39.誰が為、己が為・下
『さて――とうとうこの日がやって参りました! ソードマンズ・ヴィクター杯、準決勝戦の幕開けです!!』
客席にひしめき合う観衆たちの歓声をBGMにして、審査人の声が響き渡った。
『本日、とうとう女王への挑戦者が決まります! この聳え立つ階段を登りつめ、至高の女王の膝元へと訪れる騎士の座は、果たして誰の手に渡るのか?! ――いよいよ、雌雄を決するべく戦いが幕開けます!!』
ワーッと高くなる歓声の中に、シャルロッタとクレハの姿もあった。
今回も二人は隣同士に座って舞台を眺めていた。何故かというと、シャルロッタの方がクレハの姿をさっさと見つけて、「クレハさーん! こっち開いてますよ!」と、笑顔で呼んでくれたせいだ。
そこでクレハはシャルロッタの隣に座ると、横の彼女に話しかけていた。
「いよいよ準決勝戦だね。今日の試合はどうなると思う?」
「もちろん、ロランが勝ちますよ」
シャルロッタはニコニコして言ったから、クレハは笑っていた。
「大した自信だね。前回の試合はけっこう苦戦していた気がするけど?」
「きっと大丈夫ですよ。なにしろ、彼には絶対に負けられない“芯”がありますから」
そう言ってシャルロッタは微笑んでいた。
その時、『さあ――両者の入場です!!』と審査人が言った。
それと共に格子門が跳ね上がり、ここに二人の剣闘士が姿を現していた。
『東の剣闘士は――もはや皆さんご存知の、ミドルクラスだが実力はハイクラス並み! ラッキーソードのロラン・ノールド! かつてはラッキーと呼ばれたその剣も、今や誰もが実力として疑わない!幸運が絶対となる様を、今日、観衆に見せ付けてくれるのか?! 期待が一身に集まります!』
ロランは東門から歩み出ると、真っ直ぐに前を見据えていた。
それに対して西門から歩み出てきた剣闘士は、深紅の長い髪を風に靡かせている、金属製のスケイルアーマーを身につけたヒューマン族の剣士だった。左腕に円状のバックラー《小盾》が取り付けられており、腰には赤塗りの鞘に収まった剣が吊り下げられている。
『西の剣闘士は――ハイクラス、イフリートブレイド《火炎王の刃》のジーク・ライラナード! イフリート《火炎王》の名前に恥じない魔導士の如く自在な炎捌きを見せてくれる、炎の魔剣の使い手です! 女王の前に立つのは、王の名前こそ相応しいと言わんばかりの、堂々たる風貌です!』
その説明を聞いたとき、シャルロッタが呟いた。
「この試合……ロランの勝ちが確定しましたね」
「え?」とクレハは聞いていた。
シャルロッタは真っ直ぐに舞台を見ている。
試合が始まるより前から勝ちとわかる、そんな裏付けをシャルロッタは持っている。
(相手は魔剣使い。ロランも魔剣使い)
クレハは目を細くすぼめていた。
(この試合にきっと――イルヴァを破る秘策があるということね?)
クレハはそれを確信していた。
クレハやシャルロッタ、その他の観衆たちが見守る前で、ジークもまた規定の位置まで歩み出ると、そこで立ち止まってロランを目の前に見据えるようになった。
『今、両者が向かい合いました! 本大会は階級無制限マッチですが、もはやここまで来ると、剣闘士のレベルはハイクラスの大会と変わりません! さあ、今日もどんな熱い試合を魅せてくれるのでしょうか?!』
『両者――構え!』と、審査人が言った。
ロランが青白い輝きを放つ漆黒の魔剣を両手で構えるのに対して、ジークが腰から引き抜いた魔剣は湾曲した二つの刃が絡み合うような形をしており、パチパチと紅い炎が爆ぜながら剣身を覆っていた。そして剣身の下部にはびっしりと何か紋様が刻まれている。恐らくはエルフ族が作るという刻印剣の一種だろう。
ジークはそれを右手で構えていた。
『――始め!!』
審査人の声と共に、鐘の音が鳴り響いた。
「まずは小手調べと行くか?」
そう言ってジークは剣を振り上げた。
「鉄は切れても、炎は切れまい!」
言うが否や、ジークは剣を横薙ぎに振り払う!
すると炎が刃の形を取り、ビュオッ! とロランに襲い掛かって行った。
ロランはそれを跳んで避けるなり、着地した面を足で蹴って斬りかかっていた。
「ハッ!」
ロランの振り下ろした剣をバックラーでガッチリと受け止めた後、ジークは剣を振るう。
ロランが後ろへ飛び退くと、それを追いかけるようにして炎が襲い掛かってきた。
「チッ……!」
ロランは剣を振るい炎に叩き付けていた。
すると炎は、掻き消えるようにしてその場から消失したのだ。
ザワッとどよめく観衆の声を聞きながら、ジークは眉を潜めていた。
「……その剣、炎も斬れるのか?」
「そうみたいだな」とロランは微笑しながら、すぐに正中線上に身構えた。
目を閉じて息を整えるロランの姿を見て、ジークは表情を険しくしていた。
「させるかッ!!」
叫びながら、ジークは剣を大きく振り下ろす。
すると今度は火柱が立ち上り、真っ直ぐにロランへと突っ込んで行った。
「フッ!」
目を開けたロランは細く息を吐くと共にその炎を断ち切ると、そのまま一直線にジークへと突っ込んでいた。
「ハァッ!!」
思い切り剣を振り下ろすが、ジークは後ろへと飛び退いて回避していた。
(集中が途切れるとダメか……)
ロランは呼吸を整えながら、自らも後ろへと飛び退いて距離を取っていた。
「距離を取っても無駄だ!」
ジークがまた剣を振るうと、火柱が再びロランに襲い掛かった。
「それを言うなら、そちらも無駄だぞ!」
言うが否や、ロランはまた剣で炎を掻き消していた。
しかしそれを予想していたジークは、特に動揺した様子を見せなかった。
「……じゃあ、これはどうだ?!」
ジークが今度は、手に持った剣を右から左へと一直線に線を引くように横へ動かすという奇妙な動きを見せた。
次の瞬間、ジークの姿を覆い隠すようにして、二人の間に長い炎の壁が出現したのだ。
「……?!」
ロランは驚いたものの、剣を構え直しながら、冷静にその壁を観察していた。
燃え盛る炎がジークの位置を完全に隠してしまっている。
(さすがにハイクラスの魔剣使いはワケが違うか……。さて、どこから来るつもりだ……?)
ロランはじっと息を殺しながら、炎の壁を睨み付けていた。
しばらくの間、炎の燃え上がる轟々とした音のみが舞台を支配していた――その時!
ロランの右手側の壁から、ジークが飛び出してきた。
「ハアァッ!」
ジークが振り上げる剣がまとう炎が、いっそう大きな火炎を形作るようになる。
「燃えろッ!!」
ブウン!! と、二メートルほどの大きさになった炎の剣が一気にロランに襲い掛かってきた!
「グッ……?!」
距離感を見誤ったロランは、慌ててバックステップしたものの、炎の舌先は更に伸びて襲い掛かってくる。
慌てて剣を頭上に構え、剣で受け止めることによって、炎を掻き消していた。
すぐにロランは攻撃に転じようとしたが、ジークはバックステップしながらまた剣をさっきのように動かして、二人の間に壁を作ってしまった。
「クッ……」
(どこだ……?!)
ロランは足を止めると、構え直しながらもきょろきょろと壁を見渡した。
すると今度は、左側からジークが飛び出してきた。
「ハアッ!!」
再びあの巨大な炎の剣を振るわれ、ロランはまた剣を叩き付けて掻き消す。
またジークはバックステップして剣を横に動かしたので、(また!)とロランは思いながら飛び出していた。
立ち上る炎の壁を壊そうとしてすぐに剣を叩きつけようとすると、ロランのすぐ横からジークが飛び出してきた。
「なッ……!」
驚いているうちに、ドンとバックラーを肩に当てられ、よろめくロラン目掛けてジークが剣を振り下ろしてくる。
「剣そのものなら掻き消せまい!!」
ジークは叫びながら、一目散にロランの胴目掛けて剣を振り下ろしていた。
次の瞬間、ロランの目が鋭くなる。
「……――穿てッ!」
腰を低く落としながら、その青白い光が灯る剣を振り上げていた。
ガチィン!! と、ロランの剣身が強かジークの剣身を打ち付けていた。
「そんなモノ!!」
ジークは剣に気合を篭めると、打ち合わされている剣身からロランの方へと炎が伸びて行く様相をイメージする。
イメージが魔力を帯びることで剣に伝わり、想像を現実へと変えるのだ。
……――しかし、炎は伸びて行かなかった。
「なんだッ……?!」
ジークは跳躍すると、ロランから距離を取りながら、右手に握り締めた剣を前へと構え――そして気付いていた。
「なっ、これは……!!」
ジークの握られている湾曲した剣身は――もはや一切の炎をまとっていなかった。
ただ、白く鈍い輝きを放つだけの“ただの金属”となって、ジークの手に収まっていたのだ。
「なっ、ななっ……!!」
あっ気に取られるジークの気持ちを代弁するかのように、観客席がどよめいている。
そんな辺りの動揺をよそに、ロランは体をジークの方へ向けると、ゆっくり構えを取る。
「……これが《精霊穿ち》。これが俺の魔剣の“真価”だ」
ロランは目を閉じると、呼吸を整えていた。
「そんな、馬鹿なッ、俺の魔剣が……!」
ジークはしばらくの間動揺を見せていたが、やがてロランを真っ直ぐに睨み付ける。
そんなジーク目掛けて、ロランは一気に跳んだ。
「ハアァッ!!」
気合の声が辺りを震わせる。
退くタイミングを逃したジークは、慌てて剣を構えてロランの剣を受け止めようとした。
――が。スパッと、ロランの剣はジークのスケイルアーマーもろとも剣を両断していた。
「ガッ、あぁ……」
ジークは後ろによろめいていた。
ガラリと剣が半ばからボッキリと折れ落ち、鎧もまたガラガラと床へ落下する。
鎧の下に身に付けていた生成りの服には、縦方向に線が走っており、じわりと血がにじみ出ている。
そんなジークの方へ、ロランはゆっくりと剣の切っ先を向けていた。
「チェック・メイトだ」
静かにロランが言う。
ジークはがっくりと膝をついていた。
「……俺の負けだ」
『イフリートブレイド今、降参しました! 勝者――ラッキーソード! ラッキーソードのロラン・ノールドが今、アブソリュートソード《絶対なる剣》としてここに立った!!』
ワアアァーッと歓声が巻き起こるようになった。
沸き立つ客席の中、シャルロッタはニコニコと笑っていた。
「やりましたね。勝ちましたね、ロラン!」
そう言うシャルロッタの横で、クレハは青ざめた顔をしていた。
「なにアレ……なんなの、あの剣は……!!」
まだ冷め止まない熱狂の中で、クレハはガタリと席を立っていた。
「私もう行く。またねっ、シャルロッタ!」
クレハは短く挨拶をすると、ばさりと翼を出してすぐに飛び立っていた。
そして加速しながら、思っていたのだ。
(早くイルヴァに知らせないと……! 次の試合……――)
「イルヴァは絶対に戦っちゃいけない……!!」
クレハは血相を変えながら、唇を噛み締めていた。
この日もイルヴァは椅子に腰掛けて本を読んでいた。
……といっても、半ば上の空だったが。何しろ今日は準決勝戦の日なのだ。
明日いよいよ、イルヴァは舞台の上に立つ。
(ロランが勝っているわよね……? 勝ってくれないと……承知しないんだから)
そう思っていると。
バンッ!! という音が窓から聞こえたから、イルヴァはビクッとしていた。
「な、なに?」
慌ててイルヴァが顔を向けると、そこにはクレハが窓に張り付いていたから、思わず息を飲んでいた。
「く、クレハ?!」
慌てて窓を開けると、クレハが部屋の中に飛び込んできた。そして。
「あいたたたぁ……」と、額を押さえながら蹲るようになった。
「そりゃ、そうでしょうね……」
イルヴァは呆れていた。
「それにしても、窓に体当たりするなんて、一体どうしたのよ? クレハっていつの間に窓と敵対していたの?」
「べつに窓が憎くて当てに行ったわけじゃないよ。ぶつかっちゃっただけだから」と、クレハは返していた。
しばらくクレハは蹲ったままじっとしていたが、やがて痛みが引いたようで立ち上がるようになった。そうしてから、「大変なんだよイルヴァ!」と言った。
「なにが?」
イルヴァはキョトンとした後、すぐに嫌な予感を覚えていた。
「ま、まさか。ロランが……」
「そう、そのロランが」
「負けてしまったの?!」
「勝っちゃったんだよ!」
クレハの言葉を聞いて、イルヴァは拍子抜けしていた。
「……なんだ。勝って良かったじゃない」
そう言うなり、再び元通り椅子に腰掛けたイルヴァの方にクレハは歩み寄っていた。
「良くないよ! だってロランは!!」
「だって、なによ?」
イルヴァはキョトンとしていた。
それから、テーブル越しにある椅子を指差していた。
「良いから落ち着いて、座りなさいよ。何が言いたいのかわからないのだけど」
「……それもそうだよね」
クレハは深呼吸をした後、テーブル越しにある椅子に腰掛けると、イルヴァと向き合っていた。
「あのね、今日の試合で……ロランが持っている魔剣の正体がわかったの」
クレハが切り出したことはそれだったため、イルヴァは表情を真剣なものへと変えていた。
「……それ、本当なの?」
身を乗り出すイルヴァに対して、クレハはこくんと頷いていた。
そして真剣な面持ちで、今日見た出来事を伝えていたのだ。
「今日の対戦者はハイクラスの、炎の魔剣の使い手だった。炎を色々な形にしてロランにぶつけるんだけど、ロランの剣はそれらの全てを掻き消してしまったの」
「それじゃあ……――ロランの持つ魔剣の効果は、スペルキャンセラー《魔法解除》ということ?」
するとクレハは大きく首を横に振っていた。
「私も最初はそう思ったんだけど、アレはそんな生易しいモノじゃなかった! アレは悪魔の魔剣と呼ぶに相応しい……恐ろしい真価を秘めていたの。だってアレが……あの剣が、対戦者の剣を打ち合った瞬間、相手の魔剣が“ただの剣”になってしまったから」
「……ただの剣、ですって?」
イルヴァは怪訝な面持ちを浮かべるしかできなかった。
何しろ、魔剣がただの剣になるなんて事、普通ならありえないのだ。魔剣は魔剣として鍛え上げられ、完成する。その剣そのものの形状や掘り込まれた刻印といったものが、魔剣としてのカタチを作る。だから例えば、剣を折ってしまうとか、何らかの方法で形状を歪めてしまうとかしない限り、その効果が途切れるはずが無いのだ。
だと言うのに、クレハはこんな風に言う。
「アレは本当に打ち合っただけだった。ロランの剣が相手の剣にぶつかった時に、魔力が消えて無くなるのが感じ取れたの。アレは本当に……――“消失”としか表現できない状態だった。魔剣から一切の、魔力を受け入れるための精霊の鼓動が……消えて無くなっていたんだよ……!」
クレハのその真剣な表情を見て――それが嘘や大袈裟ではないことを、イルヴァはすぐに感じ取っていた。
「精霊の鼓動の――……消失」
イルヴァはあっ気に取られながら、ゆっくりと椅子に座りなおしていた。
それが本当なら……――まさに精霊と一心同体である、イルヴァの戦い方では。
「……イルヴァはロランには絶対に敵わない」と、クレハが言った。
「だから、イルヴァッ……――次の試合は、棄権して! 絶対に戦っちゃダメだよ、ロランとは……!!」
身を乗り出して、クレハがそんな風に言った。
イルヴァはしばらくの間、そんなクレハをじっと見ていたが……やがて首を横に振っていた。
「そんなわけには行かないでしょう? 戦わずして敗北を選ぶなんて、それこそ剣闘士の名折れじゃないの」
「そんなことを言ってる場合じゃないよ! だってあの剣は、魔剣を精霊付加の無い“ただの剣”にしちゃったんだよ?! つまりイルヴァも同じようになるということ……つまりイルヴァは、イルヴァの精霊刻印は、消失してしまうという事なんだよ?!」
「…………」
イルヴァはぎゅっと拳を握り締めていた。
(永遠に剣闘士の舞台に上がることはできなくなるって……そう。そういうことなのね)
イルヴァは溜息をついていた。
「ロランも、随分と恐ろしい剣を手に入れたのね」
ぼそぼそとイルヴァは言っていた。
クレハは大きく頷いていた。
「そうだよ。ロランの剣は……あれは、反則だよ。サテュロスの魔剣なんて、この世に在っちゃいけないのに……!」
「……でも私は、ロランと約束してしまったのよ」
イルヴァはそう言っていた。
「次は舞台で会おうって……――ロランとそう、約束をしたの」
イルヴァは透き通ったその紺碧の瞳で、真っ直ぐにクレハのことを見据えていた。
「だから、私はこの勝負を降りられない」
キッパリと言ったイルヴァの姿に、クレハはがく然としていた。
「イルヴァ……!!」
「大丈夫よ、クレハ」
イルヴァは微笑んでいた。
「それが彼の選択というなら――これが私の選択だから」
クレハは息を飲むと、恐る恐る確認していた。
「それが……あなたがこれまで作り上げてきた、剣闘士を壊すような事になったとしても……?」
イルヴァは唇を噛み締めると、ゆっくりと頷いていた。
「もちろん、壊したくなんて無いわよ。けれど……――敵前逃亡なんて腑抜けな真似をするぐらいなら、誇りを胸に死んで行きたい。剣闘士なら誰だって、そう思っているんじゃないの?」
イルヴァのクレハを見つめる瞳には少しの躊躇いもなかった。
そこには強い芯が、そして彼女自身の高潔さが秘められていたのだ。
それを確かめた後、クレハは笑っていた。
「ふふっ、ふふふ」
急に笑いだしたクレハを見て、イルヴァは戸惑っていた。
「……クレハ?」
困惑した目を向けるイルヴァに、やがてクレハは笑いながら言っていた。
「いや、お姉さんは参ったよ。イルヴァは剣闘士の鏡だね。降参を確かめないのは、ただの乱暴な剣闘士なせいだと思っていたのに。違うんだ。純粋なんだ。純粋すぎるからこその鋭利さなんだね。まったく、子供らしいよね。単純で、純粋で、無垢で、素直すぎて……本当に子供っぽいんだから」
笑い続けるクレハの姿に、イルヴァはムッとなっていた。
なんだか馬鹿にされたような気がしたからだ。
そんなイルヴァに、クレハはふっと微笑み掛けていた。
「……でもそれが、イルヴァの良いところなんだね」
「っ……――」
目をぱちくりとさせて言葉を失くすイルヴァに手を伸ばすと、クレハは彼女の頭をよしよしと撫でていた。
「子供らしくて、上等じゃない。それだけ単純だからこそ“理想”になれたんだよ。そのひた向きさは、大人には真似できないことだね」
それからクレハは椅子から立ち上がっていた。
「賢い生き方とは思えないけれど、まあ……相手はロランだもんね。お姉さんは、許可することにします」
「はっ?」とイルヴァは、怪訝な表情を浮かべていた。
そんなイルヴァに、クレハはニコニコ笑い掛けていた。
「ロランには、きちんと責任取ってもらいなよ? ……まあ、それが出来ない稚拙な弟子なら、師匠としてこの私がぶっ飛ばしてあげるから安心してね」
「は、……はぁ」
イルヴァはキョトンとしながらも頷いていた。
「じゃあ、いつまでも居座るのも悪いから、そろそろ行くね。またね、イルヴァ」
クレハは手をひらひらと振った後、窓から身を乗り出して翼をバサッと広げていた。
そうして飛び去って行く彼女の後姿を見送った後、イルヴァは立ち上がると、ゆっくり窓を閉めていた。
「……クレハ」
窓越しに広がる空を眺めながら、イルヴァは溜息をついていた。
「……ああは言ったけれど、でも本当は、不安だし怖いのよ」
「――けれど」と、イルヴァは呟いた。
「……ありがとう。クレハの気持ち、嬉しかった」
誰に届くでもない独り言として囁いた後、イルヴァは微笑んでいた。