37.選び取る道・下
「ロランっ、大丈夫ですか?!」
シャルロッタがバタンと控え室のドアを開けた時、ロランは椅子に腰掛けて治療士の治療を受けていた。
傷は瞬く間に塞がって行き、完全に治癒を終えた後、ロランは苦笑交じりに立ち上がっていた。
「シャルロッタ。ここは剣闘士以外は入っちゃダメな場所だぞ」
穏やかな口調ながらも窘めつつ、ロランはシャルロッタにしっかりとした足取りで歩み寄っていた。
そんなロランの姿に、シャルロッタはホッと胸を撫で下ろしていた。
「良かった……傷は残らなかったのですね」
「うん。浅かったみたいだからね」
「ああ……良かったです」
シャルロッタは心底から安心した様子で溜息をついていた。
「あの、部外者は……」
言い辛そうに口を開いた治療士の方を、ロランは振り返っていた。
「ああ、わかってる。シャルロッタ、行こうか」
ロランに促され、シャルロッタは控え室を出ていた。
ロランとシャルロッタの二人は、いつものように連れ立ってソードパレスまでの短い道のりを歩いて帰った。
いつも一緒に歩く時、シャルロッタはロランの後ろを歩く。これは立てているから……ではなく、ロランの一挙一動をしっかりと監視するために文官省から言われている事だ。
ロランはソードパレスに居る間、自室以外はずっとシャルロッタ付きである必要があるのだ。
シャルロッタも、本来ならロランに対して事務的に接するべきなのだろうが、文官省の思惑とは別に彼女自身はロランのことを信頼していたため、今日もロランに話し掛けていた。
「あの……ロラン、謝りたいことがあります」
藪から棒にシャルロッタが言ったのはそれだったため、ロランは足を止めると振り返っていた。
「どうしたんだ? 急に」
キョトンとした目を向けると、シャルロッタはもじもじと俯いた。
「その、私、クレハさんに教えてしまったのです。ロランのザンテツには二秒の集中時間が必要だと。これって、剣闘士相手には教えてはいけないとクレハさんに聞いて。私は迂闊でした」
シャルロッタは反省した様子でしゅんとしていたので、ロランは目を丸くしたものの、やがて微笑むと、ぽん。とシャルロッタの頭に手を置いていた。
「大丈夫だよ。少し知られたぐらいで俺は負けないから」
「それに」とロランは続けた。
「本当にイルヴァを打ち負かす決定打になるモノは、ザンテツなんかじゃない。あんな技なんかで……元々彼女を倒せるなんて思っていないよ」
そう話しながら、シャルロッタの頭を軽く撫でた後、ロランは手を退けていた。
「この“精霊穿ち”がある限り……――俺はイルヴァに対して“だけ”は無敵になれる。クレハは気を揉んでいるようだけど、すぐにそれも無駄だと気付くだろうさ」
ロランはにっこり笑った後、またシャルロッタに背を向けて歩き出すようになる。
「そ……そうですよね」
シャルロッタは赤くなった頬を隠すようにして両手で覆いながらも、こくんと頷いていた。
ロランがコロッセオからソードパレスへ戻ると、真っ先に向かう先があった。
それは王の私室である。
いつも試合に勝つ度に、ロランは直接報告の為に足を向けるのだ。
とはいえ、近頃では父に会いに行くたびにモヤモヤとした雲が掛かったような気持ちになる。
(父さんの真意は何なんだ?)
(父さんは俺のことをどう思っているんだ?)
(父さんは現状をどう受け止めているんだ?)
(父さんは何故、イルヴァをあそこまで叩きのめそうとしているんだ?)
様々な疑問が頭の中を去来し、幾つもの可能性が頭をもたげる。
このソードパレスで見る父というのは、ただただ荒くれ者で身勝手で野蛮に見える。
しかしロランの記憶の父は、いつも優しくて強くて尊敬できる存在だった。
その乖離した両者のイメージの間でぐらつく度に、ロランを支えているものがある。
それは、訓練の間に見せるマティアスの顔だった。
「良くやったな」と、「筋が良い」と、「お前はさすが私の息子だ」と。
そんな風に言われる度に、ぐらついた心は元の位置へと立ち戻る。
(父さんは俺の尊敬できる父さんであって、野蛮に感じることの方が間違いなんだ)
そんな風に言い聞かせながら、今日この日までやって来た。
きっと父がこんな大会にしたのは、父なりの考えがあるに違いない。
ロランはそんな思いにすがり付いて、自分の行動を正当化していた。
父が認めてくれる。シャルロッタも後押ししてくれる。文官省のお墨付きだってある。
(――だから、俺の行動は間違っちゃ居ないんだ)
ロランは今日もそんな風に自分に言い聞かせながら――マティアスの部屋のドアを叩こうとして手を持ち上げていた。その時。
「貴様ッ、何を考えているんだッ!!」
マティアスの割れんばかりの怒声がドア越しに聞こえ、ロランはビクッとして手を止めていた。
代わりに、シャルロッタの方を振り返ると、目を合わせる。
その間にも、再びドア越しに怒声が聞こえてきた。
「精霊研究魔導士養成所を襲撃したんだって?! おかげで俺は文官省に睨まれるようになった!! 全ては貴様のせいだぞ、ジュードッ!!」
「……――」
ロランは息を飲んで、ゆっくりとドアの方を振り返った。
「ジュード……だって……?」
全身に熱が巡って行くのを感じる。
(……ジュード……戻ってきたのか……!!)
怒りに震えるロランをよそに、ドア越しの会話は続いている。
「しかし、親父!」とジュードの声が言った。
「親父がこの剣をくれた時、俺に言ったじゃないか! “弱者が俺の息子を名乗られても困る。剣闘士として表舞台に立つ前に、お前は強くなれ。”って! だから俺は、親父の言いつけ通りに国中を回って、この剣に力を与え続けた!」
「確かにな、俺はそう言ったさ。だがな!!」とマティアスは言い返した。
「誰が魔導士養成所まで壊して良いと言った!! 俺が貴様に許してやったのは、エルフ共の隠れ里までだ!! あそこは文官省の管轄でない上に、エルフ共が持つ良質な魔力が手に入るからだ。それなのに、俺の言いつけを破りやがって!!」
「……――!!」
ロランは言葉を失っていた。
暗転。世界の全てのひっくり返ったような衝撃だった。
(そ……んな……)
がく然と立ち尽くすロランの耳に、尚もドア越しの会話が聞こえてくる。
「そんなメンドクセェ事、いつまでもできるわけがないだろ?! ブレイディア王国の地図に無いエルフ共の隠れ里を見つけるのに、どれだけ手間が掛かると思ってんだよ!!」
「だからこの俺が文官省を説き伏せて、知っている隠れ里の位置を二、三箇所は出させただろう!! 俺の親心を踏み躙りやがって!!」
「なにが親心だよっ! 俺はわかってんだぜ? 親父だってホントは参加したかったのが、文官に睨まれるから、代わりに俺にこんな剣を持たせたんだろ?! 本当は他の魔剣でも良かったはずだぜ。俺は強いからな。でも親父はあえて精霊喰いを俺に持たせたんだ。魔力を喰らえば喰らうほど強くなるこの剣をな! でもそれはただの理由作りであって、本当はエルフ狩りを間接的にでも満喫することで、日ごろの鬱憤を晴らしたかったんだろ?」
「フン……そこまで知っていて、魔導士養成所に手を出すのが愚かしいと言っているんだ!!」
そんな半ば喧嘩になっている会話を聞きながら、ロランはもはや身動きが取れなかった。
ただ、上げていた手が震えていることに気付くと、ゆっくりと降ろしていた。
ただ黙り込んで肩を震わせている彼の背中に、シャルロッタは恐る恐る声を掛けていた。
「……ロラン」
名前を呼ぶと、ロランはゆっくりと振り返るようになる。
「シャルロッタ……俺は……!!」
ロランは唇を噛みながら、涙をぼろぼろと零していた。
だからシャルロッタは言葉を失くしていた。
そんなシャルロッタを押し退けると、ロランはこの場から逃げるように早足で立ち去ってしまった。
「ろ、ロラン!」
シャルロッタが慌てて大声を出したから、ドア越しの親子喧嘩がピタリと止まった。
立ち聞きしていることを知られた事を察したものの、シャルロッタは剣王に挨拶をすることもせず、ロランの後を追い掛けていた。
ロランは一人になりたくて、自室へ戻っていた。
ドアを乱暴にバタンと閉めると、力任せに拳を壁に打ち付けていた。
「俺は何をやっていたんだよ……!!」
涙が溢れ出して止まらなかった。
拳がズキズキと痛んで血がにじむのがわかっても、この行き場の無い憤りは、悔しさは、悲しさは、虚しさは、収まらなかった。
「父さんが……ジュードに、あんな事をさせた」
(そんな事ッ……わかってただろ……?! ジュードは父さんの息子なんだぞ……? 父さんはジュードの親なんだぞ……?)
「……父さんは優しい剣闘士なんかじゃない」
ロランは拳を更に硬く握り締めていた。
(イルヴァが言っていた通りなんだ。俺が見ていたのは幻想の父親で……。俺が仕出かした事は……!!)
「なんでだよ!! なんでこんな事になるまでッ……俺は……!!」
ロランは壁にガンガンと頭を打ち付けていた。
その時、コンコンというノックの音が聞こえたのだ。
「…………」
黙り込むロランの耳に、声が届いた。
「私です……シャルロッタです。ドアを開けてください」
「帰ってくれ!!」とロランは叫んでいた。
「今は誰にも会いたくない。“お前”にだって、会いたくない!!」
ロランの言葉を聞いて、シャルロッタは黙り込んでいた。
しかし立ち去ろうとしなかったのは、……彼の声が泣いているように聞こえたからだ。
ずっとドア越しに立つシャルロッタの気配はロランに届いていた。
だからロランは苛々をぶつけるように、シャルロッタを怒鳴りつけていた。
「お前は最初からこうなる事を知っていたんだろ……知っていて、こんな下劣な計画に!! “あのジジイ”を満足させるためだけの悪趣味な道楽に、俺を巻き込みやがって!!」
「……ロラン」
シャルロッタはドアに両手を宛がうと、静かな声で話し掛けていた。
「私は知っていたわけではありません。……でも今のあなたにとって、この言葉は言い訳にしか映りませんよね? ――……私たちは」シャルロッタは話し始めた。
「いえ、正確には文官省は――剣王のあの性格を知っていました。理解した上で、あなたを剣王に引き合わせました。そうすれば剣王はジュードの処分を彼が許される権力の範囲で、彼なりの手段で……要するに、舞台の上で懇意の剣闘士と戦わせる事によって処刑するだろう、と。そこまでは読んでいました。何故なら剣王は、子息を飾り物として見るような人物だったからです。剣王にとって息子とは、彼自身の一番大切なものを得やすくするための“道具”でしかないのです。だから剣王は、息子が誰であっても構わなかったのです。剣王自身の名声を高めるための強ささえ持っているなら」
シャルロッタの話は、余りにも辛辣にロランの胸に突き刺さった。
それはロランに現実を叩き付けてくるせいだ。ロランが目を背けたかったことを、今尤も戸惑いと苦しみの原因になっているものを、改めてまざまざと見せ付ける。
だからロランはあえてドアとは反対の方向へ視線を向けながら、吐き捨てるように言っていた。
「……そんなものを俺に聞かせて、何がしたいんだよ」
「聞きなさい、ロラン」とシャルロッタが言った。
それは普段おっとりしている彼女には珍しい、がんとした口調だったから、ロランは逆に驚いて口を閉ざしていた。
「剣王が一番大切にしているものとは何か、――それは女性なのです。次に彼が好きなものが、人の死です。でもそれだって、どちらも彼自身の征服欲を満たすために存在しているものです。彼は歴代の剣王の中でも……剣王の椅子をこよなく愛している、蛮人なのです」
ロランは首を大きく横に振っていた。
「……だからなんだよ。俺には関係の無いことだろ?」
「いいえ、ロラン。これが本当にあなたが知りたかったことのはずです。自分の父親の本当の姿を、あなたは知りたがっていたはず」
「黙れッ!!」
「いいえ、黙りません!!」
シャルロッタは声を荒げていた。
それによってロランは、たじたじとなって口を閉ざしていた。
(……なんでシャルロッタは)
そんなロランに、シャルロッタがハッキリとした口調で言う。
「あなたは聞くべきです。聞かなければいけません。何故なら、物事を嘘で覆い隠してはいけないから。正直に、素直に、全てを見つめるべきです。そのためには、自分自身に対しても嘘を吐いてはならないのです。自分にとって正しく在らないと、他人にとっても正しく在ることはできません」
「今のあなたは」と、シャルロッタは続けた。
「自分自身を誤魔化し続けているはずです。誰かのためとか、誰かが言っているからとか、そんな風に言い訳して。そうではなくて、あなた自身が選び取るべきなのですよ。あなた自身が、自分の意志で選び取った正義でなければ……誰の心も動かすことはできません」
「…………」
ロランはもはや、シャルロッタに何も言い返そうとしなかった。
沈黙を続けるようになったロランの様子を悟ると、シャルロッタは再び穏やかな口調に戻って、ドア越しに話しかけた。
「正直な所……剣王のあの“しっぺ返し”は文官省にとっても予想外でした。ですが、既に起こってしまったことですから、それを踏まえた上で対処しなければなりません。私と違って、あなたには出来ることがまだ多く残されているはずです。逃げてはいけませんよ、ロラン。……尤も、この言葉は、私自身がイルヴァやクレハさんから言われたことですが」
そう言ってからシャルロッタは小さく笑っていた。
「……イルヴァが」
ロランはぎゅっと目を閉じていた。
やがてシャルロッタの気配がドアの前から立ち去ってゆくのを察知してから……目を開けていた。
もうロランは泣いていなかった。
ロランは壁に押し付けたままだった拳をゆっくり離すと、ぽん。と反対側の手の平に軽く打ちつけていた。
「……迷ってなんかいられないよな。だって俺は……俺なんだ。他の誰でもない。……俺なんだ」
ロランは吹っ切れた気持ちと共に、真っ直ぐに前を見据えていた。
そうしながら、これからのことを考えていた。
自分はどんな結果を求めているのか、自分は何をなすべきなのか。
(見てろよ。俺はもう迷わない。俺は……俺になるんだ)
ロランは固くそう誓っていた。




