42.新しい道・上
それからのイルヴァは文官省の取り決めによって、ロランたちと同じように文官省会館に滞在する事となった。
滞在のために、もちろん文官省は個室を与えてくれたのだが、自分に与えられた豪勢な部屋を一目見たとき、「いらない」とイルヴァは即答した。
「私はロランの部屋に居るし……」
「そうはいきませんよ、イルヴァ!」とシャルロッタは言った。
「年頃の男女が同じ部屋で寝泊りするなんて……それは道徳的にも良くありません」
「そうなの? でも私、ロランの奴隷だし」
「そもそもそれが道徳的に悪しき習慣なのです。近頃は誰も使わない制度でしたから、文官省も忘れ……ゲホンゴホン。とにかく、決闘制度の見直しは今後議会に優先的に上げるべき議題であると、文官長も仰っていました。今回の、剣王に悪用されてしまった一件もありますし……」
くどくどと言いながら部屋を歩き回るシャルロッタは、実に文官らしい文官だった。
彼女は元々文官省の中でも魔導士の管轄なので、政治的な話はあまりしないのだが、ここ最近はずっと日中ロランの監視をする傍らで、夜間は文官省本庁の仕事ばかりしているせいで、それらしい所作になってきてしまっているのだ。
「とにかくですね!」とシャルロッタはイルヴァに対して、頑とした態度で言った。
「ここに居るからには我々文官省は、イルヴァの人権を守る義務があるのです! 個人でソードパレス本宮殿へは絶対に出歩かないこと! 門限は月の一刻目まで、就寝時間は月の四刻目まで! それから、外泊は厳禁です! わかりましたか?」
「本宮殿のことは置いておいて、それ以外に関しての事は、子供じゃあるまいし……。自己管理くらい、言われなくてもキチンとやるわよ」
釈然としない表情を浮かべるイルヴァの様子を、シャルロッタは足を止めるなりじっと見つめた。
「な……なに?」
キョトンとするイルヴァに対して、シャルロッタは頷いていた。
「確かに……あなたは子供ではないようですね。精霊刻印消失後の作用として考えられていた、退行現象も無い様子ですし……。どうも、成長した体は刻印消失後も元通りとはいかないようですね」
「そうみたいね」
イルヴァは頷きながらも、気の抜けた表情を浮かべていた。
「……けれど、それでも構わないわよ。確かに私は、同じ年頃のエルフと比較すると出来ることは極端に少ないけれど……。大人として生きてきた以上、今更、子供の姿に戻ったところで、不便を感じるだけでしょうから」
「……そうですか」とシャルロッタは頷いていた。
その後、イルヴァにスッと手を差し出していた。
「イルヴァにこのような人生を歩ませてしまった極悪人ジュードを、なんとしても処刑致しましょう。今のあなたの置かれた立場は、我々文官省にも責任があります。ですから……私たちに任せてください、イルヴァ」
シャルロッタはそう言ってから、穏やかな笑顔を見せていた。
それ以来、ロランは来たる対ジュード戦のために、鍛錬の続きをする日々に戻っていった。
シャルロッタはロランのお目付け役であるため、引き続きロランの従者を勤めるし、イルヴァも当然ロランの傍に居るものだと思っていた。が。
イルヴァが初めてソードパレスの豪勢な個室で目覚めた朝、服を身につけて髪を整えている時に、コンコンというノックの音がした。
「はい?」
返事をすると、ドア越しに声が聞こえた。
「イルヴァ? 私です。シャルロッタです」
「……シャルロッタ?」
イルヴァがドアを開けると、シャルロッタが部屋に入ってきた。
「今後の事について、文官長からお話があります。一緒に来てくださいますか? イルヴァ」
シャルロッタに微笑んで言われ、イルヴァは戸惑いながらも頷いていた。
シャルロッタの後について行った先にあったのは、書斎のドアだった。
そこを開いて中に入ると、天井まである本棚が立ち並ぶ部屋の真ん中に大きなテーブルがあり、そのテーブルを何脚もの椅子が取り囲んでいた。
その椅子の中の一つに、紫色の布地に金の刺繍が入っているローブを身につけた、穏やかそうな表情をした白髪の老人が腰掛けていた。
「待っていたよ。シャルロッタに、イルヴァ……といったね?」
文官長のアスラに訊ねられ、イルヴァは頷いていた。
「まあ、そこに座りなさい」
アスラに促されるまま、イルヴァはテーブルを挟んだ対面にある椅子に腰掛けていた。
シャルロッタはテーブルをぐるりと回ると、アスラの隣に立つようになった。
「この度は我々の軽率さの結果……巻き込んでしまって、申し訳ない」
アスラがおもむろに深々と頭を下げたため、イルヴァは逆に恐縮してしまっていた。
「そ、そんな、謝ることではないでしょう?」
「いいや。剣王がロラン・ノールドに、アイアン・ティターニアを打ち負かす事を条件にした段階で、条件付けができる立場では無いと言って止めるべきだったのだ。しかし我々はその時、些細なことで剣王を締め付けすぎて反抗されるよりは、条件付きであっても聞いてくれた方が良いだろうと判断した上に、こう言っては何だが、我々としても、ロラン・ノールドの力や素性を見極めるためには格好の場所になると考えたのだ」
「――それが」と、アスラは続けていた。
「剣王があんな“埃の被った制度”を利用してくるとは思わなかった。我々の浅はかさによって、キミの立場が貶められてしまったこと。これは我々の責任でもある事だ」
「……そんな、大袈裟な」
イルヴァは釈然としない表情を浮かべていた。
「顔を上げなさいよ」
イルヴァの言葉によって顔を上げたアスラに向かって、イルヴァは話していた。
「剣闘士とはそういうモノなのよ。文官がどうとか関係無いわよ。そもそもが、みんな納得した上で、そういう世界で生きているのよ。まあ、確かにそれでも私のように奴隷を二回も経験する剣闘士なんて、なかなか居ないでしょうけれど。でもね、元より舞台の上では人権なんて無いのよ。勝つか負けるか。ただそれだけの存在。そんな世界で……そんな世界が」
イルヴァは言葉を詰まらせると、グッとその傷一つ無い左手の拳を握り締めていた。
「……確かに、この世界から排斥されてしまった事は悔しいわよ……私だって一人の剣闘士だった! けれど……私はロランの正義に負けたのよ。敗者は敗者らしく、勝者に栄光を譲り渡すのが……剣闘士なのよ」
「――だから私は、今の状況を後悔したりなんかしない」そう言って、イルヴァは真っ直ぐにアスラの目を見据えていた。
その純粋無垢な透き通った瞳は、無邪気な子供にしかできない目なのだろう。
けれど彼女はその無垢さの奥に大人びた意志を秘めている。そういう存在なのだ。
「ふむ……そうか」
やがてアスラは微笑を浮かべると、深く頷いていた。
「本当ならば我々なりの責任を取らせてもらおうと考えていたのだが……キミがそう言うなら、我々は深く関与しない方が良いのかもしれないな」
「しかし」と、アスラは続けていた。
「この事だけは考えておいてはくれないかね? 実は我々は、キミを文官省の魔導士としてスカウトしたいと思っているのだ」
深く腰掛けなおしながらアスラが言ったのはそれで、イルヴァは思わず「え?」と聞き返していた。
「だから」とアスラは繰り返した。
「キミさえ良ければ、今後は文官省に魔導士として力を貸してほしいのだよ、エルフ族のイルヴァ」
「……――」
イルヴァは驚きの余りに絶句していた。アスラのその申し出が余りに予想外だったせいだ。
「シャルロッタから話は聞いているよ。精霊刻印が消えて、これまで転換能力を失っていた魔法の力が戻っているのではないかね?」
アスラの質問に、イルヴァは戸惑いながらも頷いていた。
「確かに……そうだけれど。それがどうしたの?」
「我々にとってはだね」とアスラは話し始めた。
「エルフ族にとって何てことない、子供でも知っているような魔法学の知識であっても、喉から手が出るほどに欲しているものなのだよ。それらにはエルフ族の英知が秘められている。我々にとってまだまだ未知の知識がごまんと溢れている。キミが用いていた、精霊刻印を幾重にも刻み込む技術もその中の一つなのだ」
「あんなもの」と、イルヴァは吐き捨てるように言っていた。
「自分自身の命を精霊の生贄として差し出すようなものよ。大した技術ではないわ」
「それ以外の技術や知識も、我々にとっては貴重なのだ」と、アスラは返していた。
「キミはエルフ族の隠れ里出身である、純血のエルフだ。里での教育課程は受けていたのだろう?」
じっとアスラに見つめられ、イルヴァはやがて頷いていた。
「確かに……その通りよ。けれど、全過程を知っているわけじゃない。私が学べたのは、三分の二程度で……。後はジュードのせいで……」
暗い面持ちになるイルヴァに、アスラは頭を下げていた。
「それについても、迷惑を掛けたと思っている」
「……ッ」
イルヴァは歯噛みしていた。
迷惑なんて一言で片付けられても困ると思ったからだ。
しかし、ここでアスラを怒鳴り散らしたところで何もならないと思ったから、口に出すことはグッと我慢していた。
それに彼らは、ロランという駒を使ってではあるものの、ジュードに制裁を与えることに協力の姿勢を見せている。それが現状彼らのできる精一杯の事というなら、それ以上何かを言うべきではないのだろう。
沈黙するようになったイルヴァに目を向けて、アスラは続きを話した。
「キミにとっては我々の存在は、決して信頼に足る相手ではないかもしれん。しかし我々にとっては、エルフ族の魔法知識が得られる。キミにとっても、人並み……否、それ以上の給与が得られる仕事が保障される上、文官になると特別な身分が生まれるため、持ち主のロラン・ノールドは例外ではあるものの……それ以外については、きちんとした人権の保障もされる。これはキミにとっても、決して悪い話ではないと思うがね?」
アスラはここで話を止めると、じっとイルヴァの返事を待った。
イルヴァはしばらくの間、俯いて沈黙していたものの……――やがて顔を上げると、首を横に振った。
「悪いけど……今は先のことなんて考えられないわ」
「……やはり、ブレイディア王国に協力するのは抵抗があるか?」
苦笑交じりに尋ねてきたアスラに、「違うわよ」とイルヴァは答えていた。
「そうではなくて……未来のビジョンを思い描くことができないの」
イルヴァは溜息混じりに、自分の素直な気持ちを吐露していた。
「この先、ロランがジュードを殺してくれたとして……その先は? 一年後、十年後は愚か、その翌日でさえ、どうなるのかとか……自分が何をしたいのかとか、何も考えられないのよ」
イルヴァがこんな風に自分の後ろ向きな気持ちを吐き出せたのは、目の前の二人がさして親しい相手ではなかったせいだ。親しい相手には話せない事だからこそ、親しくない相手には話す事ができた。それに温和な雰囲気を持っていたせいで、それが余計に喋りやすさに繋がっていた。
「元々私は、ジュードさえ殺せば後は死んでも良いと思っていた。だからその後の事なんて何も考えていなくて……今だってそうよ。死ぬ以外のビジョンが思いつかないのよ」
その後イルヴァは、「私がこんな話をしていたって、ロランには言わないでね」と目の前の二人に釘を刺していた。
「……イルヴァ」
シャルロッタは悲しげな表情を浮かべていた。
「あなたが救われなければ、ロランは決して……」
「うん……わかっているわ。でも、それでも」
イルヴァは俯いていた。
「理性ではわかっているつもり。でも、気持ちがどうしても追い付かないのよ。だから……ごめんなさい」
イルヴァは二人に対して、謝っていた。
一方その頃、ロランはというと。
庭の訓練所で、訓練用の魔剣を振るっていた。
そしてヒュンヒュンと振るいながら、内心思っていた。
(や……やり辛い……!!)
ロランがそう思うには理由があった。
何しろ傍らでは、よく知らない文官が見張っているのだ。
それはもう、シャルロッタとは異なり“見張る”という言葉がピッタリ当てはまる態度だった。
黒地に青い刺繍のローブを身につけている、銀縁の眼鏡を掛けた気難しそうな灰色の髪をしたヒューマン族の青年が、眉間に深いしわを寄せながら、ジッ……とロランのことを見ているのだ。
(やり辛い!!!!)
透き通った青空の下、ロランは改めて内心で叫んでいた。
それは今朝のことだった。
軽鉄のブリガンダイン《胴当て》やゴルケット《喉当て》の手入れをしている時に、コンコンという規則正しいノックの音がした。
ロランはてっきり、今日もシャルロッタが呼びに来たのだろうと思って気軽な気持ちで「開いてるよ」と返事をした。
「それでは、失礼」
そう言って入ってきたのは、見知らぬ文官の青年だった。
ポカンとするロランの前で、青年は背中で両手を組むと背筋を伸ばして淡々と言った。
「本日、シャルロッタ・レーゼ・イェーラ・ソーサリーは別件のため席をはずしておりますので、私が代理を務めさせて頂くことになりました。ライナー・トランジット・ナレッジと申します。よろしくお願いします」
表情筋をピクリとも動かさないその様に、ロランはたじろいでいた。
「は、はぁ、よろしく」
ロランはそう答えるしかなかった。
別件って? と一言くらい聞いてもみたかったが、彼のその態度が聞くのを躊躇わされた。
そういうことで、ロランとライナーは一言も会話を交わす機会無くここまで来てしまった。
いや、実際は、気まずさに耐えかねてロランは何度か話し掛けようと試みようとした。が、勇気が出ないのだ。なにしろ、常に眉間にしわが刻まれている。
(俺、何か悪いことでもしたか?!)
ロランは内心でアレコレと自問自答したが、結局いつまでも答えは出なかった。




