないからね」
クレハもまたそんな風に言った。
「ありがとう、クレハ」とロランは笑って礼を言っていた。
そして前を見据え、再び表情を消すようになった。
「……ジュード・レムンハル」
(俺が絶対に……――勝ってみせる)
ロランはそんな風に固く胸に誓うと、繋いだままのイルヴァの手をぎゅっと強く握り締めていた。
その後、ソードパレスにある、いつもロランが剣の練習をしている庭の訓練場に集まると、四人はベンチに座って、さっき見た試合を元に意見交換をした。
「ジュードはやっぱり、親父に剣を学んだんだろうな」
そう言ったロランに、「そうだろうね」と同意を示したのはクレハだった。
「構え方、身の使い方、技……どれを取ってもロランと同じだったし。まあ、だからこそ難しいんだけど……」
「……そうね。同じ技同士がぶつかると、単純により強い方が勝つのが鉄板よね」
イルヴァもまた頷いていた。
それに対してクレハがベンチから立ち上がると、提案していた。
「そんな時に有効なものといったら、やっぱり、ここは奇策だね」
イルヴァもまたベンチから立ち上がっていた。
「いえそこは、正々堂々と行かないと。ロランの手にだって魔剣はあるのよ?」
「えー。魔剣の力を過信するのは良くないよ。ここは私がロランに、コグソクの一部を……――」
言いかけたクレハの話を遮るようにして、イルヴァが詰め寄るようになった。
「コグソクって、クレハがいつも使うあの、相手を押し倒すやつ?! だっ、ダメダメ!」
「えーなんで?」
「なんでって、そ、そりゃっ、クレハがあんな技をロランに教えるなんて……!」
イルヴァの視線はクレハの巨大な胸に行っていたから、クレハはニヤニヤとした笑みを浮かべるようになった。
「えー? イルヴァ、一体何の心配をしてるの?」
「なっ……なにも?!」
慌てて赤面しながら視線を背けたイルヴァに、クレハはずいと顔を近付けていた。
「まさか、私が手取り足取り教えるとでも思ってる?」
「……クレハならやりそう」
ボソッと言い返したイルヴァを見て、クレハはにっこり笑っていた。
「……まあ、体に叩き込むのが武道だからね?」
「むっ――じゃ、じゃあ、やっぱりダメ! コグソクなんて要らない!」
思い切り首を横に振ったイルヴァに、「えー」とクレハは不満げに返していた。
「イルヴァだって、ロランが心配じゃないの?」
「そりゃ心配だけど……で、でも、ロランがいつも使うものと違うタイプの技と言うなら、私だって……!」
「イルヴァって元々槍使いじゃないの。剣と全然タイプが違うでしょ? そもそも剣闘士としての力を失った人が、一体何を教えるっていうの?」
「で、でも! クレハってどうせ、これにかこつけてまたロランにその肉の塊を押し付ける気でしょっ?!」
イルヴァがびしっと指差したのはクレハの胸で、クレハはムッとしていた。
「ちょっと、イルヴァ? 羨ましいからって、失礼なこと言わないでよ!」
「う、う、羨ましくない!」
いつの間にか二人でやいのやいのと言い争いを始めてしまったイルヴァとクレハをよそに、ロランとシャルロッタはベンチに腰掛けたまま、のんびりと会話を交わしていた。
「えーと……止めなくても良いのかな?」
二人を指差したロランに、「ええ」とシャルロッタは微笑んで頷いていた。
「ここは人目がありませんから、イルヴァには自由にさせておいてあげましょう。まあ……後でお説教タイムですが」
「は……はは……」
(……ご愁傷様)と内心でロランは思っていた。
ロランもまた、シャルロッタの説教時に見せる怖さを体験済みだからだ。
「……とはいえ」とシャルロッタは膝に手を置くと、溜息をついていた。
「どうやら私がここに居ても力になれそうにありませんし……今はイルヴァやクレハも居るようですから、あなたの事はこの二人に任せて、溜まっている仕事の続きでもしに行くことにします。実は今日中に仕上げなければならない書類があって……」
そう言って立ち上がったシャルロッタに、ロランは手をぱたぱた振っていた。
「ああ、行ってらっしゃい」
「はい」と言ってにっこり笑った後、シャルロッタはイルヴァに声を掛けていた。
「イルヴァ、いい加減にしなさい」
シャルロッタのやんわりとしたその一言でピタリと止まるイルヴァは、どうやらよほどシャルロッタが怖い様子だ。
「しばらくロランの目付けを任せます。後で私のところへ来てくださいね、イルヴァ」
にこにことシャルロッタに微笑みかけられ、イルヴァはだらだらと冷や汗を流していた。
「は……はい」
こくこく頷いたイルヴァにと、その後ろでキョトンとしているクレハに会釈をすると、シャルロッタは立ち去ってしまった。
「――イルヴァ」と、クレハがイルヴァの背中をぽんと叩いた。
「あのあんたがここまで萎縮するって……シャルロッタって、一体どういう人物なの?」
怪訝そうな、それでいて面白いものを見るかのような目を向けてくるクレハの方を振り返ると、イルヴァは不機嫌そうに眉をしかめていた。……が、喧嘩腰になる事だけはなんとか留めると、答えていた。
「……あのね、クレハ。穏やかな人ほど怒ると怖いのよ。世の中って、そんな風に出来ているのよ」
真剣な顔で言ったイルヴァの姿に、「……はあ」とクレハは返していた。
なんだか要領を得ない気がしたからだ。
「あんたって、ご主人様でも足蹴にしそうだと思っていたのに……」
クレハの素直な感想をイルヴァは不服に思っていた。
「あのねクレハ? 私はロランだけは足蹴になんてしないわよ」
「はいはい。まあ愛しのご主人様だもんねえ」
からかうようにクレハは笑うと、イルヴァは頬を染めるようになった。
「べ、べつに良いでしょ?」
イルヴァは否定しなかったため、余りに予想外の反応にクレハはギョッとしていた。
「な、なにイルヴァ?! ……何か変なものでも食べた?」
真剣な顔で心配されたため、イルヴァはムッとしていた。
「食べてないわよ。そんなことよりも……今はジュード対策でしょう?」
「まあ、それはそうなんだけど。だってイルヴァをからかう方が面白いんだもん~」
「あ、あのねえクレハ……」
不満げに唇を尖らせるイルヴァを見て、ロランは「あはは」と笑っていた。
「確かにイルヴァはリアクションが大きいからな」
まるで他人事のような言い草に、「ロラン?」とイルヴァは彼にジト目を向けていた。
何はともあれ、今日はこうして夕刻まで過ごすのだった。